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蜂蜜製造機弐号  作者: 酒田青
高校二年生 一学期
37/156

篠原の街

 食事を終え、わたしたちはごみごみした道を真っ直ぐに進んで、篠原が通っていた中学の前に着いた。建物が詰め込まれた校門側からは、部活中らしい中学生の声がよく聞こえる。柵の外側からだが、篠原が剣道をやっていたという道場を見られたことはとても嬉しかった。

「一回、篠原が竹刀振ってるところ見てみたいなあ」

 わたしが言うと、篠原は考え込んだ。

「見てもどうにもならないよ」

「それでも見たい」

「うーん」

 篠原は携帯電話を取り出し、電話を始めた。誰にかけているのだろう、と思ったが、あの通話記録を思い出したらそれはすぐにわかった。

「あ、優二? 飯済んだ? 昼から河川敷に来てって言っただろ? ついでにおれの部屋から竹刀持ってきてくれる? うん。うん。ありがとう。じゃあな」

 携帯電話をしまい、わたしを見る。わたしはにこにこ笑っていたが、篠原は渋ったような顔だった。

「見せるものじゃないよ、本当に。しばらくやってないしね」

「いいよ。ああ、楽しみ」

 篠原は、仕方がないなあ、という顔をし、自転車を走らせ始めた。わたしたちは篠原の通っていた小学校や剣道クラブの近くまで走らせた。中に入ってじっくり眺めたかったけれど、小学校は校門が閉まっていたし、剣道クラブは大人が大勢出入りしていた。その他にも、篠原の地元を色々見せてもらった。わたしはわたしの地元と同じく区画整備があまりされていない道や、マンションやアパートの多い街並みをよく目に焼きつけた。篠原の街が自分の馴染みあるものになれば、篠原がより近い存在になるように思えたからだ。

 わたしたちは元の広い道に戻った。いつの間にか街を一周したようだ。そのまま橋の近くまで行き、河川敷に着いた。芝生の生えた土手の上に自転車を停め、階段を下りる。

「あったかいね」

「うん」

 土手に張りつくような横に広いコンクリートの階段の隅に、腰を下ろす。ちょうどいい温かさの風がわたしたちのほうへと吹いてきていた。目の前には清川の透明な流れ。鴨が雛を連れて泳ぎ、鷺が川底の生き物をついばんでいる。小さな水鳥が流れに逆らい、留まっている。蝶が舞う。清川の生態系はどこも同じだな、と思う。とても穏やかな気分だった。

 隣の篠原も目を細めて川の流れを見詰めている。こういうときだから、ずっと心の中に溜め込んでいたものが自然と溢れ出しそうになる。

「本当、今日ここに来られてよかった」

「そう」

「篠原はここで育ったんだね」

「うん」

「何かね、篠原のこと、もっと好きになった気がするよ」

 篠原は無言になって遠くを見詰める。心なしか顔が赤くなっている。好きだという言葉は何度も言葉に出したことがあるのに、篠原は慣れない。

「一から十まで知りたいなんて、欲張りかな」

「そんなことはないよ」

「篠原の育った環境も、友達とのことも、弟とのことも、お父さんやお母さんとのことも知りたい。知りたがっちゃ駄目かな」

 篠原は上半身を心持ち倒して考え込み、また顔を上げた。わたしのほうを見て、にこりともせずに言う。

「他のことはいいんだけど、親のこととなると愚痴が多くてさ。そういうの晒したくないから言おうとしなかったんだ」

「それでもいいよ。わたしはそういうのも知りたいよ」

 わたしが見上げると、篠原は首筋を掻いて悩ましげな顔をした。それからうなずき、

「じゃあ、言う」

 とつぶやいた。

「父親はすごく無口でさ、おれ、物心ついたときから会話したことがほとんどないんだ。家族皆でいるときも、母親が通訳するような感じで。だから母親がいなくなってからは全然話してない。何というか、一緒にいるとすごく緊張する。それがずっと続いてるんだ。時々、父親はおれのこと嫌いなんじゃないかと思う。弟といるときは笑ったり話したりよくするのに、おれと二人きりになるとだんまりだし。で、おれはできるだけ家にいないようにしてるんだ」

 篠原は小さくため息をついた。両親の話をするのはちょっとした心の負担のようだ。

「母親はさ、何というか教育ママで、命令が多かったな。あれしなさいこれしなさいって。あなたは能力があるんだから努力しなさい、ってよく言われた。言われてやる努力なんて何にも面白くないってことがわからなかったみたいだ。いなくなる直前までおれの進路の心配をしてた。隣の区の男子校。あそこに行かせたかったらしい」

