劇のリハーサル
夏休みの残り日数が指で数えられるくらいになってきた。わたしは平日に毎日ある夏期講習で息切れしそうになりながら、劇の練習、学校の課題をこなして休日も平日もないような日々を送っていた。高校がこんなに大変なものだとは思わなかった。部活をやっている生徒はもっと大変だろう。
あのあと、総一郎は剣道部に入ってほとんどの日を稽古にあてているようだった。書道部に費やすのは平日のうち二、三日。それ以外の日は毎日稽古だ。表情が引き締まってきたように思う。岸と試合をしたときの、眉が吊り上がった鋭い顔、あれに近い表情をよく浮かべている。格好よくなったなと思う。先週の夏期講習のあと、総一郎がふとわたしに会いに来たのだが、そのとき美登里ちゃんが「篠原君、前より素敵になったよね」と言ってくれた。わたしは誇らしくてにっこり笑ってしまった。謙遜しないものだから、美登里ちゃんは呆れつつ笑っていた。
そしてわたしは今日、劇のリハーサルだということで体中を強ばらせていた。この日、二年生は午前中にまとめて劇のリハーサルをするのだ。本番と同じ状況でやるということで、音響係の美登里ちゃんも緊張している。わたしたち出演者や、田中先生、監督の大谷さん、音響係、照明係など本番で忙しくするメンバーは先に体育館に行き、舞台の袖の、わたしたちより前にリハーサルをやっていたクラスが残した道具などを眺めながら、舞台に上がって準備をした。舞台から見下ろす体育館は、むやみに緊張感がある。がらんどうで、一番向こうの壁がひどく遠く感じられる。バスケやバレーのための線が無数に引かれ、赤い輪に白いネットのバスケットゴールが四ヶ所に取り付けてある。一番大きな扉が正面に、中くらいの出入り口が右に二ヶ所、勝手口のような小さな出入り口が左にあり、クラスメイトたちが入ってくるとしたら正面の扉だ。そう、クラスメイトが見るのだ。大道具係や小道具係、衣装係などのほとんど仕事を終えたメンバーたちが。わたしは怖かった。クラスメイトに認められていないわたしがクラスの劇の主役なんて、どうしてやれると思ったのだろう?
「歌子、緊張してる?」
舞台の真ん中で呆然としていると、拓人が声をかけてきた。彼もまた、顔を強ばらせている。
「おれも緊張してる」
わたしはにっと笑ってみた。唇の端がなかなか上がらなかった。拓人はそんなわたしを見ながら微笑む。
「歌子が崩れたらおれも崩れちゃうんで、どうにか頑張ってくれよ」
「そんなあ」
「おれたち皆、歌子を頼りにしてるんだよ。練習のときだって、歌子が一番失敗が少なかっただろ? この劇は歌子にかかってるんだよ」
わたしは舞台の袖にいる木田君たち出演者を見た。彼らは強ばって萎縮した様子を見せながらも、わたしを見て手を振って笑ったり、握り拳を作ったりしていた。少なくともわたしは、このメンバーに信頼されているらしい。大谷さんがやってきた。すっかりわたしと仲良くなった彼女は、わたしを絶対的に信じている。
「町田さん、プレッシャーなんかに負けないで。とにかくこれを本番だと思ってやってくれればいいから」
彼女を裏切るわけにはいかない。わたしはうなずき、衣装の暑苦しいジップアップのファスナーをきゅっと上げた。
リハーサルを見に、クラスメイトたちが集まってきた。わたしたちは彼らがいる場所とは壁と扉で仕切られた舞台の下のスペースで、円陣を組んでいた。大谷さんが声を上げる。
「絶対成功させるぞ」
おう、とわたしたちは応え、本当に本番さながらの気合いで劇を始めた。
わたしは舞台にかけ上がり、臙脂色の幕が左右に開くのを待った。舞台には背景と大道具のベンチだけが見える状態だ。そこにわたしが出ていく。一人芝居を始める。
わたしが演じるのはケイという少女だ。元気一杯で明るい彼女を表現する。わたしは手を広げ、舞台全体を使いながら彼女の性格を印象づけるべく動き回る。舞台の下を見る勇気はない。見えてはいるが、意識に上らせるのは危険だ。わたしは大きな声で台詞を言う。声は震えてしまった。
彼女は学校帰りに見かける少年が気になって仕方がない。いつも同じ時間に同じ道を通るのだ。加藤さん演じる友人に話す。『いつも通るのよ。何をしている人なのかしら?』加藤さんはわたしを見ながら励ましてくれているように思えた。彼女の台詞一つ一つがわたしを落ち着けていく。
