花火大会
「歌子、痴漢に気をつけろよ」
「わかってる」
「今日、男子が二人来るんだっけ? そいつらにも気をつけろよ」
「うん」
父の黒い四駆車の中で、父はしつこくわたしに注意事項を確認していた。
「お母さんは着つけが下手だからな。浴衣がはだけないように気をつけろよ」
「うん、気をつける」
八月二日。花火大会の日だ。わたしは薄暗くなった七時頃に家を出て、隣の区の花火大会の会場に向かっていた。総一郎は岸と一緒に自転車で行き、渚は母親に送ってもらうということだった。わたしは花火が楽しみで仕方がなかった。
会場近くの公営駐車場まで送ってもらうと、そこは車と人で一杯だった。浴衣を着てうちわで顔を扇ぐ人がそこかしこにいて、盛り上がりが窺える。父と一緒に総一郎たちを探していると、誰かが後ろから飛びついてきた。
「歌子!」
「わ、びっくりした」
渚だった。彼女は黄色い地に青い薔薇が描かれた浴衣を着ていて、とてもよく似合っていた。
「浴衣、かわいいね」
わたしが言うと、渚はわたしの格好をじっと見て、
「歌子の浴衣もかわいいね」
と言った。わたしの浴衣は藍色の地にピンク色の朝顔が描かれていた。
「じゃあ渚、歌子をよろしく」
父は渚に向けて手を挙げた。渚がにっこり笑ってわかりましたと答える。父は人なつっこいので何度か会ったことのあるわたしの友達をよく呼び捨てにするが、渚は気にしないようだった。
父が車で去ったあと、わたしと渚が話をしながら立っていると、総一郎と岸がやってきた。二人とも普段着のようだ。わたしたちを見ると目を丸くする。岸が、「二人とも似合ってるじゃん」と言った。総一郎はただにやけている。
「岸、言い方がチャラいよ」
渚が笑うと、岸は「本気で思ったんだよ」と弁解する。それを見ながら、わたしと総一郎は笑っていた。
会場の商店街まで歩く。すごい人だ。歩行者天国となった道路は屋台で狭くなり、その間を行く人は明らかにキャパシティオーバーだ。わたしたちはただただ歩いていき、屋台の列の一番端に着くとやっと息をついた。ここは人が多くない。花火は八時半からだが、今はようやく八時になろうというところだ。
「おれ、穴場知ってるよ」
岸が言う。何でも、この近くの小さな神社は人が滅多にいなくて、花火もよく見えるらしい。わたしたちはそこに向かうことにした。
「あ、ジュース買っていこうよ」
わたしが提案する。三人はうなずき、全員が動き出した。わたしは慌ててとめる。
「総一郎と二人で買ってくる」
岸と渚がにやりと笑う。総一郎は驚いた顔をしていたが、素直にわたしについてきた。
屋台を探し、人を避けながら歩く。総一郎はすいすい歩くが、わたしはときどき人にぶつかってしまう。総一郎が時々わたしの腕を引っ張って他人にぶつからないようにしてくれた。彼は背が高いので、周りを俯瞰できるのだろう。わたしよりはずっと歩きやすそうだった。
「ジュース売ってるみたいだよ」
総一郎が言った。見れば派手な容器に入ったお祭り仕様のジュースが並ぶ店があった。列に並ぶ。わたしを見詰める総一郎の横で、ごそごそ手提げ袋を探る。
「総一郎、誕生日おめでとう」
わたしが差し出した紙袋を、総一郎がびっくりしたように見る。八月二日は彼の誕生日でもあるのだ。彼は見る見るうちに笑顔になり、嬉しそうに受け取った。
「ここじゃ開けられないな。これ、何?」
「ペンケース。総一郎が使ってた金属のペンケース、かなりべこべこにへこんでたから」
「ありがとう」
彼は大事そうにそれをバッグに仕舞った。わたしは嬉しくて、にこにこ笑う。
「もしかして、これを渡すためにおれを連れ出したの?」
総一郎が訊く。わたしはうなずいた。
「だって二人の前だと照れくさいじゃん」
総一郎は笑みを深くした。それから、わたしに顔を近づけて、
「言いにくかったけど、浴衣着てきてくれてよかった」
とささやいた。わたしはどきどきしながら訊く。
「え、似合ってる?」
総一郎は姿勢を元に戻し、小さくうなずいた。わたしは総一郎の腕に抱きつき、「やった!」と声を上げた。彼は慌てたように周りを見回し、諦めたようにわたしにされるがままになっていた。
ジュースは容器代のせいか一つ五百円もした。わたしと総一郎は一人二杯ずつそれらを持ち、値段についての文句を言い合いながら渚と岸がいる一番端の屋台の前に向かった。二人は楽しそうにしていて、渚はよく笑い、岸がまくしたてるように話をしていた。仲がいいな、と思う。
「お待たせ」
二人にジュースを渡す。動物の形をした容器からそれぞれ中身を飲む。岸が案内してくれる中、わたしたちは少し寂しいような街並みを歩いた。入り組んだ場所にある神社に、わたしたちは入った。狛犬や社があり、少し怖いような雰囲気だが、四人で話をする分にはよさそうだ。わたしたちがめいめいの場所に立ち、話をしているうちに花火は始まった。体を揺らすくらいの大きな音。赤や黄色の火花が空に散る。やはり近くで見ながらだとテレビで観るのとは気分が違う。わたしたちは空に見入った。
二十分くらい経って、空が煙で覆われ、花火が見えなくなった。わたしたちはようやく感動が落ち着いてきたので、話を始めた。
「しかし、うまいこと篠原の誕生日に食い込んできたよな」
