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蜂蜜製造機弐号  作者: 酒田青
高校三年生 三学期
154/156

雪枝さんの赴任校

「赴任校が決まったよ!」

 届いたメールにはそう書いてあった。わたしは興奮しながら返事をする。

「どこの高校?」

「何と、歌子の高校!」

 びっくりした。それから大慌てで画面に指を滑らせて文字を打つ。

「雪枝さん、冗談じゃなく?」

「冗談じゃないよ! とにかくうちに来て。お母さんも来てるから!」

 お母さん、ということは中村先生だ。大慌てで準備をする。中村先生が雪枝さんと一緒に働くことになるのだろうか。それはわたしにとってすごいことだ。母が「どこに行くの?」と訊くので、わたしは「雪枝さんの家!」と叫ぶ。母は納得したようだ。「夕飯までには帰ってきなさいね」と声がした。

 玄関を飛び出し、商店街に入る。眼鏡屋も八百屋もいつも通り賑やかに品物を売っている。上田さんと倫子さんの小さな美容室も、相変わらず営業中で年輩のお客が二人いるようだ。子供のころから親しんできた商店街。こことももうお別れだ。

 春めいてきた最近は、一番分厚いコートを着なくて良くなった。少し薄いジャケットを羽織って、唐揚げ屋の匂いをくぐり、スニーカーで駆け抜ける。桜の季節に入ったけれど、この商店街には造花の桜が店先にくくりつけてあるだけだ。でも統一感があっていいと思う。素朴で賑やかで、すでに懐かしい。十代のこの通りでの思い出は、このシーンが最後になるのかもしれない。

 漬け物屋の角を曲がり、少し行ったところにある茶色いアパート。雪枝さんはその前にいた。中村先生と一緒に。二人とも手を振っている。

「雪枝さん、おめでとう」

 着いて早々、荒い息を吐きながら言うと、雪枝さんは声を上げて笑った。

「そんなに慌てなくても、わたしの赴任校は逃げないよ!」

 中村先生は雪枝さんの楽しそうな様に呆れたようにため息をつく。中村先生と会うのは数日ぶりだ。S大に受かったことと、W大に入学することにしたことを報告するために一度高校に行き、そのときに話して以来。彼女は何だか元気がない。不思議に思っていると、雪枝さんが答えを教えてくれた。

「お母さん、他校に転勤だって」

「えっ」

「そうよ、町田さん。残念だけど。それなのにこの子はへらへら笑って」

 中村先生は落ち込んでいるように見えた。わたしたちの学校は、中村先生にとっていい学校だっただろうか。わたしたちは、いい生徒だっただろうか。色々考えてしまう。

「中村先生」

 わたしは先生にそっと声をかけた。それからかあっと体が熱くなり、とても恥ずかしい思いをしながらこう言った。

「わたし、中村先生に色々教えていただいて、そばにいてくださって、助けてくださって、すごく助かりました。ありがとうございました」

 ただこれだけなのに、恥ずかしい。でも、先生に素直にお礼を言えて、とても嬉しかった。先生は一瞬言葉に詰まり、それからにっこり笑った。

「わたし、町田さんにはあまり相談してもらえなかったわ」

「先生が気づいて、相談しなさいって言ってくださって、それだけですごく救われたんです。わたし、誰にも言えなかったことがたくさんあった。孤立したり、無視されたりして、親にも先生にも言えなかった。でも、先生は助けようとしてくれた。その素振りだけでも、わたしはすごく感謝してるんです」

