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蜂蜜製造機弐号  作者: 酒田青
高校一年生 二学期
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雪枝さんと少女漫画

 重い鞄を手に提げて、てくてく歩く。校門の外にはちょっとしたビルや店や住宅が立ち並ぶ。正門を出てから正面と左斜め前、左右に道が続き、わたしは商店街に入るために左斜め前の道に向かう。わたし以外の帰宅部の生徒が歩いたり、自転車を走らせたりしている。

 雪枝さんのアパートは学校から近い。商店の並ぶ通りの裏側にあり、そこはわたしが住む住宅街のすぐそばだ。わたしは秋の涼しさを足元に感じながら、ガラス張りの美容院の中を覗いたり、眼鏡屋の商品がぴかぴか光るのをまぶしく思ったりしながら行く。漬物屋のある角を曲がり、アスファルトの道に座っているお馴染みの三毛猫に呼びかけ、小さな駐車場を横切って、茶系の色合いをしたアパートの階段を上がる。二階の真ん中の部屋のドアの前で呼び鈴を押すと、少し経ってから雪枝さんが出てきた。

「雪枝さん、一週間ぶりだね」

 彼女は黒縁眼鏡をかけた化粧っ気が全くない顔に軽い笑みを浮かべ、

「まあ入って入って」

 と言った。遠慮なく入る。シンクの前を通ってドアを開けると、変わった匂いがした。新古書店の中みたいな、紙とインクとカビの匂い。中に入って、

「やばいね」

 とわたしは笑う。また漫画が増えていた。ベッドの周りに山積み。壁一杯に広がる本棚には二重に入っている。本棚の前にも積まれているし、足の踏み場もない。

「やっぱり? また実家に送らなきゃ」

 雪枝さんは苦悩を顔に浮かべる。彼女の実家は市内なのだが、兄夫婦に子供が生まれて手狭になったので一人暮らしをしているのだ。手狭になったのなら漫画なんか持っていけるのか心配になるのだが、漫画は人の住まない物置部屋に箱詰めになって整理されているらしい。彼女はちょくちょく実家に帰るのだが、最初に行くのはその物置部屋だそうで、集めた少女漫画が勝手に処分されていないか確かめているらしい。苦労がしのばれる。

「歌子はわたしみたいになっちゃ駄目だよ」

 雪枝さんは台所で梅昆布茶を準備している。あの奇妙な香りが漂ってくるけれど、わたしは既に新しく入ったらしい漫画に手を着け、床に座って読んでいたので大して気にならない。そもそも、わたしは梅昆布茶が好きなのだ。

 少女漫画って、素敵だ。人間にはこんな複雑な感情があるということを教えてくれる。ただ恋してそれが実るだけの話だって、少女漫画によって千差万別だ。作品の舞台は何でもあり。宇宙だったり三百年前のイギリスだったり現代の日本だったり雑貨屋だったり貴族のお屋敷だったり学校だったり。主人公の女の子は皆一様に善良で、自意識が強くて、常に自分の気持ちを自分に吐露している。わたしは共感する。自分が善良だとは思わないし、自分で認識できるくらいの自意識もないけれど、何故だか主人公と同じ気持ちになってしまうのだ。素敵な恋をして、ハッピーエンド。最近はハッピーエンドの先の世界が描かれている作品もあり、少女漫画は常に革新を遂げていると思う。

 四巻で完結の作品を読み終わって満足しながら梅昆布茶を飲む。梅のいい香りが口の中から鼻腔に入る。雪枝さんはわたしの近くで、既に読んだであろう別の漫画を読んでいる。淡い水色の部屋着。もちろんお洒落なものではない。ほとんどパジャマだ。でも、仕事中のきちんとした雪枝さんはとてもきれいで、化粧映えする小作りの顔と黒と白の制服で頼りがいのある素敵なお姉さんという感じだ。

「あ、読み終わった?」

 雪枝さんが顔を上げた。わたしはうなずく。

「よかったよね! もう、切ない!」

 彼女はいかにも切なそうな顔になり、胸の前で指を組む。わたしは笑い、

「幼なじみとくっついたんだね」

 と本をめくって最後のコマを見る。主人公の恋人となった幼なじみが微笑みながら主人公を呼んでいる場面だ。

「幼なじみと言えば! どうなってる? 拓人君」

 雪枝さんがわたしに飛びついた。わたしは顔を上げる。

「普通だよ」

「普通? どんな普通?」

「拓人は普通の幼なじみだよ。恋愛対象にはならない」

 雪枝さんはのけぞり、かーっと親父みたいな音を喉から出す。

「もったいない! 拓人君いいじゃん、かわいいじゃん!」

 雪枝さんは私の携帯電話に入っている拓人の写真を見ていたく気に入っているのだ。確かあれは、拓人が高校の入学式の前に「制服似合う?」とわたしに送りつけてきた写真だ。何故か彼の祖母が彼の腕に絡みついているやつ。彼自身はピースサインで笑顔。わたしは何とも思わなかった。なのに雪枝さんは拓人の動向を知りたがり、わたしと彼をくっつけたがるのだ。

