別れ
彼の部屋には何度も入ったことがある。つい三日前も渚や岸と来て、出たり入ったりしながらおしゃべりをした。でも、今日はわたし一人で彼の部屋にいる。清潔に整えられたベッドの上に座って。
「お茶、いる?」
総一郎はドアを開いたまま、わたしに訊いた。首を振ると、うなずいてまた出て行った。
彼の部屋は、青と灰色で統一されている。寒々しいくらいの色合いだ。彼のベッドは青いシーツで覆われ、大きな本棚にはたくさんの本が入っている。わたしはその中の一冊を手に取った。小説だった。彼が以前わたしに薦めてくれたアメリカの小説。
彼の部屋には彼の人生があった。剣道の道具、彼の将来の仕事に関係するだろう本、彼が料理をする際に参考にしただろうレシピ本。一週間もするとこの部屋は無人になり、寂しくなるだろう。彼は東京に行く。そして、わたしも。
彼が手ぶらで入ってきた。今日の彼は紺色のネルシャツを着ている。相変わらずお洒落ではないけれど、ここ二年ほどでわたしは彼のダークトーンの服がとても好きになった。
彼はわたしの横に座った。ベッドのマットレスがきしんだ。
「……どうする?」
わたしが訊く。
「どうするって……」
わたしは彼の手を握った。骨ばった手は大きくて、汗ばんでいた。
「キスしていい?」
わたしは訊く。総一郎は、本棚を見ながらうなずいた。わたしは彼の頬に口づけた。
「あの」
彼が声を出した。
「カーテン、閉めていい?」
「いいよ。電気消していい?」
「……いいよ」
二人で部屋を暗くした。それでもまだ夕方にならないくらいだから、部屋はそれなりに明るい。
総一郎とわたしはベッドに座り直し、しばらく黙った。
「……おれ、下手だと思う」
「いいよ」
「歌子、痛いかも」
「いいってば」
彼はまた沈黙した。それから目を閉じ、数秒考え込んでから、わたしに向き直った。わたしを抱きしめ、ゆっくりと押し倒す。わたしは彼を見つめながら、ベッドの上に転がった。
下から見る彼は、とても官能的だ。わたしをじっと見つめ、決して目を逸らさない。彼はわたしの唇に唇をつけた。何度も口づけ、段々激しさを増し、舌がわたしの口の中に入った。舌が絡む。わたしは彼の背中に手を回す。彼が姿勢を少し変え、ベッドが大きく音を立てる。
彼はわたしの服をまくり上げた。薄手の白いセーターは緩くて、簡単に脱げた。わたしを見つめ続ける彼の目はとても熱心で、わたしはとても嬉しい。彼の目が、わたしだけに注がれている。わたしも彼だけを見ている。
彼が服を脱いだ。彼の体は筋肉質で、鍛えられていて、とても美しかった。わたしは突然自分の体が恥ずかしくなった。彼の目に、わたしはどう映っているのか。色々なことを考えながら、わたしたちは互いの体に触れた。わたしはわたしなりに。彼は彼なりに。
彼が最初に舐めたのは、わたしの鎖骨だった。わたしは驚いて小さく声を上げた。
「人の味がする」
と彼は言った。わたしはくすくす笑った。それから、わたしたちは深く、深く互いに耽った。
*
彼を抱きしめていると、愛おしいと思う。彼が喜ぶと、可愛いと思う。彼はわたしの中で誰よりも大切な人。どんどん好きになる。引き返せなくなる。
彼は何度もわたしに「愛してる」と言った。優しくわたしを扱い、彼の言う欲望をさらけ出しながら。わたしは彼のことが好きで好きでたまらなくなって、彼の言う意味がわかるようになってしまった。
「愛してる」
とわたしが言ったとき、彼は目を細めてわたしを見た。それから汗ばんだ肌をわたしに押しつけ、ぎゅっと抱きしめた。
他の誰より、わたしは彼のことを愛していた。
*
「歌子、準備はできたか?」
