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蜂蜜製造機弐号  作者: 酒田青
高校一年生 三学期
21/156

篠原と雪枝さんとチョコレートの影響

 篠原とくっついていたのはほんのちょっとの間だった。ぐいっと体を離されたので篠原を見ると、彼は校舎を見ていた。篠原は、

「誰か見てたから」

 と真っ赤な顔でささやいた。耳まで赤い。篠原はわたしのことが好きなのかな、という疑問がまた持ち上がる。好きだったら、どうしよう。わたしはどう対応しよう。

「そろそろ帰るよ。チョコレート、ありがとう」

 篠原はトリュフの入った箱を慌てたように閉め、立ち上がった。それからわたしの顔も見ずにそそくさと去っていった。わたしはぽつんとベンチに座っていたが、寒いな、と思って立ち上がり、校舎に戻った。

 篠原の体、温かかったな、と思う。それに、硬くて骨っぽくて、男の子という感じだった。生々しさにやっと気づく。篠原のことを好きになったら、そういう生々しさに触れることになるのだ。そうか、篠原には体があったのだ。当たり前のことにようやく気づいた。

 篠原のことは、好きだ。もう後戻りできないくらい。彼の心臓の鼓動を忘れることなどできないし、たまにしか聞けない笑い声を耳にすると嬉しくて仕方ない。でも、一人の男の子を好きになったという事実に、わたしは後込みしてしまう。

 篠原はわたしのことが好きなのだろうか。もちろん、好きでいてほしい。でも、篠原のことが好きなわたしはちょっと困る。わたしは両思いになるよりは、お互いに片思いしているくらいが気楽でいい、などと思っている。それは勝手なことだろうか。

 教室に戻ると、誰もいなかった。わたしは鞄と紙袋を持ってコートを着、また校舎を出た。

 次に篠原と会うのは月曜日。わたしたちは、手探りでこの先の関係を見つけるのだろう。わかりやすい答えがないから、試験より余程精神衛生に悪い。正解が見つかればいいけれど。

 わたしは先程とは打って変わった不安な気持ちで校門を出た。


     *


「高校生は大変だね」

 雪枝さんがむしゃむしゃとトリュフを歯で砕きながら言った。わたしは家に帰ってから自転車で雪枝さんの働くアーケード街の書店に向かい、彼女の休憩時間を待って、コーヒーショップで向き合っていた。雪枝さんは仕事用のきっちりした化粧をし、髪も結い、白と黒の制服を着ている。テーブルに載っているのは、コーヒーとわたしが彼女にあげたトリュフだ。

「篠原って実在するんだなあって思ったんだ」

 わたしの言葉に雪枝さんは目を丸くする。

「何か、今まで魂同士で会話してたみたいな気分なんだ。体があることにやっと気づいて、何か怖くなっちゃった」

「歌子はそうかもしれないね」

 雪枝さんは両手で頬杖を突く。何だか考える顔だ。

「うーん、段々わかると思うけどな。相手に触りたいって気持ちが起こるし、触ったら相手がちゃんと存在するってわかる。そういうのを重ねていけばいいんだけど。……両方片思いでいるのは無理だよ。お互いに好きならいつか通じ合うものだし、そうしたらいつの間にか互いに触れ合うようになると思うよ」

 雪枝さんは言葉を選んで話してくれたけれど、ちゃんと理解することは難しかった。わたしにそういう気持ちが湧くことは難しい気がしたのだ。でも今日は篠原に抱きついてしまったし、篠原もわたしの肩を抱いてくれた。だからありそうな感じはした。

「篠原君のこと、好きなんでしょう? 足踏みなんかしてないで素直になりな。高校生がずっと近くにいられる時間は、すごく短いんだから」

 雪枝さんはいつになく落ち着いた態度でわたしを諭した。もしかしたら同じような感情を味わったことがあるのかもしれない。わたしはテーブルを見詰め、

「好きなだけじゃ駄目なのかなあ」

 とつぶやいた。


     *


 土日を悶々と過ごし、月曜日の朝は期待と不安で早くに目が覚めてしまった。わたしは階下に降りて朝の支度をした。家族全員で朝食を取る。父はいつも通り上機嫌。母はわたしと父の世話ばかり焼く。ふと、父がわたしに声をかけた。

