お遣いと総一郎の父
「歌子ちゃん、お遣い行ってきてくれない?」
夏期講習の四日目と劇の練習が終わったので、家に帰って居間のソファーでごろごろしていると、カウンターキッチンの中にいる母が声をかけた。のろのろと起き上がり、わかった、と答える。母のところに行くと、味噌が足りなくなったので買ってきてほしいとのことだった。
「篠原君や渚ちゃんは元気?」
ふと思い出したように母は訊いた。わたしはうなずき、
「元気だよ」
と笑う。高校に入ってから学校のことをあまり話さないわたしに、母は不安を覚えるらしい。そういえば渚は期末試験が終わってからたまにしか来なかったし、総一郎に至っては一度来たきりだ。わたしには友達がいないのかも、という不安はわたしがいくつになっても消えないようだ。
「最近大谷さんっていう元気な子と仲良くなったよ。今度わたしがやる劇の監督でね、田中先生に補助してもらってはいるけどしっかりしてるからこなしてる。すごい子だよ」
「そうなの。すごいわね、監督だなんて。お母さんは歌子ちゃんが主役やるのにもびっくりしたけど」
母はわたしを見上げるようにして何度もまばたきをした。母はわたしより何センチか小さい。
「推薦されたから。でもまあ、引き受けてよかったと思うよ。今すごく楽しいし」
「そう」
母は目を真ん丸にした。わたしが熱心に演劇をするなんて、今まで思いつきもしなかったのだろう。わたしもそうなのだから、当然だ。
「頑張ってね。お母さん、観に来てもいい?」
「いいよ」
去年のわたしなら嫌がったはずなのに、すんなりうなずけた。少しは抵抗があったけれど、母が喜んでくれるならいいと思った。母は嬉しそうに笑い、楽しみだわ、と言った。
家を出て、商店街に入る。味噌を買い、帰りにコンビニに寄ろうと思って大通りを歩いていると、バス停のところで声をかけられた。びっくりした。低い男性の声で、わたしには聞き慣れなかったからだ。人の多い屋根つきのバス停の前で、その人は微笑んでいた。総一郎の父だった。
「こんにちは」
わたしはびっくりした顔のまま、挨拶をした。彼はバス停から離れ、わたしのところに来た。
「驚いたな。町田さんはこの辺に住んでるのか」
朗らかに笑っていた。わたしはどぎまぎしながら笑みを作ってうなずいた。
「仕事帰りなんだよ。町田さんは学校に行った?」
「ええ。夏期講習や文化祭の準備があるので」
「総一郎も文化祭、体育祭、部活と忙しいみたいでね、朝から出ていったよ」
総一郎の父は、意外にも総一郎の予定を把握していた。総一郎に関心のない人だと思い込んでいたので、少し驚いた。
「お仕事って、何をされてるんですか?」
「ああ、大学の理学部で生物学を教えてるんだ」
知らなかった。彼は学者だったのだ。わたしは感心して何度もうなずく。彼はおかしそうに笑う。
「そんなにびっくりしなくてもいいよ。珍しいものでもないし」
「総一郎君の頭がいいのはお父さん譲りだなって思ったんです」
「そう」
彼は目を見開きながら唇の端を上げる。好奇心の強そうな人だな、と思った。
「あいつも勉強はできるみたいだけど、剣道辞めてからは元気がなくてね。それに母親が亡くなってから色んなものへの興味が薄れてしまったみたいだ」
わたしはうなずく。そんな感じはわたしも受けていた。
「総一郎君は欲がないなって思います。彼ならその気になれば色んなものを手に入れられるのにって。応援したいと思うけど、重荷かも、と悩んだりします」
総一郎の父は、にっこり笑った。その顔が総一郎そっくりなので、驚いた。
「町田さんは、総一郎のことを好きでいてくれてるんだね」
「え」
顔が熱くなる。彼は顔を上げて考える顔をしたあと、わたしを見下ろして話し出した。
「わたしは愛情を与えるのが下手だから、同じことでも悩んでるよ。それどころか、必要以上の会話を交わすところにも至ってない。そういうのは妻に任せっきりだったから、彼女が亡くなってからどうすればいいかわからなくてね。あいつは色んなことに納得が行っていないのだと思う。思春期だしね。悩む時期だ。……町田さんから伝えてほしいことがあるんだよ」
「何ですか?」
「わたしがいるから居づらいとは思うけど、朝食は一緒に食べるようにって。パンばかり食べてるんだろう? 体によくない」
「あの……、ご自分で言ったほうが総一郎君も……」
「自分じゃ言えないんだよ」
彼は寂しそうな顔をした。わたしは何となくわかってきた。彼も総一郎に負けず劣らず不器用なのだ。
「わかりました。伝えます」
わたしは笑った。彼は微笑み、ありがとう、と言った。
「あ、バスが来た」
彼はわたしに挨拶をすると、すたすたと歩き出してバスに乗った。それから、バスの座席から手を振り、微笑んだ。わたしも手を振り返す。総一郎のお父さんは普通の優しい人なんだな、と思いながら。