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蜂蜜製造機弐号  作者: 酒田青
高校二年生 一学期
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篠原と渚と家

 思ったよりも、篠原は緊張しているようだ。わたしの家の前に着いてここがそうだと紹介すると、喉仏をぐっと上下させて、ああそう、と乾いた声で答えたからだ。そこからあまり話をしなくなった。渚はわたしよりも楽しそうな様子で家に入り、ただいまを言うわたしのあとにお邪魔しますの声を上げた。篠原も続く。母が出てきた。

「あら、歌子ちゃんお帰りなさい。今日はお友達が二人なのねえ」

「この人は篠原総一郎君だよ。勉強を教えてくれるんだ」

 篠原がぎこちない動きでお辞儀をした。母はちょっと動揺しているが、気にしていないふりをしている。

「仲良くしてあげてね」

「はい」

 篠原はやっと声を出した。おまけに固い笑みまでつけ足している。爽やかな少年を演じようとしているらしい。そういうのは篠原に向いていないような気がするが、母には効果的だったようだ。にっこり笑ってどうぞと篠原を家に上げてくれた。

「篠原、そんなに緊張しなくていいんだよ」

「いや、緊張するよ」

 わたしと篠原が階段を上りながら会話していると、渚が、

「結婚申し込みに来たみたいだったよ」

 などと笑うので、篠原がますます強ばってしまった。短い廊下を歩いてわたしの部屋に二人を通す。渚は自然な様子でいつもの場所である本棚の前に座ったけれど、篠原はわたしが座るように言うまで立っていた。

「とりあえず、渚とわたしのわからないところを篠原に教えてもらおうよ。渚は英語と古典が特に苦手なんだよね。わたしは数学」

 わたしが言うと、渚は珍しく教科書を鞄から出して、真面目にやってこなかった教科のわからない点を篠原に訊き始めた。篠原は、勉強を教えるという本来の役目を思い出すと、途端にリラックスし出した。渚が基本的な文法などを最初から覚えていない点に呆れながらも丁寧に教えている。わたしも数学の教科書を出し、詰まるたびに彼に訊いた。休む暇なくわたしたちは勉強に没入した。ひとえに篠原が一生懸命やっているからだ。

「あ、これ見て、歌子」

 不意に渚が自分のノートを逆さまにしてわたしに見せた。下手な絵が描かれている。一体何が描かれているのかもわからない。かろうじて顔が二つ見えるけれど。わたしが怪訝な顔をしていると、渚が笑いながら言った。

「巴御前が敵の武将の首をねじ切るところだって」

「ああ!」

 中村先生の絵だ。これは、確かにひどい。笑ってしまう。馬の絵が絶望的に下手だ。中村先生は字がきれいだし、板書も整っているからバランス感覚がよさそうな感じもするが、それと絵のセンスは関係がないらしい。篠原も見ている。

「え、どこがおかしいの? 巴御前と敵の武将だろ?」

「篠原、わかるの?」

 わたしはびっくりした。渚も目を丸くしている。

「これが巴御前の顔、これが馬、これが鞍、これが敵の武将とその首だろ?」

「すごい」

 渚が妙に感心している。わたしは思い出した。

「そういえば、篠原って独特の絵のセンスだったような……」

「そんなことないよ」

 篠原が心外そうに否定する。渚は首をぶんぶん振り、

「中村先生も独特のセンスだもんね! 意外に気が合うのかもよ、篠原と」

 などと言う。篠原はいやいや、と否定する。

「中村先生、怖いだろ。気が合うわけないよ」

「えー、中村先生いいじゃん」

 渚が言う。どうやら彼女もわたしと同じく、学校では少数派の中村先生の支持派らしい。また自分と同じことを言った彼女に、わたしは親近感をどんどん強めている。

「あ、トイレ借りるね」

 渚が不意に立ち上がった。少しどきっとした。篠原も同じであるように見える。渚はドアを開けて出ていき、わたしと篠原は部屋に二人きりになった。そういえば、わたしたちは密室に二人きりになった経験がない。どきどきと、心臓が鳴るのがわかった。二人揃って、沈黙した。

 しんとした中、わたしと篠原はテーブルを見詰めていた。渚はすぐに帰るだろうと思ったのに、なかなか戻ってこない。篠原が体をにじり寄せたのがわかった。

「町田」

「何?」

 わたしは篠原と目を見合わせた。篠原は家に来たときのように強ばっている。

「キス、していい?」

 顔がかあっと熱くなった。篠原を見ると、彼はわたしの返事を待っていた。

「うん」

 わたしが答えると、篠原はわたしの肩に手を触れた。どうしようどうしよう、と頭の中で同じフレーズが回り続けている。篠原の顔が近づいてきたので、わたしは目をつぶった。篠原の乾いた唇がわたしの唇にためらいがちに触れた。ぎゅっと目を閉じていたけれど、もう終わりだろうかと目を開けようとした瞬間、唇は吐息と共に押しつけられてきた。頭の中が真っ白になった。わたしは目を閉じたまま、篠原の唇が離れるまで同じ姿勢で固まっていた。

 唇が離れ、わたしは目を開いた。篠原の顔が目の前にあった。篠原はもっと手を伸ばし、わたしを抱き締めた。座った姿勢で篠原に抱き締められるのは変な感じだ。わたしは篠原の体に腕を回して、二人でそのまま黙っていた。制服ごしに篠原の体温が感じられて、心地よかった。

 ノックの音がした。わたしたちは慌てて離れて勉強していたような姿勢になった。ドアを開けて入ってきたのは母と渚だった。渚はからっとした声で、

「ごめんごめん、歌子のお母さんとお茶淹れてたんだ」

 と言った。

「そうなんだ」

 わたしは答える。声が少しかすれていた。

「今日は寒いから、温かいお茶を淹れたのよ。お菓子もあるから食べてね」

 母が何も気づかない様子で言う。わたしはお礼を言う。そのまま母が出ていくと、渚は「さあ、勉強勉強」と元気よく声を上げ、教科書の読み込みを始めた。

「篠原ー、漢文わかんない。教えて」

「わかった。どこがわからない?」

 篠原は何でもなかったような顔で渚に答えた。わたしはテーブルの上のノートを見ていたが、何も見えてはいなかった。

「英語はSVOCと決まってるんだけど、漢文はSVCOもあるんだよね。OとCって何?」

「あー、そこから説明しなくちゃいけないのか」

「教えてください篠原様」

「はいはい」

 篠原と渚はいつものように会話をしているけれど、わたしはただ黙っていた。

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