 中村先生は笑ってわたしを抱きしめた。先生は、優しい香りがした。先生の体温はわたしより高く、とても温かかった。その温かさは、先生の人柄そのもののように思えた。

「ありがとうございます」

 わたしが言うと、先生はただただ、ぎゅっと力を込めてくれた。しばらくして、体を離し、先生は言った。

「これから、色々なことがあると思うわ。それでもあなたは乗り越えていけると思う。頑張りなさいね」

 わたしは笑って「はい」と答えた。雪枝さんは、そっと近づいてきて先生に触れた。

「お母さん。わたし、お母さんの跡を継ぐつもりでやるよ。厳しくて、でも心優しい中村先生になる。だから、安心して」

 先生はうなずいた。同時にわっと泣き出した。

「あなたたちは、わたしを泣かそうとばかりしてる!」

 大慌てで先生を慰める。雪枝さんも、わたしも。色々言葉を尽くし、そのうち何だか笑えてきて、わたしと雪枝さんが笑い出すと、中村先生まで声を震わせて笑った。わたしたちは笑った。それから、三人で握手をした。

 中村先生がここに来たのは、雪枝さんの家の整理のためだそうだ。引っ越すわけではないけれど、「教師向きの部屋に作り替える」ために先生がやって来たらしい。一体どんな部屋になるのだろう。気になるけれど、雪枝さんとはこれからしばらく会えなくなる。学校の準備に追われるらしい。

 雪枝さんも、わたしの三年間を力強く支えてくれた。滅多に会えなくなるかと思うと、寂しくて仕方がない。

「雪枝さん」

 声をかけ、後ろから抱きついた。雪枝さんは笑い、

「なーに?」

 と訊く。わたしは少し涙ぐみ、気持ちを伝える。

「ありがとう。わたしも、雪枝さんを応援する」

 雪枝さんがわたしを応援してくれたように、とは言わなかった。それでも彼女はわかっていてくれた。彼女は、わたしが彼女の前に回した手を握って、

「うん。そうしてくれると嬉しい」

 と言って、振り向き、笑った。


     *


「篠原君は主席だったか!」

「はい……」

「すごいな。渚が主席かと思ってたけど」

「雨宮も成績はいいと思います」

「そうだろうな。で、篠原君はT大学だって?」

「はい……」

「すごいなー。勉強したんだなー」

「それほどでも……」

 先ほどから総一郎が父と話をしている。父はソファーに座り、わたしと総一郎が床に座っているという状況で。総一郎は正座だ。父もソファーの一部を明け渡せばいいのに、真ん中に座って手を背もたれに広げている。総一郎はずっと緊張していて、顔が強ばっている。父の態度にずっと圧倒されているという感じがする。