岸が笑う。わたしたちはうなずいた。
「どう? 自分の誕生日を祝う花火は」
「はいはい、嬉しいよ」
わたしと渚は声を上げて笑った。さっきから総一郎は機嫌がよく、岸がいつもの冗談を言っても嬉しそうに一言返している。
「護ってさ、どうして冗談ばっかり言ってるの?」
渚が訊く。岸は考え込む。総一郎が代わりに答えた。
「まあ、笑ってたほうが楽しいし、何でも円滑に行くからじゃないかな。こいつ、不器用なところもたくさんあるし」
岸が苦笑いをする。図星らしい。さすがは長年のつき合いのある総一郎だ。
「へえ、実は繊細なところもあるんだ」
「そりゃあ、人間だし」
岸が答える。渚は岸に色々なことを訊き、興味深そうにうなずいていた。そのうちわたし以外の三人のジュースが底をついたので、総一郎に誘われて買いに行くことにした。今度は屋台のジュースを買わないことにした。自動販売機を探す。
横に総一郎がいるのを感じながら、わたしは少しどきどきしていた。夜に総一郎と外を歩くことなんて、今までないからだ。総一郎はいつも通りの様子で、何も変わらない。ふと、総一郎が口を開いた。
「あいつ、今日は雨宮に告白するらしい」
「え」
「だから二人きりにしようと思ってさ」
それはまずい、と思った。けれど総一郎に言うわけにはいかないし、もう手遅れだった。岸も渚も、今どうしているのだろう、と考え込む。花火がぱらぱらと鳴っている。わたしの下駄がからころ響いている。自動販売機が見えてきた。わたしが顔を上げて総一郎を見ると、総一郎もわたしを見下ろしていた。ふと足がとまる。総一郎がわたしの両肩に手を置き、軽くキスをした。自然と目を閉じていた。総一郎は二度、三度とキスを繰り返す。それからぱっと体を離し、わたしたちは自動販売機に向かって歩きだした。体中が火照っている。
黙ったまま、自動販売機でジュースを買うと、わたしたちは歩き出した。いつの間にか手を繋いでいた。総一郎の手は、大きくて骨ばっていた。
「岸、大丈夫かなあ」
総一郎が言った。わたしは考え込み、
「どうだろう」
と無難な返事をした。わたしは渚が心配だった。告白されたことで、友達を一人失うことにはなっていないかと。渚は岸のことを随分気に入っていたから、失うのは辛いはずだ。そう考えて、いや、意外にも受け入れているのかもしれない、と無理のある考えで一時的に自分を納得させる。だから渚も岸も大丈夫だ。
「そういえば、総一郎のお父さんに会ったよ」
総一郎は、ぎょっとしたようにわたしを見た。
「お父さん、素敵な人だと思った」
「そう」
「総一郎、お父さんが言ってたけど、朝ご飯は一緒に食べてほしいんだって。パンばっかりは体によくないからって」
「それ、言うように頼まれたの?」
「……うん」
「そう」
「あと、わたし思うんだけどね、総一郎は好きな大学に行っていいと思うんだ。だって、総一郎が大学のときには優二君は中学生でしょ? 自分で何でもできるようになるよ。二人に訊いてみたら? 絶対いいって言ってくれるよ」
「それ、歌子の意見?」
繋いでいた手が離れた。総一郎は明らかに苛立っている。わたしは呆然と彼を見上げる。彼は厳しい顔をしていた。
「余計なこと言わなくていいよ」
「余計なこと?」
「そうだよ。家族のこととか、進路のこととか、そういうデリケートなことに口を挟まなくていいんだよ」
「ごめんね。でもわたしずっと思ってたんだ。言ったほうがいいと思って……」
「そういうのは、いい」
「わたしだって総一郎のこと、心配してる。口に出して言うべきだと思って」
「いいって。そういうお節介、してほしくない」
「お節介?」
「お節介だよ」
「ひどい」
「とにかく、余計なことするなよ」
総一郎は、怒っていた。本気で怒った彼を見るのはこれが最初だ。怖いし、何だか悲しかった。わたしは余計なことをしたかもしれないと少し後悔していたけれど、近寄りにくい空気を漂わせている彼から早く離れたいと思った。そういうことは初めてだった。
「わたし、帰る」
「さっきのとこまで送ってく」
「いい」
「……じゃあ、岸に送らせる」
いつの間にか、神社のそばに来ていた。総一郎は静かな境内に入っていく。すぐに岸が出て来て、「送ってくよ」と言ってくれた。うなずいて、歩き出す。渚のことは、総一郎が少し遅れて送っていくのだろう。渚のことが気になったし、隣の岸がどうなったのかわからなかったけれど、自分の気持ちで一杯だったからどうしても行動を起こせなかった。
「篠原と喧嘩した?」
岸が訊く。優しい声だった。
「うん」
わたしはうなずいた。
「あいつ、怒ると怖いだろ。静かに殺気を漂わせる感じで」
わたしはかすれた笑い声を上げた。どうやら岸も総一郎に怒りをぶつけられたことがあるらしい。
「大丈夫だよ。すぐに仲直りできるよ」
わたしは黙り、自分の裸の爪先を見た。ピンク色のペディキュアが塗られた爪は、ぴかぴか光ってきれいだった。
「……おれ、振られちゃった」
わたしは驚いて岸を見た。岸はわずかに猫背になって、力なく笑っていた。
「雨宮、好きな人がいるらしい。あーあ」
花火が大きく打ち上がっていた。わたしと岸の顔が照らされる。わたしは自分が嫌で仕方がなかった。