卒業式
「おはよう! 受かったよ!」
月曜の朝、教室で夏子に会ってすぐさまそう言ったら、彼女は一瞬ぽかんとしてから「えーっ」と喜びよりも驚きが勝った顔でわたしを見た。美登里が飛びついてきた。「マジ?」と目を真ん丸にしてわたしの腕を掴んでいる。教室の仲のいい面々どころかあまり話したことのない男子まで、わたしの周りにやってきた。「え、本当?」だとか「嘘でしょ?」だとか「W大に? まさか」だとか、全員信じていなかったらしい反応だ。夏子や美登里は信じ始めたらしいけれど、こんなに信じてもらえないとちょっとショックだ。
「お、歌子、受かってたな。おめでとう」
遅れて入ってきた拓人が皆に囲まれているわたしの向こうでいつも通りのトーンで言った。鞄を机に起き、準備をしながら、
「おれも歌子に電話されてから確認したけど、本当に番号があってびっくりした。すごいよ。あれだけ勉強したんだから当然なんだけどさ」
わたしを囲んでいたクラスメイトたちは、やっと信じたらしい。興奮気味にわたしに「おめでとう」と声をかけたり、呆然と自分の席に去ったりする。
「歌子、おめでと」
夏子が満面の笑みで言ってくれた。
「おめでとう。うー、わたしも本命受かりたい」
美登里が一人、悔しがる。わたしはもう少し静かな環境で二人に言えばよかったな、と思いつつ、
「ありがとう」
と答えて笑った。
*
「歌子ー、おめでとう」
ホームルーム後に、光がわたしのところに跳ねるようにやってきた。嬉しくて、わたしも光のところに飛んでいく。光がにこにこ笑いながら、
「東京私立組だね、わたしたち」
とピースサインをわたしに向ける。わたしも同じポーズを取り、
「大学は違うけどよろしくね」
と言う。初めて一人暮らしする場所に友達がいてくれるのは、とてもありがたいことだ。光はひっひっひと笑う。
「歌子の家に頻繁に行くと思うな、わたし。だってお互い一人暮らしだもん」
「わたしも光のことすごく頼りそう」
「どうぞどうぞ、そのほうがわたしも嬉しい」
光の言葉に、わたしは顔をほころばせる。東京の暮らしも、孤独ではなさそうだ。
「夕飯とか一緒に食べたり、二十歳過ぎたら一緒にお酒を飲んだり。楽しみだねー」
「うんうん」
光とは長いつき合いになると思う。そういう予感がわたしにある。わたしは彼女を心から好きだと思う。
光としばらく話をしているうちに時間が経っていった。一番大事な人には、直接伝えられていない。
*
卒業式の練習をしながら、総一郎を見る。歌の練習、段取りの練習。卒業式まで、わたしたちは忙しい。歌うのが好きではない彼が無表情に歌うのを見、卒業証書授与の練習のために壇上に上がる彼を見、練習が終わるのを待っていた。
解散の声がかかったので、総一郎の元に急いで向かう。彼は岸と楽しそうに話しながら歩いていた。渚が彼らの元に向かうのが見える。声をかけようとしたら、誰かにぶつかった。
「ごめん」
誰かと思ったらレイカだ。彼女は謝ったことを後悔したような戸惑った表情をした。それからわたしにこう言った。
「志望大学、受かったんだって?」
わたしは少し驚きがらうなずいた。レイカは横の方を見ながら笑い、とても言いにくそうに、
「おめでとう」
と言った。何を言われたのかわからなかった。レイカがわたしに祝福の言葉を言うなんて、全く予想できていなかった。
「あ、……ありがとう」
「わたし、あんたに言いたいことがあってさ」
「……何?」
レイカが口を開いた。その瞬間、わたしは名前を呼ばれた。振り向くと、渚が険しい顔でわたしに手招きをしていた。総一郎も心配そうだ。わたしはレイカに向き直り、
「ごめん、皆が呼んでるから」
と言った。彼女はうなずき、
「大したことじゃないから」
とそのまま身を翻して行ってしまった。
総一郎たちの元に行くと、早速わたしは渚にじっと見つめられ、「何言われた?」と訊かれた。
「大したことじゃないよ。大学に受かったこと、伝わってたらしくて『おめでとう』って……」
「それだけ?」
岸が訊く。目を真ん丸にしている。
「うん。何だろうね。変な感じ」
そう答えながらも、嫌な気分でなかった。違和感こそあれ、彼女がわたしにしたことは今のわたしの中で過去のこととなっていたから、それを許せはしなくても、彼女を嫌い続ける気分ではなかったのだ。
