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蜂蜜製造機弐号  作者: 酒田青
高校三年生 三学期
155/156

別れ

 彼の部屋には何度も入ったことがある。つい三日前も渚や岸と来て、出たり入ったりしながらおしゃべりをした。でも、今日はわたし一人で彼の部屋にいる。清潔に整えられたベッドの上に座って。

「お茶、いる?」

 総一郎はドアを開いたまま、わたしに訊いた。首を振ると、うなずいてまた出て行った。

 彼の部屋は、青と灰色で統一されている。寒々しいくらいの色合いだ。彼のベッドは青いシーツで覆われ、大きな本棚にはたくさんの本が入っている。わたしはその中の一冊を手に取った。小説だった。彼が以前わたしに薦めてくれたアメリカの小説。

 彼の部屋には彼の人生があった。剣道の道具、彼の将来の仕事に関係するだろう本、彼が料理をする際に参考にしただろうレシピ本。一週間もするとこの部屋は無人になり、寂しくなるだろう。彼は東京に行く。そして、わたしも。

 彼が手ぶらで入ってきた。今日の彼は紺色のネルシャツを着ている。相変わらずお洒落ではないけれど、ここ二年ほどでわたしは彼のダークトーンの服がとても好きになった。

 彼はわたしの横に座った。ベッドのマットレスがきしんだ。

「……どうする?」

 わたしが訊く。

「どうするって……」

 わたしは彼の手を握った。骨ばった手は大きくて、汗ばんでいた。

「キスしていい?」

 わたしは訊く。総一郎は、本棚を見ながらうなずいた。わたしは彼の頬に口づけた。

「あの」

 彼が声を出した。

「カーテン、閉めていい?」

「いいよ。電気消していい?」

「……いいよ」

 二人で部屋を暗くした。それでもまだ夕方にならないくらいだから、部屋はそれなりに明るい。

 総一郎とわたしはベッドに座り直し、しばらく黙った。

「……おれ、下手だと思う」

「いいよ」

「歌子、痛いかも」

「いいってば」

 彼はまた沈黙した。それから目を閉じ、数秒考え込んでから、わたしに向き直った。わたしを抱きしめ、ゆっくりと押し倒す。わたしは彼を見つめながら、ベッドの上に転がった。

 下から見る彼は、とても官能的だ。わたしをじっと見つめ、決して目を逸らさない。彼はわたしの唇に唇をつけた。何度も口づけ、段々激しさを増し、舌がわたしの口の中に入った。舌が絡む。わたしは彼の背中に手を回す。彼が姿勢を少し変え、ベッドが大きく音を立てる。

 彼はわたしの服をまくり上げた。薄手の白いセーターは緩くて、簡単に脱げた。わたしを見つめ続ける彼の目はとても熱心で、わたしはとても嬉しい。彼の目が、わたしだけに注がれている。わたしも彼だけを見ている。

 彼が服を脱いだ。彼の体は筋肉質で、鍛えられていて、とても美しかった。わたしは突然自分の体が恥ずかしくなった。彼の目に、わたしはどう映っているのか。色々なことを考えながら、わたしたちは互いの体に触れた。わたしはわたしなりに。彼は彼なりに。

 彼が最初に舐めたのは、わたしの鎖骨だった。わたしは驚いて小さく声を上げた。

「人の味がする」

 と彼は言った。わたしはくすくす笑った。それから、わたしたちは深く、深く互いに耽った。


     *


 彼を抱きしめていると、愛おしいと思う。彼が喜ぶと、可愛いと思う。彼はわたしの中で誰よりも大切な人。どんどん好きになる。引き返せなくなる。

 彼は何度もわたしに「愛してる」と言った。優しくわたしを扱い、彼の言う欲望をさらけ出しながら。わたしは彼のことが好きで好きでたまらなくなって、彼の言う意味がわかるようになってしまった。

「愛してる」

 とわたしが言ったとき、彼は目を細めてわたしを見た。それから汗ばんだ肌をわたしに押しつけ、ぎゅっと抱きしめた。

 他の誰より、わたしは彼のことを愛していた。


     *


「歌子、準備はできたか?」

 階下で父の声がする。わたしはスーツケースを一杯にして、「もう少し待って」と叫ぶ。ハンドバッグに小物を詰め、父がまた呼びにくる前にと急いで部屋を出た。スーツケースをがたがた鳴らしていると、父が上がってきて代わりに持ってくれた。