階下で父の声がする。わたしはスーツケースを一杯にして、「もう少し待って」と叫ぶ。ハンドバッグに小物を詰め、父がまた呼びにくる前にと急いで部屋を出た。スーツケースをがたがた鳴らしていると、父が上がってきて代わりに持ってくれた。
今から空港に向かう。大きな荷物は今日中に引っ越し会社が持ってきてくれるそうだ。わたしは今日、東京に引っ越すのだ。
「寂しくなるな」
と言う父の目は潤んでいた。わたしは笑った。
「向こうまで一緒に行くのに、今から泣くの?」
「泣いてないから」
父が意地になったような顔で目をしばたたかせる。母がよそ行きの格好で出てきた。
「もう行く?」
「そうだね」
わたしたちは玄関から外に出た。途端に、拓人にぶつかった。鼻をぶつけて痛がる彼に、わたしは大慌てで謝った。
「もうこれしか記憶に残らないぞ。せっかくの別れの日に」
拓人が鼻を撫でながらわたしに文句を言う。わたしは笑いながら謝る。彼はしばらく黙り、こう言った。
「元気でな」
「うん」
わたしは寂しい気持ちになった。彼とずっと一緒だった。家が近所で学校もずっと一緒。クラスも一緒。一緒ではない時期が珍しいくらい、そばにいることが多かった。
「わたし、拓人とご近所さんでよかった」
「そう?」
拓人は笑った。
「助けてくれたし、心を救われた」
「よかったよ、そう思ってくれてて」
「ありがと」
彼に手を差し出す。彼はぐっとそれを握り、
「こっちこそ」
と力強く笑った。わたしは心が温かくなった。色んなことが、彼との間であった。でも、彼は変わらずわたしの幼なじみでいてくれた。
「あーっ、歌子、待って!」
女の子の声がして、渚が走ってくるのが見えた。遅れて、岸。こちらに着くと、二人ともぜいぜいと息をして黙った。
「遅れてごめん」
謝る渚に、わたしは首を振る。
「いいよー。だって渚たちも引っ越しの準備で忙しいんだから」
「でも送りたいでしょ、空港までは行けないけど、家からくらい」
「ありがとう」
わたしは笑った。渚はわたしの両親に挨拶をする。
「歌子、飛行機の時間があるから……」
父の言葉に、拓人たちは寂しそうな顔になった。
「じゃあな」
「うん」
「ちゃんと飯作れよ」
「作れるよ」
「総一郎と仲良くね」
「大丈夫」
わたしたちは手を振って別れた。寂しかった。けれど、ある面では平気だった。永遠に別れるわけじゃない。それに、今のわたしは自分で生きていけると信じられるのだ。
車に荷物を載せ、父が車を動かした。家の前を通るとき、拓人が手を振った。わたしは手を振り返す。
渚と岸が、手を繋いでその手を高く掲げていた。何だかボクシングチャンピオンみたいだな、と笑ってしまった。渚も岸も笑みを浮かべている。楽しそうで、幸せそう。わたしは二人が長く続くことを祈った。
車は通りを抜け、街を出た。どんどん風景が変わっていく。色々な考えが溢れ出してくる。
拓人と静香が、これからもずっとうまく行けばいいと思う。
レイカが美容師になって街で働き始めたら、覗きに行ってみようかな、と思う。
あやちゃんと舞ちゃんが苦しさから逃れられればいいと思う。
夏子や美登里や光と、友達でい続けたい、と思う。
渚や岸を、これからも大切にしていきたい、と思う。
総一郎のことを思う。彼はわたしの大切な人。魂で繋がっている、わたしの人生に必要不可欠な人だと思う。
車は見知らぬ街を通り抜けていく。わたしの知っている街は過ぎてしまった。
メールを送る。「今から行くね」と。しばらく待つと、彼は「待ってる」と返した。
思春期が過ぎていく。思春期が終わろうとしている。わたしは自らの思春期に告げた。
さようなら、もう会うことはないね。でも、楽しかったよ。ありがとう。
《了》
長い間お読みいただきありがとうございました。2017.2.23.酒田青枝