「歌子」
総一郎がわたしに声をかけた。報告しないと、と思って向き直る。
「町田さん!」
突然声をかけられ振り向くと、中村先生がわたしの手を握っていた。ぶんぶん振って、「おめでとう!」と言う。わたしは突然彼女と同じくらい気分が盛り上がり、「ありがとうございます!」と答える。総一郎たちが呆気に取られている状況で、わたしは中村先生の滔々と流れるような言葉に元気一杯で応えた。
「本当にな、よく頑張ったよ」
いつの間にか田中先生が横にいて、にこにこ笑っている。わたしはもう一度「ありがとうございます」と笑う。
「大学に入ったからって気を抜くんじゃないぞ」
「もちろんです」
気がつくと、総一郎たちが手持ち無沙汰にしていたので、わたしはまだ話したそうな先生たちの話をうまく終わらせて三人と一緒に歩き出した。総一郎に伝えたいのに、今更な気分になってきてしまった。わたしたちはいつもと同じような会話を交わし、体育館を出た。体育館も寒いが、外もそれなりに寒い。上着を着ていないので身を縮めて風から身を守る。
「岸と雨宮、ちょっと先行ってて。おれ、歌子と話してくる」
総一郎が二人に声をかけた。渚たちは顔を見合わせ、笑って手を振って行ってしまった。総一郎がわたしに視線を送り、わたしがついてくるのを見て歩き出す。体育館の裏手の駐車場に出た。先生たちの車が並ぶ中、人気がないのを確認して、総一郎がわたしに手招きをした。わたしは彼がいる体育館の陰に向かって歩く。
「おれに言いたいことがあるんだろ?」
彼はにっこり笑った。わたしは照れ笑いをする。彼のことをじっと見ていたことは、完全にばれていたようだ。
「あのね、言ってほしい言葉があって」
「何?」
「『おめでとう』って言ってほしい」
彼は声を漏らして笑った。
「それ、皆に言われただろ? さっきも原だとか中村先生だとか田中先生だとか……」
「総一郎に言ってほしい」
駄々っ子のような口調になってしまう。彼は微笑んだ。
「どういう風に?」
「……抱きしめて、耳元で言ってほしい」
下を向いて言ったら、笑う声がした。顔を上げると口元に手を当てて笑いを堪えている。わたしは文句を言おうとした。その瞬間、彼はわたしを抱きしめた。
「おめでとう。すごいよ。頑張ったよ、歌子は」
わたしを腕に包み、屈んだまま、彼はわたしにささやきかけた。とてつもない満足感が広がっていく。受かったんだ、という実感も、じわじわと湧く。
「うん」
「去年の春からずっとだもんな」
「うん」
「大丈夫、東京でもやれるよ、歌子は」
「ありがとう」
総一郎はようやく体を離した。にこにこ笑いながらこんなことを言う。
「おれが受かったら、おれにもやってほしいな、これ」
「やるよ、もちろん」
総一郎との関係は、与え合うことなのだな、と心から思う。
*
教室に行くと、賑やかに飾りつけてあった。下級生がしてくれたらしい。紙でできた薔薇の花や、紅白の紙のチェーンが壁や黒板にある。黒板にはチョークで書かれた「祝卒業」の文字。卒業するのか。不思議な感じだ。三年間この学校に通ったのだ。もう来ないのだということを、なかなか信じられない。
「寂しい」
夏子が隣で泣いていた。あんなに明るい夏子が泣くなんて。でも、彼女はいつも楽しそうに学校生活を送っていた。寂しいのは当然かもしれない。
「あーあ」
美登里がため息をついていた。この学校生活が惜しい、という表情だった。彼女にとっても、いい学校生活だったらしい。
下級生の女の子が、拓人の胸に卒業生の印である紅白のリボンをつけていた。とても緊張し、顔を赤らめている。拓人はにこにこ笑ってその子を見ている。罪な男だなあ、と思う。わたしの胸には既にリボンがついている。明るい女の子がつけてくれた。何でもわたしは突然難関大に受かった三年生として少し有名になっているらしい。
「わたしも頑張ります。町田先輩も東京で頑張ってください」
と言ってくれた。わたしは高校生活で先輩や後輩の関係を築かなかったことが急に惜しくなった。
静香がやってきた。リボンをつけ終わった下級生に声をかける拓人を見ながら、わたしに、
「拓人はもてるね。本当に」
と笑う。彼女は地元に近い難関大を受けていて、結果待ちだ。
