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蜂蜜製造機弐号  作者: 酒田青
高校二年生 一学期
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雨宮渚と篠原とお弁当

 一人でいることにはそれなりに慣れている。わたしの孤立は筋金入りだから。筋金入りの孤立。おかしな言葉だ。わたしはちょっと笑う。その笑みが目に入ったのか、中村先生に指名され、わたしは「平家物語」の一節を読んだ。古典の授業中だったのだ。

 追っ手を後ろにした巴御前が恋人の木曽義仲に逃げるように言われ、その通りにしながらも敵を何人も討ち取る場面だった。敵の首をねじ切る描写を訳したときは目を見開いた。剛力の女性というのは創作の中であっても滅多に見かけない。わたしは巴御前を素敵だと思った。剛力であることは精神力が強いこととイコールしないだろうが、わたしの中でどこかが繋がった。わたしは強い女性になりたかった。

「今月末の中間試験では、ここまでを範囲にします。よく勉強しなさいね」

 中村先生は淡々と言う。授業中の先生はいつも厳しい顔をしている。冗談の一つも交えたら、先生のことを怖いだけの教師だと思う生徒は減るのにな、とよく思う。授業以外での先生は、人間味溢れる素敵な人だ。

 授業が終わり、わたしは廊下で中村先生とおしゃべりをした。中村先生は、わたしが巴御前への驚きを口にすると、あははと大きな声で笑った。

「そう言ってくる子は何人かいるわね。例えば二組の雨宮さん。巴御前はかっこいいって言ってたわ」

「雨宮さんが?」

「あら、知り合いなの?」

「いいえ」

「あの子、面白いわよ。今一つ理解できなかったから首をねじ切る場面を図に描いて示してくれってノートを差し出すの。ノートもね、落書きだらけなのよ。訳の分からない数式だとか、グラフだとか。古典のノートはほとんど思いつきのメモで一杯だったわ。あれは予習すらしてないわね」

「へえ。図はどうされましたか?」

「描いてあげたけど、駄目ね。下手すぎて雨宮さんに笑われちゃったわ」

 雨宮渚はどんな風に笑うのだろう、と思った。中村先生の話は、周りから聞く彼女の評判よりももっと内面に迫っているような気がした。

「町田さん、友達とはどう?」

 中村先生が話題を変えた。わたしは笑みを浮かべつつも答えなかった。先生はため息をつく。

「不器用よね、あなた。消極的というわけでもないのにどうしたことかしら」

「自分でもどうしたことかと思います」

 本当に。中村先生は二度目のため息をつき、

「今年こそは、わたしに相談しなさいね。わたしなんて信用ならないかもしれないけど」

「先生は信用できますよ」

「なら、どうして?」

 先生がわたしを見詰める。わたしは言葉に詰まる。

「よくわからないけど、わたしたちの世界は大人の世界とは違う言葉で成り立ってるんです。日本語と英語くらい違うんです」

 中村先生は真剣に聞いてくれている。

「わたしには、大人の世界の人たちに正確に言葉を伝えるための、翻訳能力がないんですよ」

 それは、大抵の思春期の子供にあることだと思う。わたしは篠原ですら、その能力を持たないのだと思っている。そして、わたしが大人になれば、大人の世界の言語でしか話さなくなるのだと思う。

 中村先生は顎に手を当て、うなずいた。

「わたしたち大人のほうが、あなたたちの言葉を解読しなきゃいけないって思うこと、よくあるわ。あなたの言うことは、的外れではないと思うわよ」

 わたしはほっとした。やはり中村先生はいい先生だ。微笑む先生の顔を見て、わたしは心の中で感謝した。

 先生と別れて教室に入ると、わたしは自分が空気になったのを感じながら自分の席に着いた。教室のざわめきの中を、空気のわたしが通り抜けていく。誰からも気づかれることもなく。お弁当箱を持って、わたしは教室を出た。


     *


「篠原、相変わらずパンなんだ」

 わたしが訊くと、篠原はチーズの乗ったパンをかじりながらうなずいた。

「飽きない? 購買部っていつも同じパンが売ってあるじゃん」

 篠原は咀嚼を終え、答えた。

「飽きたなあと思ったら食べない」

「ええっ。それじゃ大きくなれないよ」

 わたしの一言に篠原が大笑いした。わたしも笑った。よく考えれば、篠原は一八六センチもあるのだった。

「食にはそこまで執着ないんだけど、何故か伸びた」

「お父さん大きいから、遺伝だね」

「確かに」

 わたしたちは購買部の前のテーブルで昼食を取っていた。篠原が提案した通りになったのだ。

「岸君は?」

「一人で食べてるんじゃない?」

「いつもは二人で食べてたでしょ?」

「うん。でもあいつももう十七歳だから、一人で飯食うくらいできるよ」

 わたしは声を上げて笑う。それから身を乗り出す。

「え、岸君もう誕生日来たんだ」

「うん。先週に」

「いいなあ」

「数ヶ月先に生まれただけっていうのに、急に兄貴面し始めたよ」

「岸君らしいね」

 誰かが近づいてきた。もう一つのテーブルに就くのだろうと思って話を続ける。

「篠原は八月生まれだったよね」

「うん。夏休みの真っ最中だからさ、いつも……」

「町田歌子さん?」

 声が混ざり込んできて、びっくりした。顔を上げると、驚いたことに雨宮渚がにっこり笑って向き合った状態のわたしと篠原の間の椅子に座った。藍色のお弁当袋をテーブルに置き、

「あたし、雨宮渚。知ってる?」

 と訊く。わたしは戸惑いながらもうなずいた。篠原もぽかんとしている。雨宮渚はお弁当袋を広げ、中からきれいなワインレッドのお弁当箱を出し、蓋を開けた。完全に一緒に食べる気だとわかった。お弁当の中はとてもすっきりしている。ご飯と卵焼きとミニトマト。それだけ。彼女は箸を出し、卵焼きをぱくっと食べた。

「ちょっと、雨宮」

 篠原が慌てた様子で声をかけると、彼女はじろりと彼をにらみ、

「あんたに呼び捨てにされるほど仲がいいつもりはないけど」

 と言う。篠原は憮然とした顔になり、

「じゃあ、雨宮さん。何の目的でここで弁当食べてるんだよ」

 と訊く。雨宮渚は彼の顔を見るのをやめ、わたしのほうを向いた。わたしはどきっとする。あの不思議なアーモンド型の目で、彼女はわたしを見詰めて微笑んでいたのだ。

「町田さんと一緒にご飯食べようと思って。去年からかわいいなと思ってたんだ。ここで弁当食べてるなんてラッキー」

 篠原は憮然とした顔で彼女を見ている。彼女はわたしの顔を見て、

「あたしのことは渚って呼んで。あたしはあなたのこと歌子って呼ぶから」

 と笑った。わたしは混乱した。彼女のペースに完全に巻き込まれていたのだ。

「雨宮さん」

「渚」

「な、渚」

「そう! よくできましたー」

 渚はお弁当をぱくぱくと食べる。篠原は不機嫌な顔だ。わたしは彼女に何か言いたいことがあったのだが、何も言えなかった。

「これから一緒に食べようよ。あたし、歌子とおしゃべりしたい」

 訳のわからないことになってきた。彼女の茶色い髪は日の光を浴びてきらきら光り、その色は変わり者の象徴であるように思えた。わたしはわたしが渚に拒絶を示すことを願っているらしい篠原を前に、

「いいよ」

 と答えてしまった。篠原は黙ってパンをかじり、がっくりと頭を垂れた。

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