「かわいいけど、もっと大人っぽい人のほうが好み」

「男の子なんて高校のころは皆そうだって! 皆思春期なの。子供なの」

 わたしは雪枝さんの発言に驚くけれど、雪枝さんはもう三十歳。これまで色んな経験をしてきたんだろうなと思い至る。自室で少女漫画を読みふける姿からは想像もつかないけれど。

「じゃあ新キャラとかいるわけ?」

 雪枝さんはわたしの周りにいる人間をキャラ呼ばわりする。わたしはちょっと考え、

「篠原とか」

 と答える。雪枝さんは目を見開き、激しく首を縦に振る。聞きたそうだったので言ってみることにした。

「最近一緒にご飯を食べてる秀才。背が高くて冷静で、長袍(チャンパオ)が似合いそうな顔かな」

「長袍!」

 雪枝さんはきっと、わたしたちが気に入っている清朝の中国を舞台にした少女漫画を思い出しているはずだ。彼女は主人公の相手の、科挙を一位で上がった青年をとても気に入っていたのだ。清朝の中国では、上流階級の男性は長袍という長い服を着る。だから長袍という言葉がわたしたちの間で通じるのだ。

「素敵! 篠原君って、歌子のこと好きかな」

 わたしは考え、

「どうだろうね。わかんない」

 と答える。雪枝さんはわくわくした様子で、

「拓人君と篠原君、どっちが歌子の彼氏になるのかな!」

 などと言う。すっかり少女漫画を鑑賞している感覚になっているらしい。わたしは苦笑する

「今日、変わったことがあってさ。篠原とご飯食べてたら拓人が割り込んできて、『歌子は篠原のこと好きなの?』って。拓人って少女漫画の読みすぎだよね」

 雪枝さんが口を手で覆った。

「大変だ……」

「大変って?」

「明らかに拓人君は歌子のこと好きじゃん! で? で? 篠原君は?」

 わたしはきょとんとする。

「別に。普通」

「歌子はどうしたの?」

「どっちも好きって言った」

 雪枝さんは驚愕した顔をわたしに向ける。わたしは手を振って笑う。

「いやいや、どっちも友達として好きだって」

 雪枝さんはほっとしたような残念なような顔になる。

「そっか。そしたら二人は?」

「にらみ合ってた」

 しんとなる。雪枝さんはぽかんとした顔になり、やがて奇妙な笑みを浮かべた。突然わたしの両肩を掴む。

「マジ?」

「まあ気のせいかもしれないけどお互いに目を見てたねえ」

 雪枝さんがすっくと立ち上がった。拳を胸の近くに寄せ、叫んだ。

「萌える!」

 わたしはぽかんとして雪枝さんが慌ただしく座るのを待つ。彼女は嬉しそうに笑い、わたしに訊く。

「で? で? 歌子はどう思った?」

「いや、何とも思わない。にらみ合うこともあるだろうな、と思うくらい」

「いやいや何もなきゃにらみ合わないよ! 二人は歌子を取り合ってるんだって!」

「雪枝さん、瞳孔開いてるよ」

「そりゃあ開くよ! まあ歌子が認めないならそういうことにしよう。で? 歌子の気持ちは?」

 わたしは手近な少女漫画を開きながら、

「さっき言った通り、どっちも友達としてしか好きじゃないな」

 と答える。雪枝さんが残念無念という顔をしているのでわたしは笑ってしまった。彼女は深いため息をつき、

「歌子は少女漫画好きの癖に恋愛に興味ないよね」

 とつぶやく。わたしはうなずき、

「わたしは主人公に興味あるんだよね。相手じゃなく。主人公が成長していったり、自意識を持て余したりするのが好き」

 と笑う。わたしにとって少女漫画のヒーローは主人公のおまけでしかない。雪枝さんは腕を組んで考え込み、ぱっと顔を上げて、

「とりあえず篠原君の顔が見たいから写真撮ってきて」

 と言った。わたしは手にした少女漫画を読みふけりつつ、

「いいよ」

 と答えた。

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