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蜂蜜製造機弐号  作者: 酒田青
高校三年生 二学期
145/156

冬休み

 田中先生に報告したら、先生はほっとしたように笑い、「よかったな」と言ってくれた。わたしは初めて先生を好きだと思えた。わたしのことを心配してくれていたのだと、実感したからだ。

 職員室の独特の静けさの中、先生はにやっと笑った。

「お父さん、なかなか手強かったな」

「そうですね」

 わたしも笑った。

「町田がこの状況で巻き返せるなんて、かなり成長したよな。見直した」

 わたしは、ふふふ、と笑い声を上げ、それから顔を引き締めた。

「でも、これからが大事なんです。浮かれてる場合じゃないですね」

 うなずく先生は、力強く「そうだ」と答える。

「頑張れよ」

「はい」

 わたしたちは、仲間のようにうなずき合った。


     *


 終業式が終わり、いつものように総一郎たちの元に走り寄った。総一郎は笑ってわたしを迎え入れ、岸は受験勉強疲れで浮かない顔、渚は先生の目が届かないのをいいことに、携帯電話に挿したイヤホンを耳に入れて何か聴いていた。片耳分貸してもらうとネイティブの英語の発音が流れてきた。

「参考書についてたヒアリングの問題集。最近こればっか聴いてる。うんっざり。飽きた。音楽とか聴きたい。でも聴くしかないよね」

 渚は口をへの字に曲げて言った。わたしはイヤホンを返したが、英語をもっと勉強しなきゃ、という気分になってしまった。さっきまで頭の中で生物の復習をしていたのだが、スイッチが切り替わってしまったらしい。

「歌子、冬休みはどうする?」

 総一郎が訊く。わたしはしばらくうなってから答えた。

「まあ、家で勉強するだろうね」

「だろうな」

 二人で苦笑する。二人で会いたいけれど、もうそれどころではない。

「受験が終わったら……」

「何?」

 総一郎が唇の端を上げて訊く。

「デートしようね。アーケード行ったり、お互いの家に行ったり、しゃべったり、しようね」

 わたしの言葉に、総一郎は笑った。声を上げて。ふざけてるのか冗談と取られたのかわからないけれど、わたしは両手を拳にしたまま悲愴な顔をしたまま固まった。

 総一郎は笑うのをやめ、うなずいた。

「うん。そうしよう」

 わたしは嬉しくなり、にこにこ笑った。

「仲のいいご夫婦だこと」

 後ろから聞こえた岸の声に、わたしが笑い、総一郎が何か言おうと振り向くと、彼は全く元気を失った顔でわたしたちを見ていた。

「幸せそうでいいよな。おれなんて塾塾塾! 勉強勉強勉強! だぞ」

 岸は長いため息をついた。

「勉強が大変なのは全員でしょー?」

 わたしが言うと、岸はぼそっと答えた。

「潤いが足りない」

 その瞬間、わたしと総一郎は渚を同時に見てしまった。岸の隣にいた彼女は、きょとんとしてイヤホンを外し、「何? 何なの?」と尋ねる。「ううん」と答えて誤魔化す。総一郎も首を振っている。

 結局、二人の関係は進展していないらしい。受験前のこの時期に、進展させるのも難しいだろうとは思うけれど。

 結局、この二人については自然に任せるしか仕方ないと思う。外野が、特にわたしがこうすべきと言えることはほとんどないのだ。

「受験前だっつーの」

 小さくつぶやく渚の声を聞き流すのも、今は必要なことだ。


     *


 本当に、友達や総一郎のいない毎日をほぼ勉強をすることだけで過ごすのは、味気ないとしか言いようがない。岸の気分がわかってきたような気がしながら、わたしは外を眺めた。雪こそ降っていないが、寒そうな窓の外。笛のような細い風の音が聞こえ、窓ガラスががたがた揺れる。暖房があってよかった。ただ、わたしの部屋には床暖房がないから、足先を巨大なくらいの防寒用スリッパに突っ込んでいた。

 誰からもメールが来ない。電話も来ない。階下の両親は気を遣って勉強中のわたしのところには決して来ない。ひとりぼっちだ、と思う。こういう孤独感を乗り越えないと、絶対に続けていけないな、とも。

 終業式に別れた友人たちも、皆揃って不安や緊張が混ざった笑顔を浮かべていた。夏子と美登里は第一志望校に落ちそうだとこぼしていた。光は私立を受けるならどこにしようか未だに迷っていた。拓人は焦って勉強していた。静香は自分の勉強もあるはずなのに拓人に教えていた。

 誰も彼もが早く今から抜け出したい、と思っていた。わたしもそう思うことがある。でも、今感じるのは、もっとしっかりと高校時代を味わって、満足しきってから卒業したいという気持ちだ。感覚を研ぎ澄ませなきゃいけないな、と思う。プリンを舌で潰して味わうみたいに、丁寧に感じないと。一口で飲み込んでしまったら、本当にもったいない。