「歌子ー。おはよ」
光がやって来た。彼女は今日、いつもよりお洒落をして髪をスプレーで固めている。わたしはいつも通りだ。肩に届かないくらいの髪を垂らしただけ。
「終わっちゃうんだね」
わたしが言うと、夏子が「うん」と涙ぐんだ声で答えた。美登里はわたしをじっと見、静香も光もわたしにうなずきかける。
「寂しいような、そうでもないような」
わたしの言葉に、光が「えーっ」と驚いた声を上げる。「何で?」と静香が不思議そうに言う。
「うーん」
いい思い出だけではないのだ、この高校生活というものは。いじめられたことも仲間外れにされたことも妙な噂を流されたことも、わたしは忘れていない。でも、静香と友達になった今は、彼女に嫌われたことも嫌な思い出ではないし、光がレイカと一緒にわたしを疎外したことも、彼女が全身全霊でわたしの友達になろうとしてくれたことで嫌な感情が消えてしまった。総一郎と喧嘩して一旦別れてしまったことも、彼と仲直りをしたから思い出しても少し胸が痛いくらいで済む。
ひょっとして、色々ありすぎて感慨が湧かないのかもしれないな、と思う。
「歌子は卒業式で泣かないってこと?」
美登里が訊く。わたしは考え、
「泣かないなあ。だって今まで一回も泣いたことないよ」
と笑った。
「おーい、静香、もうすぐホームルームが始まるから教室に戻ったほうがいいぞ」
拓人が手を上げてこちらに向かって声をかける。「わかった」と静香が答え、手を振って教室を出ていった。光もだ。わたしはまだ泣いている夏子や寂しそうに教室を見渡す美登里と共に、教室の自分の席についた。
*
卒業式の前のホームルームは、業務連絡が主でばたばたと過ぎていった。田中先生の話はとても感動的で、泣いてしまう生徒が何人かいた。けれどわたしは何の感情も湧かなかったのだ。教室が飾りつけられているだけで、いつもと同じなのではないかという気分がまだあった。
卒業生として、体育館の前で並んでいるときもそうだった。皆湿っぽい感じになって、少しナイーブになっているのに、わたしはぼんやり立っていた。前のほうの総一郎が見えた。彼は緊張していた。主席だった彼は、答辞を読むことになっているらしい。
「卒業生、入場」
というマイク越しの声が聞こえ、先頭の一組が歩き出した。拍手の音が遠くから聞こえる。総一郎が体育館に吸い込まれていく。同時にわたしのいる五組も動き出した。
体育館に入ると、人が大勢いた。いつもはバスケットボールやバレーボールのための線がたくさん引かれた床は緑色の敷物で覆われていた。下級生がいて、保護者がいて、先生たちがいる。黒い紋付きの着物を着た中村先生が座っていて、もうハンカチで口元を覆っている。わたしたちの先頭を歩く田中先生はさっきからずっと無言だった。夢の中のように、わたしは卒業生の席に立つ。壇上の大きな紙には「卒業式」と大きく書いてある。本当に卒業式なのだ。信じられないけれど。
卒業式が始まった。お決まりの短い歌を歌い、卒業証書の授与があった。総一郎も渚も岸も、いつもの彼らとは思えないくらい厳かに卒業証書を受け取って戻っていく。どんどん、流れるように証書は渡される。わたしの番が来て、壇上に上がった。気づけば白い髭を整えた校長先生が目の前にいて、「おめでとう」と言う。わたしは小さく「ありがとうございます」と答え、頭を下げて降りていく。本当に現実なのだろうか。どんどん夢めいていく。校長先生の言葉、来賓の言葉、下級生の送辞。わたしの中で現実感が起きない。
総一郎が答辞のために壇上に上がった。緊張した面もちで、彼は口上を述べたあとこう言った。
「われわれ卒業生の三年間は、様々な出会いと苦悩と喜びで満ちていました。辛いことや悩むことがたくさんありました。しかし、助けてくれる人々もたくさんいました。わたしたちがこうして卒業できるのは、そうした友人、先生方、保護者の皆様方、そのほか大切な人々がわたしたちの側にいてくれたからでした」
大切な人々、の中にわたしが入っていることはすぐにわかった。わたしは彼の三年間の一部だった。そして、彼もわたしの高校生活の大いなる一部分であり、渚も、岸も、拓人も、光も、美登里も夏子も静香もレイカも舞ちゃんもあやちゃんも坂本さんも王先輩も、わたしを苦しめようが助けようが全ての人がわたしのこの三年を成しているのだった。わたしは心がはっきりと動き出すのを感じた。
