入学試験
待ち合わせに遅れて来た総一郎は、白い息を荒く吐いていた。「大丈夫?」と訊くと、「大丈夫。それより遅れてごめん」と答えた。昨日の夜、遅くまで問題集を解いていて寝過ごしてしまったらしい。気持ちはわかるので怒らなかった。ちょっと寂しかったけれど。
去年の同じくらいの時期に来たことがある待ち合わせ場所の図書館は、どうやら高校生で溢れかえっているようだった。受験があるから仕方がない。二人で空いている席を探し、しばらく座って勉強をしてみたけれど、何だか静かさの中にざわめきを感じてうまく集中できない。受験生たちの焦りが伝わってくるし、シャープペンシルが走る音が耳障りに聞こえて仕方がないのだ。
結局予定より早めに図書館を出た。総一郎も落ち着かなかったらしい。図書館を出るとやっとほっとしたような表情をしていたから。
図書館の敷地の植物たちは紅葉し、枯れ、寂しい風情だった。せっかくきれいな煉瓦の花壇があるのに、どの植物も花はなく、小さくなって冬から身を守っている。
「今日はとりあえず解散しよ。はい」
バレンタインチョコレートを渡した。昨日作ったトリュフ。小さな箱に入れてあり、メッセージカードには「頑張ってね」と書いてあった。総一郎はそれをしげしげと眺め、ふいにわたしの顔を見て、「今食べていい?」と訊いた。わたしは驚き、うなずいた。最近の総一郎は私立受験を済ませたこともあり、受験のことばかり考えているように見えたから、今日のちょっとしたデートもあっさり終わってしまうと思っていたのだ。
図書館のベンチに二人で座る。二人分の息が白く空気に溶けていく。総一郎がトリュフの箱を開けた。それから一つ、ぱくりと食べた。
「おいしい」
「本当? よかった」
わたしは嬉しくなって笑う。総一郎は気遣わしげにわたしを見る。
「ごめんな、忙しいのにわざわざ手作りしてくれて」
「いいよ。トリュフは簡単だから」
彼は微笑んだ。それから言った。
「明日、東京行くの?」
わたしはうなずく。明日から二泊三日で、W大学の入学試験のために東京に滞在する予定なのだ。シーズンオフのホテルがしっかりしていて安く泊まれるとのことで、父が予約してくれていた。
「誰かが一緒に来てくれるなら、道に迷ったりしにくいと思うんだけどな」
総一郎の心配そうな言葉に、「大丈夫だよ」と笑う。母が一緒に来たがっていたのだけれど、あまり経済的負担をかけたくないし、町内会の集まりもあると言っていたから断ったのだ。その代わり、宿泊日数を一日増やしてもらった。大学の場所を確認したり、空気に慣れたりしたかったからだ。
「頑張れよ」
そう言う総一郎の心配そうな表情を見て、わたしは平気に見えるように笑ってうなずいた。
「国立ももうすぐだから、インフルエンザにかからないようにね」
「歌子も受けるんだろ?」
総一郎が笑う。わたしはうなずいた。わたしは公立の受験はS大を受けることにしている。
「いやあ、緊張」
そう言葉にしたら、本当に体が強ばってきた。寒いせいだけではない。表情も硬くなった気がする。
それを見て、総一郎がわたしに腕を回して抱き締めた。温かい体。
「リラックス、リラックス」
「今リラックスしても受験は三日後だよ」
抱き締められたままわたしが茶化すと、総一郎はなおも言った。
「リラックス、して」
わたしはうなずいた。彼の服や体の匂い、包まれている感じ、片方の大きなてのひらが軽く拳を作ってわたしの背中に添えられていること。目を閉じてそれらを感じる。それから彼のコート越しの温かさで、眠ってしまいそうな安心感を得た。
彼がわたしを好いてくれている限り、何もかも大丈夫だという気がする。
*
国内線の飛行機で羽田に飛ぶ。地元の空港まで車で送ってくれた両親は、かえってわたしがリラックスしてしまうくらい心配そうな顔をしていたが、飛行機の中ではそれを忘れてしまっていた。手元の小さなノートで忘れがちな英単語や古語を確認した。どうやら書き込んだ分だけは一応覚えているようで安心した。機内はビジネスマンが多く、たまに高校生らしい姿を見ると、W大の受験生かな、と思ったり、日程の近い他の大学の受験生かもしれない、と思い直したりした。関東は大学が多いのだ。特定は難しい。
飛行機は、父によって少し高めの価格帯の航空会社のものが選ばれていた。父の気遣いらしい。とてもありがたい。だからか、エコノミークラスでもとても清潔で行き届いた席に座れた。隣は小さな男の子と母親の二人組だったけれど、子供は旅行に疲れたのかよく眠っていて、騒いだりはしなかった。
英単語が頭の中を巡る。わたしが修得する必要のあるものはそれだけではないのだけれど。小論文だって自信がない。自分の意見をきちんと書けるだろうか。もしかしたら、わたしには書いても伝わるものが何もないくらい、自分の意見というものがなかったりして。ぐるぐる考えているうちに、飛行機は羽田空港に着いていた。
正月にテレビで見た、帰省する人たちで溢れかえった羽田空港のターミナル。わたしはそれを想像の世界と同等に考えていて、自分がその場所に存在しているということが不思議で仕方ない。歩き出し、どこに行けばバス停があるかわからないのでとりあえずぐるりと見渡してみる。白い壁。吹き抜けなので二階、三階が見える構造が面白い。壁にある案内図を見つけ、調べる。バス停を確認し、行ってみて、予約の高速バスが来るまで列に並んで待つ。知らない土地の知らない場所で、知らない雰囲気の人たちと一緒にいるのはおかしな気分だ。カップルもいればビジネスマンもいる。高校生もやはり所々にいる。