 そんなことを考えている暇はないのに、わたしは思いにふけり、目を閉じ、目を開き、問題集が見えたのでまたそれを解き始めた。

 本当に、今はあっという間に過ぎてしまう。


     *


 元旦の朝は、早く目覚めた。ベッドから出た瞬間、歯をぎゅっと噛みしめてしまうくらい寒い。

「あけましておめでとー」

 わたしが起きていくと、両親が待っていて、「おめでとう」と返してくれた。大晦日は毎年見る音楽番組を見ずに勉強して早めに寝たので、本当に禁欲的だ。母がお屠蘇を出し、わたしは飲み、ぐえっとうめき、大慌てでするめを掴んで端から噛むのはいつも通りだ。それから母と二人でお雑煮を煮て、父は珍しくこたつを布巾で拭いてお屠蘇のセットを片づける。母がこだわる鰹だしのお雑煮を、わたしはようやく学べた。しっかり手順を覚えるのは、来年以降になりそうだけれど。

 できあがったお雑煮を、皆で食べる。何となく、いつもよりおいしかった。自分で手伝ったからおいしいのだと思うが、多分去年までは起きがけにいきなり食べていたので、味がよくわかっていなかったのかもしれない。

「初詣に行くわよね、歌子ちゃん」

 母が訊くのでうなずいた。

「受験だから、御利益をもらって帰らないと」

 それを聞いた父がため息をついた。

「あと少しだもんな。体壊すなよ」

「うん。その辺も御利益もらっとく」

「歌子、神様は歌子の都合で御利益をくれたりはしないと思うぞ」

 父が笑う。わたしは餅を伸ばし、噛み切って、じっくり噛んで飲み込んでから、「わかってるよー」と口を尖らせた。

 父と母は、しばらくぎこちなかったけれど、今は元に戻っていた。でも、父は母が自分の思い通りになると思うのはやめたようだった。以前は母が忙しくても用事を頼んだりしていたのが、自分でやるようになったのだ。母は相変わらず優しい話し方でわたしを大事にしているけれど、少しはわたしから手を離してみようと思い始めたようだ。わたしが少々寝坊しても起こしに来ないし、帰ってから色々学校のことを訊くこともしなくなった。わたしは、少しだけ体が軽くなった気がしている。

 朝食を片づけ終わった九時ごろ、三人で初詣のために道を歩いていると、後ろから声をかけられた。拓人の一家だ。拓人の両親と祖母と拓人。拓人はぼうっとわたしのほうを見、「よう」と言った。

「あけましておめでとう」

「何もめでたくはないだろ、呪われたおれたちには」

 拓人の言葉に、わたしはきょとんとする。

「勉強勉強で疲れ切ったおれには、自分が呪われている気がしてならないんだよ。もちろん急に勉強大好き人間になった歌子もな」

 わたしはけらけら笑った。前を行く他の家族が振り向く。

「静香が教えてくれるんでしょ? 幸せなことこの上ないじゃん」

「ところが静香、スパルタなんだよ。『拓人、これ、この間教えたでしょ?』とか言うんだ」

「へえ。でも静香も受験なのに教えてくれるんだから感謝しないと」

「うん。というか去年、『一月からは自分で頑張ってよね』って言われたよ」

「そりゃあそうだよ」

 わたしは笑った。拓人に何でも言えるようになった静香が頼もしくて、とても嬉しいのだ。拓人はわたしをじっと見て、うーん、とうなった。

「変わったな。何か変わった。歌子は立派になった。何か雰囲気が違うもんな。目標があるからとか、十八歳になったからとか、色々あるんだろうけど。うん、立派になったよ」

 拓人はうなずいた。わたしはもう一度笑う。

「保護者みたい」

「保護者だよ。今はそんな気分だよ。でも、もうそれすら必要ないかもな」

 寂しいよ、と拓人は首を振る。わたしは拓人の肩を強く叩き、宣言する。

「大丈夫、拓人は必要な人だよ。家族もだけど、総一郎や、渚や岸や夏子や美登里や光や……、色んな人がわたしには必要だよ。拓人は割と特別枠」

「でも、篠原はもっと特別枠なんだろ?」

 拓人がにやりと笑う。わたしはうなずく。

「うん。そりゃあね」

「うわ、正直すぎる」

 拓人が呆れて見せる。わたしは笑い、

「だって、総一郎はすっごく必要なんだもん」

 と答える。拓人は、そうかそうかとうなずき、

「かつてのライバルが燦然と輝いてるみたいでよかったよ」

 と言った。わたしたちは顔を見合わせた。それからけらけら笑った。

 神社で引いた大吉に大喜びしながら帰ると、家に年賀状が届いていた。両親宛のものをかき分けながら探すと、それはあった。総一郎からの筆書きの年賀状。

 謹賀新年、までは読めた。そのあとの文字は、やっぱり達筆すぎて読めなくて、わたしはぷっと吹き出して笑った。今年のイラストは猫のようだった。筆の字と同じく勢いのいい線で下手な丸と三角が描かれ、「ねこ」と書かれている。

「猿じゃないの?」

 久しぶりに送ったメールは、そんな内容だった。今年の干支は、申だったのだ。

 しばらくして、返ってきたメールにはこう書かれていた。

「猿は難しい」

 くすくす笑う。それから返信メールを打つ。

「センター試験まで半月だから、頑張ろうね」

「うん。歌子も」

 そう、センター試験はもうすぐなのだ。わたしたちは準備に忙しい。追い立てられるような気分だし、センター試験で失敗することを想像して背中がすっと冷たくなることもある。

 でも、今日ばかりは楽しい。全ての悪いことがぬぐい去られたようで、気持ちいい。

 このままの気持ちで、当日を迎えたい。

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