合格者発表
渚がぺこりと頭を下げた。
「お邪魔します」
「どうぞ」
母が満面の笑みで迎え入れる。わたしは後ろから落ち着かない気分でそれを見て、渚に笑いかける。彼女はにやっと笑った。
「案の定、そわそわしてるじゃん」
「だって、……だって」
わたしは口ごもる。続きの言葉が出てこないくらい、頭の中は一つのことに支配されている。
渚はキャメルカラーの大きなボストンバッグを持っていた。玄関扉の横にある縦長の磨り硝子の窓の外は、暗い。渚は今夜うちに泊まるのだ。
「うわー、そわそわするー」
わたしが渚を部屋に案内しながら言うと、彼女はけたけた笑った。
「そうだろうね。歌子の性格上」
「めちゃくちゃ怖い」
「そりゃあそうだよ。誰だって」
「渚も怖い?」
「私立のそうでもなかった。怖いとしたら、本命のほうかな」
「やっぱりー!」
「どきどきするね、W大の合格者発表」
明日は、合格者発表の日だ。もう一度東京に行って掲示された合格者の受験番号を見に行く、というわけにも行かないから、インターネットで確認することにした。渚を呼んだのは、夜中に発表があったときに興奮を抑えてくれる人が必要だったからだ。両親でもいいけれど、渚が一番の適役だと思った。
「でも、日付が変わってすぐに発表、ってことになるかな」
部屋に入り、渚が疑問を口にする。確かに、大学というのは夜中までやっているイメージはないし、朝方発表というのが一番ありえそうな気がする。
「そうだね。渚を呼んでよかった。朝まで一人で待ってるの、辛いからなー」
「ちょっと待って。あたしに徹夜させようと思ってる?」
渚が心外そうに眉をひそめた。わたしは驚いて思わず訊く。
「え、してくれないの?」
「……する」
にっこり笑って答えてくれた。渚の冗談だったようだ。わたしはほっとする。渚はわたしの肩に手を起き、肩を組む形で言った。
「あたしだって気になってんの。今夜眠れないのはあたしも同じ。あーどきどきする!」
わたしは渚の肩に手を回し、肩を組み合う格好になる。
「やろうぜ!」
「おう!」
「やることがあるとしたら大学のほうだけどね」
「確かに」
わたしたちは笑った。合格できるなら、いますぐ結果を知りたい。けれど落ちているなら絶対に見たくない。そんな引き裂かれそうな気持ちを、渚は一つにまとめてくれていた。
ただいま、と父の声が階下から聞こえてきた。わたしと渚はぱたぱた足音を鳴らしながら玄関の父のところに行く。父は渚を見てこう言った。
「おう、渚」
「今夜はよろしくお願いします」
にっこり笑って、渚が言った。
*
お風呂を済ませて二階の部屋に戻ると、入浴済みの渚がグレーのスウェット姿で待っていた。変な感じだ。友達が家に泊まる夜というのは、非日常という感じがする。渚は床に座り、足を投げ出したまままじまじとわたしを見て、
「歌子は相変わらずかわいらしいパジャマを着てるんだねえ」
と笑った。わたしは自分の格好を見て、かわいらしいのだろうか、と疑問を抱いた。日常的に着ているクリーム色のフリース素材の上下だ。でも、あまりこの格好のわたしを見ない人はそう思うのかもしれない。
「それはどうでもいいよ。とにかく合格者発表だよ」
ドライヤーを探しながら、わたしは顔を強ばらせていた。さすがに、日付が変わる二時間前ともなると緊張で顔が動かなくなる。渚は携帯電話を見ながら、
「まだ何の動きもないよ。歌子の番号のあたりを見ようとしても、エラーになるだけ。フライングは絶対にないと思うよ」
「そうだね」
わたしは深くため息をついた。
「そういえば、総一郎からメール来たよ」
「何て?」
ドライヤーを弱くかけながら、渚のほうを見る。彼女は少し呆れたように言う。
「『歌子の様子は?』だって。お風呂入ってるからわからないって答えたら、『緊張してるだろうな』って。あいつ歌子の保護者みたいになるよね、時々」
わたしはちょっと嬉しくなって笑った。わたしもメールを見て、その言葉を確認した。「心配してくれてありがとう」と打ち込んだら、すぐに返事が来た。「うん。徹夜はするなよ」と書かれていて、笑ってしまった。わたしと渚は絶対に徹夜をするだろうから。
「あ、護からも来た」
渚が自分の携帯電話を覗きながら、さっき淹れたココアを飲んでいる。
「『おーおー惚気が過ぎるな』ね。嫉妬があからさますぎ」
わたしは考え込む。それから意を決して訊いた。
「渚、岸はどうなるの?」
彼女は携帯電話を見ながら少し緊張した顔をした。
「難しい。わかんない」
「渚、岸のこと好きじゃないの?」
「わかんない」
渚は笑った。何だか切ない笑みだ。こちらがぎゅっと胸を締めつけられるような。
「護はさ、あたしのことずっと好きじゃん。でもあたしは、何ていうか、恋愛の仕方が今一つわからなくなっちゃってさ」
わたしはどきっとした。けれど渚は淀みなく話し続ける。
「護みたいな気持ちになれてるかな、って思うわけ。護に対して。キスされて、嫌じゃなかった。むしろ少し嬉しかった。けど、進むのが怖い。ごめん、歌子の前で言うことじゃないけど、失敗続きだから恋愛は怖いんだ」
