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蜂蜜製造機弐号  作者: 酒田青
高校二年生 一学期
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渚の告白

 次の日の昼食は、おかしな具合に始まった。

 わたしは昼休みが始まったときに教室でレイカと鉢合わせをし、思い切り強くどかされて苛立っていた。その前の授業中に美登里ちゃんがシャープペンシルを落とし、レイカの取り巻きに無視されたことで怒ってもいた。わたしたちの教室の状況に不満を覚え、篠原たちとの昼食の席でぶちまける気で購買部の前に向かったのだ。三人は揃っていた。わたしはとりあえず笑顔で席に着き、お弁当を広げた。その次の瞬間からおかしな雰囲気は生まれてしまったのだ。

「ねえ、総一郎。飲み物交換して」

 渚が篠原に言った。篠原も岸もわたしも、一瞬ぽかんとした。渚は満面の笑みで、自分の未開封の烏龍茶のパックを差し出していた。最初に反応したのは篠原だった。

「やだよ」

 いつもと同じ様子だった。渚は篠原のオレンジジュースを見詰めながら、残念そうにお弁当の袋を広げ始めた。

「あとからオレンジジュース買えばよかったと思ってさ」

 渚はわたしに向かって笑いかけた。わたしは何でもないような態度で、そうなんだ、と言った。それから食事中の会話は少しぎこちないものになり、わたしたちは少し黙りがちだった。その会話の中でも渚は何度か篠原のことを下の名前で呼び、わたしを不満な気分にさせた。岸だって同じだ。いつも朗らかなのに、ときどき虚ろな顔をしていた。

 わたしは篠原の下の名前を呼んでみたい、と前々から思っていたのだった。それなのに渚に先を越され、わたしは苛立ちを募らせていた。

 夕方、渚はわたしの家に来た。最近渚はよく勉強をする。文系科目で篠原を追い抜くというのは本気らしい。わたしはそのことすら、何かの口実なのではないかと思ってしまっていた。疑心暗鬼とはこのことだな、と一人考えていた。

「ねえ、歌子。何か態度おかしくない?」

 渚が顔を上げ、心配そうに訊いた。わたしは唇をぎゅっとつぐんだ。

「あたしに不満があるなら言ってよ」

 わたしはしばらく黙り、渚から目を逸らして彼女のノートを見ていた。乱雑に書かれたノートは、それでも努力の跡を見せていた。

「ねえ」

「渚は篠原のこと好きなの?」

 わたしはとうとう訊いてしまった。胸がどきどきする。渚は驚いた顔でわたしを見ている。

「そう見えたから」

 声が涙ぐんだ。渚は慌ててわたしのほうに回り込む。近づき、わたしの肩に触れようとする。でもそうしない。

「どうしてそう思ったの?」

 渚が訊いた。声が震えていた。

「だって篠原のこと総一郎って呼んだ!」

「そんなことしたっけ」

 わたしは驚いた。渚は記憶を辿るような顔をしていて、とぼけたわけではないようだった。

「したよ」

「したの? ごめん」

 渚はようやくわたしの体に触れた。熱いくらいの体がわたしを包む。彼女はわたしを抱きしめていた。

「無意識だったんだ。ごめん」

「篠原のこと好きなの?」

「好きじゃないよ。友達としていいやつだとは思うけど」

「でも……」

「歌子も下の名前で呼びなよ。それでいいじゃん」

 わたしは不満の塊が喉の辺りにあるのを感じていた。渚はため息をつき、わたしから離れた。

「あたし、好きな人がいるから大丈夫だよ。安心して」

「え」

 岸の顔が思い浮かんだ。渚はわたしの顔を真っ直ぐに見詰め、

「あたしは田中のことが好き」

 と言った。わたしは学校の生徒の顔をざっと思い浮かべ、その中に田中という生徒はいないことに気づいた。わたしの表情を見て、渚はかすかに笑った。

「歌子のクラスの田中先生だよ」

「えっ」

 何もかもが吹っ飛んだ。渚が、あの色黒で真面目なだけに思える田中先生のことが好きだというのは、わたしにすごい衝撃を与えた。渚は頬を染めている。

「レイカが言ってたでしょ? あたしは人の男を取るって。あれ夏休みにヒデを取られたことがあると思い込んでるんだよ」

 それは薄々気づいていた。あのときのレイカの口振り、この間の二人の喧嘩。わたしが気づくだけの材料は揃っていた。訊くべきではない気がして黙っていただけだ。

「あのね、ヒデのやつ、街中であたしに会って、やたら話しかけると思ったら自分のアパートにしつこく誘いだしたの。そんで手を引っ張って自分のアパートに連れてこうとしたんだ。嫌がってたら田中が来て、ヒデのことこっぴどく叱って、あたしを家まで送り届けてくれたんだ。あたしんち、少し遠いのに。田中って無口だし、堅物だと思ってた。身長だってあたしと変わりないし。でもすんごいときめいたの。この人のこと、好きって思ったんだ」

 わたしは色々な感情に呑み込まれていた。勘違いをして恥ずかしいという気持ち、田中先生はそれなりに素敵な人だったのだという驚きの気持ち、そして一番大きかったのは、田中先生が渚を助けてくれてよかったという安堵の気持ちだ。わたしは渚に抱きついた。

「無事でよかったねえ」

 渚はどぎまぎしたように答える。

「うん」

 わたしは顔を上げ、渚の肩に手をかけて顔を間近に見ながらまくしたてる。

「本当によかった。渚があいつに襲われたりしたら、わたし、一生あいつのこと恨んだ」

「あいつ、か。歌子にしては激しい言い方だねえ。嬉しいな」

 渚はにっこり笑って、わたしの額に口づけた。わたしはびっくりして彼女から体を離した。渚は少し寂しそうな顔をした。

「あたし、歌子のことも好きだよ。多分、特別な意味でね」

「え」

「あたし、女の子も恋愛対象なんだよね」

「ええっ」

「去年、初めて見たときからかわいいと思ってた。最初から篠原に突っかかっちゃったのは、多分嫉妬が半分だね。あたし、篠原が羨ましい。歌子に愛されて」

「わたし、は……」

 わたしはどきどきしながら戸惑っていた。彼女とわたしは向かい合い、片方は微笑み片方は顔を真っ赤にしていた。

「わかってるよ。歌子は篠原が好きだもんね。あたしの気持ちはまだはっきりしてないし、田中のことも好きだし、忘れていいよ」

 忘れられるはずもなかった。彼女はにっこり笑い、

「これまで通りつき合ってくれたらそれでいいよ」

 と自分の定位置に戻って勉強を始めた。わたしは「これまで通り」が遠ざかって思い出せないくらいになっているのに気づいた。彼女と気軽にやっていけるだろうか。そう思いながら渚を見ると、彼女は机をぽんぽんと叩き、

「数学の勉強頑張るんでしょ?」

 と笑みを浮かべた。わたしはゆっくりと机に向かい、問題を解き始めた。

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