 あ、と思った。美登里ちゃんに聞いた話だ。

「いなくなったんだからそんなことまで命令どおりにしなくていいと思って、逆らったんだ。今の高校に通ってるのはそれが一番の理由だな」

「成績が落ちたからじゃないんだ」

 恐る恐る訊くと、篠原は笑い、

「何? それ。噂か何か? 違うよ。おれ、中学時代は最後まで首席だったし」

 と答えた。わたしはほっとすると同時に残念な気分になる。こんな噂を信じてくよくよするなんて、馬鹿だな、と。

「何もかも押しつけてさ、それでいなくなっちゃうんだから、無責任だよな」

 篠原の言葉に、わたしはどきりとした。篠原は、泣いているのではないか。そう思って、顔を覗き込んだ。彼は泣いていなかった。わたしの顔が目の前にあるのに驚いていた。次の瞬間には、篠原はふと表情を緩め、わたしに顔を近づけた。あ、キスされる。そう思って体が熱くなった。しかし、篠原は体を離し、また前を向いた。

「弱い自分を認めたくないんだよな。だから町田に話さないのかも。話しちゃったなあ」

 わたしは相変わらずどきどきしながら、下を向いていた。それから一息ついて、こう言った。

「嬉しいよ」

 篠原はわたしを見て微笑んだ。

「よかった」

 そのとき、上のほうから甲高い声が聞こえてきた。篠原が顔を上げ、お、と明るい声を上げた。

「兄ちゃん!」

 男の子が、凄い勢いで駆け下りてきた。くりくりとした目の、ちっとも篠原に似ていない小さな彼は、体に不似合いなくらい長い棒を持っていた。紺色の袋に入った竹刀だと、すぐにわかった。

「優二、よく来たな」

「だって近くだし。ねえねえ、この人兄ちゃんの彼女?」

 彼はわたしを真っ直ぐに指差し、唾を飛ばしそうな勢いで篠原に訊いた。

「うん」

 篠原はいつかのようにあっさりと肯定した。優二君は大声で、

「マジで!」

 と叫ぶ。随分元気な少年だ。

「ねえねえ」

 坊主頭の優二君は、わたしのほうをしっかりと見て声をかけてきた。

「何歳?」

 意外な質問にわたしはけらけら笑った。

「十六歳だよ」

「え、じゃあ兄ちゃんと同級生?」

「うん」

「兄ちゃんかっこいいでしょ!」

 優二君は篠原が自慢らしい。わたしはにっこり笑ってうなずいた。

「かっこいいよ」

 篠原は赤くなって、笑いながら黙っている。

「どこがかっこいい?」

 わたしは考え込む。

「どこだろう」

「悩むなよ」

 篠原がちょっと残念そうにわたしに言う。わたしは笑い、

「何となくかっこいいと思ってるよ」

 と優二君に答えた。彼は不満げにわたしを見、竹刀を袋から出し始めた。

「兄ちゃん、素振りやって! これやったら絶対かっこいいから!」

 篠原は優二君から竹刀を受け取ると、久しぶりに触るな、とつぶやいた。柄を握り、竹刀を横に向けてまじまじと眺める。そして両手で持って構えると、急に顔つきが変わった。眉が上がり、表情が引き締まる。篠原の持つ空気が、一気に張り詰めたものになる。彼は、一心にどこか一点を見詰め、竹刀を振り上げて一気に下ろした。びゅっ、と空気を切り裂く音がした。

 あ、本当だ、と思った。素振りをしている篠原は、驚くくらい素敵だった。どきどきと胸が高鳴り、さっきキスされそうになったときに感覚が似ている、と感じた。篠原のことしか考えられない気分だ。彼の表情が、わたしを惹きつけて離さない。学校では絶対に見られない顔。