 今から空港に向かう。大きな荷物は今日中に引っ越し会社が持ってきてくれるそうだ。わたしは今日、東京に引っ越すのだ。

「寂しくなるな」

 と言う父の目は潤んでいた。わたしは笑った。

「向こうまで一緒に行くのに、今から泣くの?」

「泣いてないから」

 父が意地になったような顔で目をしばたたかせる。母がよそ行きの格好で出てきた。

「もう行く?」

「そうだね」

 わたしたちは玄関から外に出た。途端に、拓人にぶつかった。鼻をぶつけて痛がる彼に、わたしは大慌てで謝った。

「もうこれしか記憶に残らないぞ。せっかくの別れの日に」

 拓人が鼻を撫でながらわたしに文句を言う。わたしは笑いながら謝る。彼はしばらく黙り、こう言った。

「元気でな」

「うん」

 わたしは寂しい気持ちになった。彼とずっと一緒だった。家が近所で学校もずっと一緒。クラスも一緒。一緒ではない時期が珍しいくらい、そばにいることが多かった。

「わたし、拓人とご近所さんでよかった」

「そう?」

 拓人は笑った。

「助けてくれたし、心を救われた」

「よかったよ、そう思ってくれてて」

「ありがと」

 彼に手を差し出す。彼はぐっとそれを握り、

「こっちこそ」

 と力強く笑った。わたしは心が温かくなった。色んなことが、彼との間であった。でも、彼は変わらずわたしの幼なじみでいてくれた。

「あーっ、歌子、待って!」

 女の子の声がして、渚が走ってくるのが見えた。遅れて、岸。こちらに着くと、二人ともぜいぜいと息をして黙った。

「遅れてごめん」

 謝る渚に、わたしは首を振る。

「いいよー。だって渚たちも引っ越しの準備で忙しいんだから」

「でも送りたいでしょ、空港までは行けないけど、家からくらい」

「ありがとう」

 わたしは笑った。渚はわたしの両親に挨拶をする。

「歌子、飛行機の時間があるから……」

 父の言葉に、拓人たちは寂しそうな顔になった。

「じゃあな」

「うん」

「ちゃんと飯作れよ」

「作れるよ」

「総一郎と仲良くね」

「大丈夫」

 わたしたちは手を振って別れた。寂しかった。けれど、ある面では平気だった。永遠に別れるわけじゃない。それに、今のわたしは自分で生きていけると信じられるのだ。

 車に荷物を載せ、父が車を動かした。家の前を通るとき、拓人が手を振った。わたしは手を振り返す。

 渚と岸が、手を繋いでその手を高く掲げていた。何だかボクシングチャンピオンみたいだな、と笑ってしまった。渚も岸も笑みを浮かべている。楽しそうで、幸せそう。わたしは二人が長く続くことを祈った。

 車は通りを抜け、街を出た。どんどん風景が変わっていく。色々な考えが溢れ出してくる。

 拓人と静香が、これからもずっとうまく行けばいいと思う。

 レイカが美容師になって街で働き始めたら、覗きに行ってみようかな、と思う。

 あやちゃんと舞ちゃんが苦しさから逃れられればいいと思う。

 夏子や美登里や光と、友達でい続けたい、と思う。

 渚や岸を、これからも大切にしていきたい、と思う。

 総一郎のことを思う。彼はわたしの大切な人。魂で繋がっている、わたしの人生に必要不可欠な人だと思う。

 車は見知らぬ街を通り抜けていく。わたしの知っている街は過ぎてしまった。

 メールを送る。「今から行くね」と。しばらく待つと、彼は「待ってる」と返した。

 思春期が過ぎていく。思春期が終わろうとしている。わたしは自らの思春期に告げた。

 さようなら、もう会うことはないね。でも、楽しかったよ。ありがとう。

                   《了》

 長い間お読みいただきありがとうございました。2017.2.23.酒田青枝

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