総一郎が答辞を済ませ、拍手の中、降りてくる。彼と目が合う。わたしは彼を見て、心が浮遊するような気分になる。校歌斉唱が始まり、皆で歌う。歌い慣れた歌なのに、とても美しく感じる。せり上げてくるものがある。歌いながら、わたしは涙が溢れ出すのをとめられなかった。声がうまく出ない。他の泣いている生徒と同じように、わたしは声を詰まらせた。やがて歌えなくなって、わたしはただただ大泣きした。
*
卒業式後のホームルームでも、わたしは田中先生の話で泣いてしまった。誰よりも泣いていた気がする。皆と別れを惜しみ合い、卒業しても会おうと約束をする。母が微笑みながらわたしの背中をぽんぽんと叩く。ようやく泣きそうな気分が落ち着いてきた。田中先生が来て、わたしに声をかける。
「卒業後も来ていいぞ、そんなに卒業が辛いなら」
茶化す先生に、わたしは笑う。
「辛くはないんです。何だかいい気分で」
「そうか。それならいいけど」
「でもいつでも来ます」
わたしの言葉に、田中先生は笑った。熱心にわたしたちのクラスの担任を務めた田中先生。最初は頼りなくて若い先生だったのに、今はベテランみたいに堂々としていて頼りがいがある。渚のことで色々あったりしたけれど、わたしはこの人のクラスの生徒でよかったと思う。
「歌子ー、もうあたしたち行くけど、どうする?」
渚が教室に入ってきた。彼女もいつも通りの髪型だ。淡い色の無造作なショートカットヘア。
「行く。お母さん、行こう」
母に呼びかける。よそ行きの格好をした母は、うなずいて歩き出す。
総一郎と岸の姿を見つけ、歩く。渚は父親が、岸は母親が一緒だ。総一郎の父もいた。彼は総一郎そっくりににっこり笑って手を上げた。
「総一郎の答辞、よかった」
わたしが言うと、総一郎は恥ずかしそうにうなずいた。
「三日三晩考えて、担任や中村先生に散々直されたよ。大変だった」
「すごく響いたよ」
「よかった」
「ねえ、総一郎」
「何?」
「卒業して変わるのは確実だね、わたしたち」
総一郎がわたしを見る。
「だってさ、もう終わったもん。この三年間が。これからまた始めなきゃいけない」
「そうだな」
「一緒に始めようよ。始めるとしたら、総一郎は絶対一緒にいてほしい」
わたしが言うと、総一郎は笑った。それから、
「もちろん」
とうなずいた。
*
一階の昇降口に着くと、岸が下級生に連れ去られた。次に、総一郎。それから荒々しい胴上げをされる。わたしと渚はそれを見て笑う。
「何かさ、変な感じ」
渚は遠くを見つめる。
「いつも一緒だったもんね、あたしたち」
「そうだね」
「バラバラかー」
彼女は真顔で長いため息をついた。それから突然わたしに振り向いて笑う。
「あたし、歌子と友達になれてよかった」
突然の言葉に、きょとんとしてしまう。渚は大きく手を広げ、はっきりとした声で言う。
「あたしにとって、この高校生活はくだらないものばかりで、そういうものとつき合うのはすごく苦痛だった。女子同士でトイレに連れ立つのが当たり前だったり、空気を共有しなきゃいけないっていう圧力だったり、違っちゃいけないって押しつけられることだったり。歌子はそういうのをあたしほど嫌だとは思ってなかったみたいだけど、あたしに近い考え方をしてるのを見て嬉しかった。仲良くなって大正解だった。本当に大切な友達になってくれた。一緒にいられたことはあたしの人生の財産だよ」
わたしは胸が一杯になった。渚に救われたのはわたしも同じだ。渚がいたからわたしはたくさんの場面でどん底に落ちずに済んだ。彼女はわたしの人生を大きく上向かせてくれた人だ。
「わたし、京都に行くよ。お金貯めて、時々京都に行く」
涙を一杯溜めてわたしが言うと、渚はけらけら笑い、わたしの手を握った。
「うん、あたしも東京に行く。まあ、まだ受かってるかどうかわかんないんだけどね」
わたしはぐっと彼女を引きつけた。それからぎゅっと抱きしめた。彼女もわたしの背中に手を回してくれた。
「人生はまだ始まったばかり。あたしも歌子の関係も始まったばかり」
「うん」
「どう転んでも、あたしは歌子の味方だよ」
いつもそうあり続けてくれたように、彼女はそう宣言した。