 篠原は五回ほど竹刀を振ると、一息ついて笑顔になり、優二君から袋を受け取って竹刀を中に入れた。とても大事そうに扱うので、彼の中の剣道の大切さがよくわかった。

「どう? どう? かっこいいでしょ!」

 優二君が勢いよく訊く。わたしはうなずき、

「かっこよかった」

 と答えた。篠原は照れ笑いをしながら、袋の紐を結んだ。

「いつか試合を見せられたらいいけど」

「見たい!」

「優二が大きくなるまでは、できないな」

「え、それっていつ?」

 篠原は笑顔のまま、

「中学を卒業するまでかな。優二の弁当作らなきゃいけないし、掃除、洗濯、料理は父親だけじゃ大変だろうしな」

 と答えた。わたしは驚く。

「地元の大学に行く気なの?」

「うん」

「兄ちゃん、おれ弁当いらないよ!」

 優二君は怒ったように叫ぶ。

「おれ自分で弁当作れるよ! 料理や洗濯だっておれやるし!」

「今何もできてないやつが生意気言うなよ」

 篠原が声を上げて笑う。わたしは何も言えずに黙っていた。

 篠原は、優二君のためにここを離れないつもりなのだ。家のために何でもやるつもりなのだ。けれど、彼はそんなに我慢をしなければならないのだろうか。彼だって、やりたいことがあるはずなのに。

 優二君が怒るのもわかる。篠原がそんなに自分を犠牲にすることなんてない。けれどわたしは彼の決意に口出しするのがいけないことのように思えたので、何も言わなかった。

「あ、父さん!」

 優二君が叫んだので、驚いた。振り向くと、土手の上に篠原の父が立っていた。この間と違って微笑んでいて、わたしは意外な感じがした。篠原の父は、眼鏡をきらきら光らせながら階段を下りてきた。隣の篠原を見る。あのときと同じように、緊張している様子だった。

「優二が竹刀を持って飛び出して行ったから、何事かと思って来たんだよ。剣道クラブに寄ったりしたんだけど、どうやらここだな、と思ってさ」

 口調がどこか篠原に似ていた。何となく優二君にだけ話しかけているように感じられたので、わたしは作り笑いを浮かべたまま黙っていた。

「総一郎の友達?」

 彼はわたしをじっと見て訊いた。わたしは口を開いたが、その前に篠原が声を出した。

「彼女」

「そうなの? 意外だな。名前は?」

「町田歌子です」

「そう」

 そのまま沈黙が落ちた。篠原の家では彼と父親の会話は本当に少ないのだな、とこのとき実感した。空気がとまって感じられる。

「……じゃあ、帰ろうかな。総一郎、竹刀はおれが持って帰ろうか。しばらく出たままだろうし、優二が持ってると物騒だからさ」

「うん」

 篠原は父親に竹刀を渡すと、無表情に彼を見詰めていた。

「じゃあ」

「おれ、父さんと一緒に帰る」

 優二君が突然叫び、父親を追って走り出した。土手の上には優二君の小さな自転車が停まっているようだ。篠原と一緒に手を振る。優二君は力一杯手を振り返し、父親を追いかけていった。

「優二は父親のほうが好きらしい」

 篠原が残念そうに言うので、わたしは首を振った。

「どっちのことも好きだと思うよ」

「そうだといいけど」

 篠原はため息をついた。


     *


 夕方、わたしは篠原と一緒に昼の待ち合わせ場所に向かいながら自転車を押していた。ビル街が人で混雑する雑多な繁華街になるにつれ、わたしは寂しくなった。篠原ともっと長くいたいな、とばかり思っていたのだ。

 篠原は無口だった。わたしが色々訊きすぎたのだろうか、と思ったけれど、気にしないことにした。気にしすぎても、わたしと篠原の関係を前進させはしないとわかっていたから。

 篠原が足をとめた。わたしは一歩先に行ってから振り返る。篠原は考え込んでいた。

「どうしたの?」

 そう訊くと、篠原はわたしをじっと見詰めた。唇を開き、言葉をわたしにそっと差し出すようにして、訊く。

「手、握っていい?」

 わたしは驚きながらも左手を差し出した。篠原がためらいがちにそれを自分の手で包む。温かくて湿った篠原の手は、骨ばっていてわたしの手よりずっと大きかった。そのままぎゅっと握られる。何だか、すがられているような気がした。

「町田がいたら、おれ、強くなれる気がする」

「本当?」

 わたしは微笑んだ。

「うん」

 篠原も笑った。わたしはそれが嬉しかった。篠原が優しくしてくれるのも嬉しいけれど、頼られるのはもっと嬉しい。篠原がわたしに好意を寄せてくれてただただ嬉しい、という段階は過ぎていた。わたしは彼に何かを与えたかった。

「強くなるよ」

 篠原は、自信のある顔に戻っていた。わたしは篠原のことがいとおしくて、抱き締めたい気分だった。自転車がなかったら、そうしていただろう。

 わたしたちは手を振って別れた。自転車のペダルをぐいっと漕ぐと、今日の出来事を全て置き去りにしていくような哀しみに胸が騒いだ。それくらい、篠原の街はわたしにとって大切なものになっていた。

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