「歌子。拓人にはチョコやったか?」

 わたしは無表情にうなずく。父は不満そうに口をへの字にする。

「本命チョコか?」

「義理」

 わたしはきっぱりと答える。今は拓人のことなんて何も関係ないのに。父はほっとした様子で食事に戻る。わたしは解放されたようだ。しかし母の一言に食卓が凍りついた。

「でも一番大きいトリュフは誰にあげたの?」

 父がわたしを見ている。わたしはしばらく黙って、

「友達」

 と短く答えた。篠原は今のところ友達だ。多分。だから間違ってはいないと思う。

「本当かあ? まさか彼氏じゃないだろうな。もしそうだったら連れて来いよ。おれは怒ったりしないから」

 父の冗談めかした言葉の途中でわたしは立ち上がる。

「ごちそうさま」

 胸をざわめかせながら食卓を去り、歯を磨いて制服を着、わたしは玄関を出た。二月の空気は冷たく、ひどく喉を痛めつける気がした。


     *


 学校の下駄箱に着いてから、あ、篠原は朝が早いんだった、と気づいて急に胸がどきどきし出した。こんなときに限ってわたしたちは隣同士の席だ。教室は人気がないだろう時間帯だし、篠原を避けようがない。けれど勇気を出して廊下から教室に入る。いた。篠原は驚いたようにわたしを見ていた。

「おはよう」

 こわばった声が出た。篠原はちょっと笑い、

「おはよう」

 と返した。何だ、いつも通りだ、とがっかりする。それからそんな自分に驚く。どうやらわたしは篠原がわたしにうろたえることを期待していたらしい。でもそんなことはなくて、篠原は手元に文庫本を持ち、わたしを真っ直ぐ見て笑っている。

「チョコレート、おいしかったよ。全部食った」

 わたしが席に着くのを待ち、篠原が言った。わたしは微笑むのが困難だったがどうにかやり遂げた。うろたえているのはわたしのほうだ。教室にはぽつりぽつりとしか人がいなくて、わたしは篠原から逃げられなかった。

「町田は料理とかできないタイプだと思ってたけど、違ったからびっくりした」

「料理とお菓子は違うから。料理は作れないよ」

「そうなの? おれ料理得意だよ。いつも作ってる」

 篠原の意外な面に驚いていると、篠原はにっと笑った。

「圧力鍋とかフードプロセッサーとか、前は存在自体知らなかったんだけどさ。必要になったら使えるようになるもんだな」

 どういうことかと身を乗り出して聞いていると、教室の扉が開く音がして、

「篠原、古語辞典貸して」

 という低い声が頭上から降ってきた。岸君だ。篠原の隣の席になってやっと気づいたのだが、岸君はちょくちょく篠原に会いに来る。岸君は篠原と体格が似ていると思っていたのだが、最近はやっとはっきりと区別がつくようになっていた。がっしりして怒り肩なのが岸君で、ひょろっと背が高いのが篠原だ。岸君はわたしに近づき、

「町田さんでもいいよ」

 と笑った。汗の匂いがした。岸君は剣道部だ。朝練習組が校舎にいるということは、もうすぐホームルームが始まる。教室も賑わい出していた。

「おれが貸すよ。いちいち町田に絡まなくていいから」

 篠原は苛立ったような表情で立ち上がり、教室後ろのロッカーに向かう。わたしは岸君と二人になる。岸君はにこにこ笑い、

「チョコレートあげたんだって? 篠原に」

 と言った。わたしはうなずく。

「一番大きいのをあげたよ」

 わたしは篠原がトリュフを食べてくれたときのことを思い出し、浮き立った気分になった。岸君は目を細め、

「それって本命? 義理?」

 と訊く。わたしは一瞬悩み、

「義理」

 と答えた。岸君はわたしの向こうを見ていた。篠原が立っていたのだ。篠原は岸君に辞書を渡し、

「帰れよ。ホームルームが始まるぞ」

 といつもの口調で言い、岸君を追い払った。岸君は気にする素振りで教室を出て行った。わたしは篠原が話すのを待ったが、彼は黙ったままだった。

 義理チョコだと言ったのは、渡すときはそのつもりだったからだ。渡してから、チョコレートの意味が変わったのだ。それを説明する機会を失い、わたしはひどく焦った気持ちになった。田中先生が来て、篠原の号令の声を聞く。いつも通りだ。篠原にとって、義理か本命かなんてどうでもよかったのかもしれないな、と思う。つまり、わたしのことなんて好きじゃないかもしれないのだ。拓人に焼き餅を焼いたのかもしれないだとか、わたしの肩を震える手で包んでくれたとか、そういう確信めいたことは頭から消え去り、わたしはただただ恥ずかしかった。

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