わたしは黙った。それからこう言った。
「渚は、岸とは失敗したりしないよ。だって、岸は渚のこと好きだし、渚も岸のことすごく信頼してる。わたしは、二人を応援する」
「そっか」
彼女は携帯電話を見ながら笑った。
「ありがと。もう少し、ちゃんと考える」
「うん」
お節介だったかもしれない。でも、わたしはここで自分の意見を言わなければいけないと思った。わたしが渚を臆病にしたからこそ、言うべきだと思った。
「なんつーかさ」
渚がふと笑った。わたしはきょとんと彼女の目を見る。彼女の目はわたしを見ている。
「こういうの、初めてじゃない? あたしの恋愛の相談、というか。ちゃんとしたやつ」
わたしは考え込む。
「そうかも」
「何かさ」
渚はくすくす笑った。
「悪くないかもって思っちゃった」
わたしは笑った。わたしもそう思っていたのだ。渚と意見が合って、とても嬉しい。
「じゃあ、今度は歌子の話聞かせて」
「わたしの?」
「総一郎との出会い、気持ちを意識したのはいつか、初めてのキス、どういうところが好きなのか。聞きたい」
「それは」
わたしは言いよどむ。恋愛の話というものを、あまり他人にしたことがないのでとても恥ずかしくなってきた。部分部分は知っているはずだけれど、渚に出会う前のことやわたしの内面でのことだとか、話すのはとても照れる。
「よし、話そう」
わたしは決心した。そして、渚に話し始めた。彼女は真剣な顔で聞き、時に茶化し、時に大笑いした。何だかとてもおかしな気分のまま、午前零時は過ぎていった。
*
寝不足でぼんやりしたまま、わたしと渚は互いの携帯電話を見ていた。眠気で話す気力さえ失ったわたしたちは、ひたすらW大学のウェブサイトの合格者発表ページを開いていた。何度開いてもエラーだ。もう明け方だというのに、何ということだろう。
「仮眠取る?」
渚が訊いた。わたしは首を振る。
「ううん。気になるから起きてる。渚、寝ていいよ」
「あたしだって気になってるから寝ないよ。歌子の目の下の隈がすさまじいから訊いたの」
「うそー」
もう鏡を見る気力もない。渚が自分の顔をぺたりと触り、訊く。
「まあ朝だし、顔洗う?」
「そうしよっか」
のろのろと立ち上がり、部屋を出る。階段を降りて一階に行き、驚く。居間のドアのガラスを見ると居間に灯りがついていた。まだ早朝の五時だ。どうやら両親が起きているらしい。
二人とも顔を洗い、居間に行く。ソファーに真剣な顔の両親が座っていて、わたしたちにぱっと振り向いた。
「徹夜か?」
おはようの挨拶をしている途中で、父が訊いた。わたしはうなずく。
「合格発表はまだだぞ」
「わかってるよ。だからまだ寝てないの」
元気な様子の両親に圧倒されながら、ソファーの母の隣の席に座る。渚もわたしの隣に座る。テーブルにはノートパソコンが載っていて、案の定わたしたちが見ていたサイトが表示されていた。
「寝不足で吐きそう」
わたしが言うと、母が立ち上がって、
「梅昆布茶、飲む?」
と笑った。わたしはうなずいた。
「いやー、インターネット時代も不便なもんだな。時間が明示されないからいつまでも待たなきゃいけない」
「そうだね」
母が梅昆布茶を持ってきてくれた。四人でそれをすする。
「お父さんたちはいつ起きたの?」
わたしが訊くと、母は「四時」、父は「三時」と答えた。かなり早くに起きていたんだな、と思う。
「渚はもう受かったのか?」
父は渚を見て訊いた。渚は寝不足の顔で笑い、
「私立だけ。本命はまだです」
「どこ受けたんだ?」
渚が答えると、父は大袈裟に驚いた。
「あったまいいんだな、渚は」
渚はあははと笑う。わたしはいよいよ眠くなってきていた。でも、発表があるから起きていないといけない。
「あ、発表は今日の夕方の五時らしい」
「え」
父がインターネットで検索をかけていた。W大のサイトの別のページに書いてあったらしい。わたしは脱力してしまった。
「わたし、すっごく馬鹿。もう絶対受からないよー」
「そんなことないって。頭のいい渚も気づいてなかったんだから」
父の言葉に渚が苦笑いをする。それにしても、これから十二時間、どうすればいいのだろう。そんなことを思いながらもまぶたが落ちてくる。
「歌子、自分の部屋で寝ろ」
そんな父の言葉を訊きながら、わたしは眠りに落ちていく。真っ暗な夢の中に、すとんと。
*
起きたのは両親と渚の声のためだった。三人は懸命にわたしを揺り動かし、何事かをわめいていた。わたしはソファーを占領して眠っていた。寝不足からの睡眠はひどく心地よく、わたしはソファーから出たくなかった。でも、皆がわたしを呼ぶし、うるさいので、仕方なく起きた。そして、聞いたのだ。
「合格してる! 歌子、W大受かってるよ!」
渚の声だった。わたしは目の前がぱあっと明るくなり、はっきりとしていくのを感じた。ソファーの前のテーブルにはノートパソコンがあり、画面にある升目の中にはたくさんの数字がある。目を凝らし、確認する。それからつぶやく。
「受かってる」
「おめでとう!」
渚が叫んだ。両親もだ。わたしは突然、未来が真っ直ぐな線になってわたしの前に伸びていると感じた。