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蜂蜜製造機弐号  作者: 酒田青
高校二年生 二学期
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文化祭の朝

「ああ、緊張する」

 文化祭の朝、わたしは玄関で靴を履きながら母に話しかけていた。お弁当を持って控えている母は、勢いよくうなずいた。

「そうね。でも、歌子ちゃんならできるわよ。楽しみにしてるわね」

 文化祭の劇を観に来ると言ったのは本気のようだ。わたしはにわかに体が固くなるのを感じた。こういうものは、小学校の学芸会以来ではないだろうか。

「頑張れよ」

 ネクタイを締めながら、父が廊下に出てきた。わたしを応援するときの笑顔だ。わたしはようし、と声を上げて立ち上がる。

「頑張ってくる。今日はご馳走にしてよね。行ってきます!」

 そう言って、玄関のドアを閉めた。両親は共に笑って手を振っている。

 花や木が植えられた家の敷地を出て小さな門を閉めていると、声をかけられた。見ると、拓人だった。朝の登校で一緒になるなんて、久しぶりだ。彼は顔を強ばらせながら挨拶をした。緊張しているらしい。

「聞こえてきたんだけど、今日はご馳走なの? 歌子んち」

「うん。だって優勝するから」

 拓人は呆れたようにわたしを見詰め、ため息をついた。わたしたちは朝の街を歩きだす。

「目標高いな。おれなんて最後までちゃんとやれれば満足だよ」

「自信なくなってるじゃん。リハーサルのとき、皆上手にやれてたよ。目標は高く持とうよ」

 わたしの鼻息の荒さに、拓人はにっと笑った。

「歌子がこんなに一生懸命何かやるなんて、珍しいよな」

「失礼な」

 冗談っぽく言って、わたしは笑った。拓人と並んで歩くのは、昔からいつも楽しい。学校が見えてきた。生徒が大勢、校門に吸い込まれていく。わたしたちも中に入り、校庭を歩く。

「篠原のお陰なのかな」

 拓人は、ぽつりと言った。わたしはきょとんとする。拓人はわたしのほうを見て、笑みを浮かべながら続けた。

「前は、歌子がふわふわ生きてる感じがしたんだ。根っこがないみたいな、そんな生き方。そりゃあ、おれは歌子がわがままなことも色んな好き嫌いも知ってるから、生きてないなんて言わないよ。けど、何だか皆の前では生きてないみたいに見えたんだ。でも、篠原とつき合うようになってからかな、ちゃんと生きてる感じがするようになって、劇を練習するころにはもっと現実感が増してきた気がしたんだよ」

 わたしって生きてない感じがしたのか。少しどきりとする。あまり執着せず生きてきたのは確かなので、傍目にはそう見えていたのかもしれない。

「総一郎は、わたしに命を与えてくれたのかもしれないね。総一郎のことで焼き餅焼いたり、一緒に過ごしたり、キスしたり抱き締め合ったり。そんなことやってると自分はこの世界に存在するって思わざるを得ないからね」

 拓人がわあ、と頭を抱えた。

「やめてくれよ、キスしてるとか抱き締め合ってるとか……。生々しいだろ」

 わたしは少し恥ずかしくなって、笑った。

「拓人だから言ったんじゃん。拓人だって片桐さんとしてる癖に!」

 すると、拓人は一瞬無表情になった。それから笑みを作り、

「余計なお世話だよ」

 と言った。わたしたちは生徒用昇降口に入り、それぞれ上履きに履き変えた。階段を上がる。わたしは拓人の様子が心配になって訊く。

「今、片桐さんとうまく行ってる?」

「気にしなくていいよ。今は劇のこと考えよう」

「でも」

「おい、おれたち主役だろ? 主役はプライベートのことは忘れて役に没頭しないと」

 わたしは拓人の笑顔を見て、ためらいながらうなずいた。これ以上突っ込んだら、何だか悪い気がした。そのまま教室の扉を開くと、クラスメイトたちが一斉にこちらを向いた。皆、緊張している。いつもだったら朝のこの時間は騒がしいのに、静かだ。

「おはよー」

 拓人がわざと明るい声で挨拶をした。「おはよう、主役」などと返されて彼は笑っている。わたしも後ろから教室に入る。挨拶をすると、教室中から返ってきた。けれど、美登里ちゃんは音響係の仕事の復習に余念がないし、大谷さんは出演者の男子数人に何か気合いを入れている。他の出演者たちも、それぞれ小さく固まってお互いの強ばりをほぐそうと頑張っている。井出さんが声をかけてきた。

「どう? 町田さん。緊張してる?」

 彼女は大道具係だったので、今日の仕事はないらしい。比較的くつろいでいる。わたしは周りの空気が伝わってしまったのか、体がまた固くなったのを感じていた。

「緊張してるよー」

「この劇は町田さんにかかってるんだからね。応援してるよ」

「ありがとう」

 そうは言いつつも、更なるプレッシャーがかかってしまった。わたしは自分の席のフックに鞄をかけると、座ろうと椅子を引いた。けれどすぐにそれをやめて、また歩きだした。誰かが「どこに行くの?」と訊いたので、笑って手を振って教室を出た。

 廊下を歩いて二組に入り、総一郎を呼びだした。総一郎のクラスはわたしが現れることにもう慣れっこで、騒いだりしない。総一郎は不思議そうな顔をしてやってきた。わたしは手招きをして、テラスに連れていく。それから教室側から見て死角になる位置に彼を押し込み、体に抱きついた。

「え、歌子?」

 彼は戸惑っているようだが、わたしは彼の体の温かさを感じながら落ち着いて行くのがわかった。制服の防虫剤の匂いがするのさえ、心地いい。そのまま五秒くらい抱きついて、彼の腕が背中に回ってきたときに、わたしはぱっと離れた。混乱した彼に、

「やっと落ち着いた。ありがとう!」

 と笑いかけて、教室に向かって走り出した。振り返って手を振ると、彼はぽかんと立っていた。

 教室に入るとクラスメイトたちは相変わらず緊張していたが、わたしはそれに影響されることはなかった。総一郎は、安定剤だ。田中先生が入ってきて、ホームルームが始まる。

「今日は文化祭です。はしゃぎすぎないように」

 田中先生は珍しく笑いながら言った。多少ならはしゃいでもいいということだ。いよいよ、始まるのだ。

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