高速バスが来て、わたしは運転手に荷物を預けて同じ列の人たちとバスに乗り込んだ。窓際の一人用の席に座る。窓の外の風景が動き出し、わたしは何もかもがゆっくりと動き始めて、とめることができなくなっていく気がしていた。
*
一時間ほどかけて都心に着き、スーツケースを引きながらホテルを探す。東京の建物は高く、雑然としていたり整然と立ち上がっていたりする。交差点も慣れない。こちらの交差点は驚くほど人が多く行き交う。ぶつかりそうになって、必死で避けた。皆早足ですいすいと身をかわしながら進んでいく。歩道も人が多い。わたしって田舎者だなあ、と少し悲しくなる。受かったとして、この街に慣れることができるだろうか。東京は空の面積すら小さい。ビルが空を覆って、夜になっても星空なんて見えないだろうと思わせた。
ホテルに着いて慣れない手続きをして、部屋に着き、中に入る。きれいな部屋だった。個室だから狭いけれど、ドレッサーもあるし掃除もきちんとしてある。わたしはスーツケースをそのまま手放し、セミダブルのベッドに倒れ込んだ。
わたしはうまく受験をやりおおせることができるだろうか。それがうまく行ったとして、この街に慣れることができるだろうか。こんなに地元とは雰囲気が違う、知らない人だらけの街で一人。
やっぱり母についてきてもらえば良かった。
携帯電話が鳴って、驚いた。ぼんやりしているうちに眠ってしまい、どうやら夜になっていたのだ。慌てて携帯電話を通話にする。母の大きな声が聞こえた。
「歌子ちゃん! 着いたら電話してって言ったでしょ? 大丈夫なの? 着いた?」
「あ、着いたよ。寝てたんだ。ごめん、疲れて」
母が呆れたようにため息をついた。
「夕方から何度も電話したのに出ないから、ホテルに電話して確認するところだったのよ」
わたしは母の話を聞きながら立ち上がる。
「ごめん。結構人が多くてね、空気も汚れてるし、何かぐったりしてね」
「大丈夫?」
母が心配そうに訊く。
「大丈夫」
わたしは疲れた声で答える。東京に慣れるには時間が必要だ。早めに来ることができてよかった。
「何か、東京って思ってたのと違う」
「大丈夫よ、受験前でナイーブになってるだけだから」
「そうかもしれないけど……」
母と雑談をしながら窓のカーテンを開いた。煌々と輝く窓が見え、向かいのビルの人たちはまだ働いているのだな、と思う。その周りを見ても、どこまでも明るい。東京は明るい街だ。多分、道路では多くの車が走り、まだ人がたくさん歩いているのだろう。活動的な街だ。きっと、驚くようなことを考える人やとても頭がいい人がたくさんいて、一方で全く好きになれないような嫌な人がいたりするのだろう。わたしが今まで知らなかった世界が開けているのだろう。
突然、この街が好きになった。ここに住みたいと思った。ここで暮らし、街と同じくらい活動的に行動していきたいと。
「お母さん」
わたしは一方的に話していた母に話しかけた。
「何?」
母が答える。
「東京の夜景って、きれいだね」
母が不思議そうな声で「そうなの?」と訊いた。わたしが泊まる部屋は別に高い階層にあるわけでもないと知っているからそう感じたのだろう。
「明日、W大の受験会場に行って場所を確認しなきゃね」
「何だか急に前向きねえ」
母が笑った。わたしも笑い、別れの挨拶をしてから電話を切った。
やっと楽しい気分になっていた。わたしはこの街での自分の姿がようやく見え始めていた。
*
朝、携帯電話の目覚ましで起きてから準備を始めた。全てが整うと、持ち物を全て確認し、ホテルを出て地下鉄の駅に向かう。人が多いな、と思う。受験生が多い気がする。気のせいかもしれないけれど。
今日はW大の受験日なのだ。昨日確認したら、地下鉄から降りて歩いて数分で着くことがわかったので、今日は地下鉄の遅延さえなければ大丈夫だ。人混みが辛いのはどうしようもない。こんなに混んでいる乗り物は、人生で初めてだ。右にも左にも人がいる。パーソナルスペースなんて言っていたら、ここにいるほとんどの人が乗れなくなるだろうなと思う。
吊革に掴まり、手書きのノートを見て勉強しながら地下鉄に揺られ、駅に着くと昨日一度迷った降り口をきちんと選んで外に出た。道を歩いていく。この辺りは少し雑然としている。学生たちはこの辺りにある小さなお店で食事を取ったりするのかもしれない。
目的のW大のキャンパスは広々とした門でわたしを迎えてくれた。わたしはどきどきしながらそこを通った。
最初の受験会場は、とてつもなく広かった。何百人入れるのだろう。自分の席を探すのですら大変だ。意外にもとてもきれいな建物とは言い難く、天井には色んなパイプが剥き出しになっている。
席に着いて待っていると、問題用紙が配られ始めた。ついにここまで来た、と思った。
ここまで来るのにどんなに苦労したことだろう。まず、成績の問題があった。次に両親の承諾。わたし自身がやる気を失ってしまったこともあった。全てをクリアすることが本当に困難だった。
ここまで来たのだから、絶対に受かりたい。思い詰めていたけれど、体が強ばっていることに気づいたのでリラックスしなければならないと思った。あと数分で入試が始まるというのに何ということだろう。
「リラックス、リラックス」
総一郎の声が聞こえた。あのときの、あの声。わたしは総一郎の温かさを思い出した。深呼吸する。全ては大丈夫だ。わたしは何だってやれる。そう思った。
「始めてください」
試験官の声が聞こえた。わたしは試験問題のページをめくり、一問目から解き始めた。