「剣道が強いとか」

「小さいときからやってて」

「何段だ?」

 総一郎は無表情に近いくらいの顔で答える。父は上機嫌に笑っている。こんなに機嫌がいいのも当然だ。父は一人、ビールを飲んでいるのだ。

「篠原君もビール飲むか?」

「お父さん、わたしたちは未成年だよ」

「わかってるよ。ちょっとだけ、ちょっとだけ!」

「いえ、ぼくは結構です」

 総一郎が断ると、父は笑いを引っ込めて「そうか」と言った。嫌な予感がする。

「篠原君は、真面目だな」

 ぽつりと父が言った言葉に返事をせず、総一郎はただ父を見つめた。それから二人はじっと互いを見て、総一郎はようやく言葉を発した。

「面白味がない人間だとは思います」

 父がため息をつく。

「歌子、一緒にいて楽しいか?」

「何言ってるの。お父さん、酔っぱらいすぎ」

 わたしはむっとした。父は浮かれすぎていたし、突然憂鬱そうな様子になったことに何だか腹が立った。総一郎を呼ぶように言ったのは父だというのに、この態度は酷い。

「まあまあ、篠原君、これどうぞ」

 母が台所から出てきて、クッキーを出した。さっきわたしと一緒に焼いていたものだ。

「ありがとうございます」

 総一郎はかすかに笑った。母はそれを見てにっこり笑う。

「篠原君が来るから、お父さん緊張してるのよね」

 母がわたしに向けるような言い方でフォローをした。父は少し不機嫌な様子でクッキーをかじり、総一郎もそうした。わたしが、

「それ、わたしが作ったやつ」

 と総一郎に言うと、彼は笑った。「おいしい」と言ってくれた。父はそれを見て目を丸くする。

「母が亡くなってからこういう手作りのお菓子ってあまり食べてなくて。おいしいです」

 総一郎が言うと、父は身を乗り出した。

「おいしいか」

「……はい」

「どんどん食え」

 父はクッキーの皿を押し出した。総一郎は戸惑いながらもう一枚クッキーを手に取った。父はどうやら総一郎に突然親しみを感じたらしく、再び笑顔を向けた。

「歌子は、篠原君にとってどうだ?」

「ええと」

 総一郎は言いよどむ。それからわたしをちらりと見る。わたしは気になって仕方がなくて、じっと彼を見つめる。

「可愛くて、素直にものを言って、明るくて、ぼくにはもったいないと思います」

「そうか」

 総一郎の言葉に、父は満足げに大きくうなずく。総一郎は更に続けた。

「ぼくにとっての、宝物です」

 わたしは彼をじっと見た。彼は耳まで赤くなっていて、それでも表情は崩していなかった。両親はしばらく固まっていたが、母がようやく「そうなの」と言うと、父はうなずいた。何度もうなずき、大きな声で感極まった声を出した。

「篠原君はすごくいい青年だと思う。ありがとう。これからも歌子を大切にしてくれ」

 総一郎は顔を赤らめたまま床をじっと見て、それから父を見て、「はい」と答えた。わたしはじっと彼を見つめ続けた。宝物、という言葉を反芻しながら。

 結局、両親は総一郎をとても気に入ってくれたようだ。総一郎も、二人に馴染んだらうまくやっていけるのではないかと思う。帰り際、両親は総一郎を玄関まで送った。父は、

「東京で歌子が困ってたら、助けてくれよ」

 と笑った。総一郎は少し笑い、

「はい」

 とうなずいた。


     *


「宝物、なの?」

 玄関を出て、夕暮れの通りを眺めながら訊く。総一郎は顔をまた赤くして、「うん」とうなずいた。

「おれは、歌子をずっと大切にしたいと思う。そういう意味で、宝物って言った」

「ありがとう」

 わたしは小さな声で言った。それから、「でも」と続けた。彼はぱっとわたしを見る。

「わたしはいつまでも総一郎の宝物でいるわけにはいかないよ」

 総一郎は驚いたようにわたしを見つめる。それから、別れ話を切り出されたかのような、とても悲しい顔をした。わたしはそんな彼を見て、言いよどむ。

「わたしは総一郎の宝物でいるより、総一郎と二人で、わたしたちの関係を大切にしていたいって思う」

「……どういうこと?」

 彼は不安そうにわたしの顔を覗き込む。わたしは顔を見られないように、地面をじっと見る。

「総一郎が一方的にわたしを大切にしたら、わたしたちの関係は一方的なものでしかなくなる」

 彼は黙った。まだわからないようだ。

「わたしは、総一郎と関係を進めたい」

 総一郎は慌てて家のほうを見た。両親は家の中だが、居間は玄関から離れているし、わたしたち自身も庭の中に足を踏み入れているから大丈夫のはずだ。総一郎は混乱したようにわたしを見、小さく言った。

「歌子」

「総一郎はわたしに欲望を持ってるっていってたよね。わたしだってそうだよ。総一郎に欲望くらい持ってるよ」

 総一郎は呆然としたようにわたしを見続けている。わたしは恥ずかしさで目を合わせるのも困難だったが、どうにかそうした。

「わたしは、二人の関係を二人のものにしたいんだよ」

 総一郎は目をぎゅっと閉じ、頭を抱えて考えていた。わたしはなおも言い募る。

「総一郎。わたしは冗談や気まぐれで言ってるわけじゃない。わたしは、総一郎が大事なの。でも、総一郎とは違うやり方で、大切にしたいの」

 総一郎は手を下ろした。それから真剣な目でわたしを見た。彼は優しい手つきでわたしを抱き寄せ、

「わかった」

 と言った。

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