拓人が家に来た日
六時ごろ、家に帰ると、母が玄関に現れてにこにこ笑って迎えてくれた。わたしは外で浮かべていたような笑みを引っ込めて、低い声でただいまを言った。母は靴を脱ぐわたしの後ろに控えていつもの質問をする。
「歌子ちゃん、学校は楽しかった?」
「うん」
「友達は仲良くしてくれた?」
「うん」
わたしが立ち上がって廊下を歩き出すと、母は後ろについてきた。
「うがいと手洗いをしなさいね。今日の夕食は秋刀魚だからね。歌子ちゃんが好きな」
「うん」
わたしは廊下の途中で洗面所に入り、言われた通りうがいと手洗いをした。洗面台の鏡に映るわたしは肩までの黒髪を垂らし、笑顔のない白い顔をしていた。笑ってみる。顔が柔らかく変化し、結構魅力的な顔になった。
正直言って、わたしの容姿はいいほうだと思う。男子に好かれるのも、わかる。中学時代から告白されたり、大して仲が良くもない相手と噂になったりもした。けれどわたしは恋愛に興味がない。異性としての男性にも、興味がない。一生恋人ができない予感がある。相手ではなくわたしが原因で。
何となく、自我が弱いのかな、という気がする。
「歌子ちゃん、ご飯できたわよ」
母が呼ぶので洗面所を出た。台所兼居間になっている部屋で、母が待っていた。テーブルの椅子に座って、焼いた秋刀魚を見る。独特の匂いがして、おいしそうだ。早速箸を伸ばす。
「今日、お父さん遅くなるからね」
「うん」
「今日は拓人君、来る?」
「来るよ」
秋刀魚がおいしくて、とろけそうだ。母が困ったような顔をしているのも気にならない。
「拓人君、来るのね」
「漫画を読みに来るだけだよ」
「拓人君のご両親とお父さんお母さんで話したんだけどね。拓人君と歌子ちゃん、もう家を訪ね合ったりしないほうがいいんじゃないかってことになったの」
「え」
ぽん、と宇宙に放り出された気分になった。
「だって年頃でしょ?」
「わたしと拓人ならそんなことにならないよ」
母は味噌汁をすすりながらわたしを見詰める。
「大丈夫だよ」
言いながら、急にご飯の味がわからなくなるのを感じた。拓人と一緒にいるのを制限されることが、こんなに不安になることだとは思ってもみなかった。それも、こんな理由で。
「お母さん、言ったからね」
母が念を押すようなことを言うので、不安は胃に伝わってきた。ご飯を茶碗半分くらい残して、二階の自分の部屋に行った。
課題のプリントに向かい、うつらうつらしていると、拓人が隣に立っていた。にっこり笑っている。女の子みたいな顔だなと常々思っていたが、最近顔が男性的なしっかりした形になってきたようだ。
「おれたちロミオとジュリエットみたい」
「どういう意味?」
わたしは学習机から離れてベッドの横のテーブルの前に座る。拓人もそうする。わたしの部屋は雪枝さんほどではないにしろ、漫画が多い。本棚にはびっしりと少女漫画が並んでいる。
「親につき合いを反対されてるから」
「ああ、拓人も言われたんだ」
わたしは軽くため息をつく。拓人はそれを見てわたしに近づいてくる。
「残念?」
「まあ寂しいよね」
「それくらいおれのこと好き?」
「ちょっとはね」
拓人は唇を尖らせて不満そうな顔になる。
「ちょっと?」
「うん」
「おれは歌子のこと、好きだよ」
わたしは黙る。
「友達とか、幼なじみとか、そういうんじゃなく」
「でもわたしは拓人のことを友達とか幼なじみとしてしか……」
気づいたときには拓人がわたしの唇を唇で塞いでいた。柔らかい感触と生温い温度が伝わってきた。肩をきつく握られ、身動きが取れない。わたしは軽く拓人の胸を押した。大して力を入れていないのに、拓人は離れた。
静かな時間が三分くらい続いた。拓人もわたしも互いの目を見ない。ふと、拓人がつぶやく。
「篠原に勝った。これで歌子はおれのだよね」
かちんときた。
「拓人のものにはならない」
拓人がわたしを見る。動揺している。
「篠原ともご飯を食べるし、拓人の彼女にもならない」
「何言ってんだよ」
「わたしの初めてのキスを奪っておいて、勝手なこと言わないでよ」
拓人が黙る。
「明日からわたしの部屋に入らないで。お父さんたちの言うとおりだよ」
涙声になった。わたしの目を覗き込んだ拓人は慌てて立ち上がり、
「わかった。ごめん」
とつぶやき、部屋を出た。わたしはしばらく泣いた。