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蜂蜜製造機弐号  作者: 酒田青
高校二年生 一学期
69/156

剣道

「歌子、大変大変!」

 あれから十日ほど経った月曜日、夏期講習を終えて自分のクラスの机を後ろにやっていたときに、渚がすごい勢いでやってきた。クラス中が渚に注目している。

「何?」

 驚いて廊下に出ると、渚がわたしの手を引っ掴み、走り出した。渚は中学時代に陸上部をやっていただけあって、足がとても速い。わたしは自分の限界を超えた速さで走った。

「廊下を走るんじゃない!」

 男性教師がわたしたちを叱った。けれど渚は気にしない様子で走り続けた。階段はさすがにわたしに合わせてくれたが、一階に着くなりまたわたしを引っ張ろうとする。

「渚、ちょっと待って!」

 渚はわたしの一言でとまり、「待ってられないよ」とじれったそうだった。そこでわたしは渚が急かすまま、靴を履いて校舎前を走り出した。向かった先は小体育館だ。

 小体育館の前で、ようやく渚がスピードを落とし始めた。わたしはぜいぜい息をしながら、渚と一緒に中を覗いた。総一郎と目が合い、どきっとした。しかも彼は紺色の剣道着と袴を身につけていて、いつもと雰囲気が全く違っていた。総一郎は、わたしから目を逸らすと体育館内にある剣道部の部室に入っていった。

「歌子さん!」

 甲高い声がしたのでびっくりして振り向くと、総一郎の弟の優二君だった。どうしてここにいるのだろう。そもそも、総一郎はどうして剣道着を着ているのだろう。わからないことだらけだった。

「兄ちゃんが勝負するんだよ。見に来たんでしょ?」

「勝負?」

「総一郎、護と試合するんだって」

 渚が言うので、わたしは素っ頓狂な声でええっと声を上げた。優二君はどこか自慢げに言う。

「兄ちゃんが忘れ物したから、おれバスに乗って持ってきたんだ。岸君が一緒みたいだったから、こっそり兄ちゃんの剣道着持ってきて、勝負してよって頼んだの。岸君、兄ちゃんのライバルだったんだよ。すげー強いの」

 つまり、総一郎のライバルである岸が一緒にいるのを知って、兄に彼と勝負させようと剣道着を持ってきたらしい。総一郎も、優二君の頼みには弱いのだと見える。

 制服を着た剣道部らしい男子生徒と共に、岸が出てきた。防具を全て身につけている。続いて、総一郎。防具は借りたのだろう。彼は面を腕に抱えていて、真っ直ぐに岸を見ていた。目つきが違っていた。つり上がっていて、何だか怖い。深呼吸をし、面を被った。二人とも、向かい合って立つ。間に、剣道部の生徒が立った。

 しんとした中、二人は礼をした。前に進んでしゃがみ、竹刀を合わせる格好をする。審判役の剣道部の生徒が、始め、と声を上げた。二人はすっと立ち上がる。緊迫した空気が、辺りに広がった。

 二人とも、竹刀を相手に向けながら間合いを測っていた。お互いの竹刀が届く位置で、それらをぱちぱちと軽くぶつけ合う。二分ほど経ったとき、岸が大きなかけ声をかけて総一郎に向かっていった。しかし総一郎がそれを竹刀で受けとめ、何度か竹刀をぶつけ合ったあと、また元の間合いを測る状態に戻った。

 岸は五月から剣道部の副主将だった。ブランクのある総一郎が勝てるのか。わたしは手を合わせて祈った。

 ある瞬間に、突然動きがあった。総一郎が岸のほうに踏み込んだのだ。彼はこちらが怖くなるほどの気迫のあるかけ声を上げて、岸の面を打った。審判は総一郎が一本取ったことを示した。わたしはほっと力を抜いた。

 再び試合が始まる。岸は探るような動きが減り、思い切った攻撃に出るようになった。総一郎のほうも、硬かった動きが滑らかになってきた。竹刀の先を何度も合わせる。総一郎と岸は何度かお互いの間合いに踏み込むが、決定的な一撃を打てない。しかし岸が動いた。かけ声を出し、総一郎の胴を打った。優二君が悔しそうにうめいた。

 最後の一本は、試合が再開されて間もなく、勢いよく競り合ったあとに岸が取った。やはり胴。優二君がひざに手をついて落胆の姿勢になった。

 二人は、勝者が決まったあと再び最初のしゃがんだ姿勢になり、数歩後ろに下がって礼をした。試合は、終わった。

 総一郎が、肩で息をしながら防具を脱いだ。殺気立った顔をしている。怖いけれど、何だかかっこいいと思ってしまう。優二君が駆け寄り、わたしにはわからない解説じみた話をして総一郎の敗因を探っていた。総一郎は真顔でそれを聞き、うなずいていた。わたしは彼に近寄った。彼はわたしを真っ直ぐに見た。わたしは笑みを浮かべた。