そして拓人演じる少年ユウが現れる。彼は一人歩いている。彼はパトロールロボットで、こうして決まった時間に歩いて市民の安全を確認するのが仕事なのだ。そして彼も、いつも自分を興味津々に見るケイのことが気になって仕方がない。『彼女は人間らしい。ぼくは人間ではないけれど』
ケイはとうとうユウに話しかける。たくさんの質問をするが、ユウははぐらかしてばかりだ。それに、心のこもっていない儀礼的な笑み。気になって仕方がないケイは、ユウに毎日声をかける。ケイとユウは次第に惹かれ合うようになっていく。
しかしユウはパトロールロボットだ。彼の素性が知れないということで、ケイは両親や友人に責められる。一方ユウも、人間に恋をしてしまったということで仲間のパトロールロボットや彼を管理するコンピュータ「マザー」に諦めるように言われる。それでも互いに対する思いを断ち切れない二人は、会い続ける。そして話は結末へと転がり出す。
わたしは、自分がケイになってしまったように感じていた。別の人生に生きているような、不思議な感じ。舞台の袖に引っ込むとそれは消えるが、舞台に出るとそのたびに生まれ変わったような気分だ。
最後の、悲しくも希望ある場面で、劇は終わった。わたしのふわふわとしたおかしな感じは、そこで消えた。幕が閉じ始めた。拍手の音と、ささやき声が聞こえてきた。わたしは、ああ、うまくやったんだな、と思った。
大谷さんがすごい勢いで飛んできた。わたしの手を握り、「よかったよ!」と叫んだ。
「町田さんも、浅井君も、皆みんなよかった!」
わたしたちは息をつき、お互いを見て笑い合った。いつも毒舌を吐く久山さんが、彼女だけの特別で重そうな衣装を引きずりながら泣いていた。よほど緊張していたのだろう。そんな彼女に対して、ロボット役の北島君と中田君がそれぞれの慰め方をしている。まるで本番が終わったかのような盛り上がりだ。美登里ちゃんがやってきた。わたしの手を握り、「感動したよ」と言ってくれた。
「皆のところに行こうか。うー、感想気になるね」
大谷さんがわたしたちに声をかけたので、どきどきしながら扉を開いて狭い物置のような場所から出た。クラスメイトたちは、わたしたちを見ていた。笑みを浮かべていた。拍手をし、中には涙ぐんでいる女子もいる。わたしたちは本当にうまくやったらしい。
拓人は当然のように女子たちに囲まれて騒がれていたが、わたしの周りは静かなものだ。劇の出演者と美登里ちゃんで、それぞれの問題点などを話すくらいだ。
突然、肩を叩かれた。振り向くと、女子が数人、笑いながらこちらを見ていた。皆、わたしを無視していた女子たち。構えて、「何?」と訊く。井出さんというレイカと仲のいい女子が口を開いた。
「すごく上手だったよ、町田さん。びっくりした。あんな才能があるんだね」
わたしは一瞬ぽかんとして、それから笑みを浮かべて「ありがとう」と答えた。井出さんなどはわたしに主役を押しつけようとした張本人だから、複雑だ。けれど、彼女の笑みには本当に賞賛する気持ちが込められていた。何より、不意打ちだったので今までのことを一瞬忘れてしまったのだ。
「そうそう、町田さんすごいよね。度胸あるよね」
「わたし、感動した」
井出さんの仲間の女子が口々にわたしを褒める。おかしな気分ではあったが、悪い気はしない。
しかし、彼女たちがこうも自由にわたしを褒めるのには理由がある。レイカはこの日、サボっていていなかったのだ。彼女がおらず、見張る目がないから井出さんたちはわたしに話しかけたのだ。彼女たちは複雑で構造を次々と変える、一個の生き物みたいに見える。この劇と、レイカの不在は彼女たちの形をまた変えたように感じた。
たくさんの女子や男子がわたしに話しかけた。その中に、舞ちゃんはいなかった。わたしが坂本さんに話しかけたのをきっかけに離れていった彼女は、自分の意志でわたしを無視しているのかもしれない。悲しいが、次々と話しかけられるので気にしている暇がなかった。坂本さんは、もちろんわたしに距離を置いていた。