「かっこよかったよ」

 総一郎は真顔のまま、

「でも、負けた」

 と言った。わたしは彼に一歩近寄り、

「それでも、かっこよかった」

 と言った。総一郎は、微笑んだ。

 防具を脱いだ岸が総一郎のところにやってきた。勢いよく総一郎の肩に手を回し、

「やっぱ強いよ」

 と笑った。総一郎も岸を見る。

「お前は中学時代よりずっと強くなってたな」

「当たり前だろ」

 二人の様子に、わたしは微笑ましくなった。彼らは本当に親友なんだなと思った。優二君は、岸が来たことで勢いがついたようだ。

「岸君強かったよな! 間合いの詰め方と判断の速さが兄ちゃんよりよかった。でもな、兄ちゃんは身長があるしリーチもあるから、優位に立とうと思ったらできたかもしれないんだよ」

「わかってるよ」

 総一郎はにこにこ笑っている。岸は優二君の前でしゃがみ込んだ。

「そういうお前は強くなったのか?」

「おれ、剣道クラブの子供の部で五番目だし!」

「あっそう。こんなに小さいのになあ」

 ひょい、と優二君を持ち上げた。優二君は手足をばたばたさせる。岸が降ろすと、優二君はむすっとして着地した。

「おれ、兄ちゃんと同じで岸君より大きくなるもんね」

「そう? 何センチくらい?」

「一九〇センチ!」

「篠原よりでかいじゃん」

 岸と総一郎は笑った。わたしは三人を微笑ましく見ていた。そこに、それまで黙っていた審判役の剣道部員がやってきた。総一郎は彼を見た。

「篠原、絶対お前剣道部に入ったほうがいいよ」

 総一郎は黙っていた。わたしは、彼が返答するのを待っていた。しかし、次の瞬間にはものすごい怒声が入り口から聞こえてきて、それどころではなくなった。

「こら、勝手に試合するんじゃない!」

 振り向くと、渚がいる辺りに教頭先生が立っていた。岸ともう一人の剣道部員はびくっと肩を揺らした。教頭先生は中に入って、総一郎と岸ともう一人をじっと見た。

「何やってんだ。部活の時間は終わっただろう」

「すいません」

 三人は頭を下げる。教頭先生は総一郎一人を見詰めた。

「篠原」

「はい」

「剣道部に入れ」

 わたしは驚いて教頭先生を見た。彼は、白髪交じりの髪をきっちりと分けていて、威厳ある姿をしていた。

「家の事情があって来られないなら週末の練習だけでもいい、入れ」

 わたしは総一郎の反応を待った。彼は一瞬黙って、

「はい」

 と答えた。誰もが驚いていた。剣道を諦めていた総一郎が、あっさりとやると言ったからだ。週末だけというのは特別扱いのように思えた。彼はそれが嫌だったのだろう。それでもやるというのは、彼の情熱を感じさせた。

「やらせてください」

 教頭先生は相好を崩した。珍しい表情だ。

「夏休みだから毎日練習に参加できるな」

「そうですね」

 総一郎も笑顔になった。岸ともう一人の剣道部が、おおっと声を上げる。優二君はわたしの横で「やった! やった!」と叫んでいる。

 総一郎は、教頭先生と入部やこれからのことについての話を済ませると、わたしのところにやってきた。優二君もついてきたが、総一郎は彼を待たせていた。わたしと総一郎は、小体育館から少し歩いた校内の図書館の裏に向かった。立ちどまると、総一郎は開口一番、

「ごめん」

 と謝った。

「この間、怒ったりしてごめん。気まずくて無視して、ごめん」

「いいよ」

 わたしは笑う。本当に、今はどうでもよかった。

「何から話そうかな……。そうだ、入部を決めたのは、さっきなんだ。優二に頼まれて仕方なくやったら、どうしてもまた剣道やりたくなって」

「優二君に感謝しなきゃね」

「うん。で、この間のこと。父親と喧嘩したんだ。何で歌子にあんなことを頼むんだって。喧嘩なんて、初めてだ。父親、怒ってた。おれだってお前を心配してるんだって言って」

 わたしは驚きながら聞いていた。あの不器用な総一郎の父が、同じくらい不器用な総一郎と喧嘩。意外なので、目を丸くしてしまった。

「おれさ、これからもう少し将来のことを考えるよ。やりたいことも、やる。あと、もっと稽古して勝った自分を歌子に見せる」

 総一郎は笑った。わたしは嬉しくてたまらない。総一郎に、「頑張ってね」と抱きついた。汗の匂いがした。汗臭い総一郎は、すごく素敵だ。わたしはそう思い、総一郎の手がわたしの背に回されるのを待った。

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