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蜂蜜製造機弐号  作者: 酒田青
高校三年生 二学期
144/156

「ありがとう」

前回までのあらすじ

 両親に志望大学の受験を認められた歌子。やっと認めてもらえたと喜んでいたが、ある日川辺で恋人の篠原とキスをしているところを見られてしまう。過保護な父はそれにショックを受け、更に篠原の志望大学も歌子と同じ東京にあると知り、歌子の志望大学の受験を取りやめさせようとして歌子と喧嘩になる。家を飛び出した歌子はインフルエンザになり、家に連れ戻されてからは受験のやる気を失ってしまった。頭に何も入らない日々を過ごし、篠原にも事情を言えない歌子。

 しかし、ある日進路を決めるきっかけになった女優の映画を観て、歌子はやっとやる気を取り戻すことができた。「大丈夫だ」と言えるようになってきたのだ。

※今回は歌子が映画を観た日に一旦戻ります。少し長いですがお楽しみください。

 素晴らしい映画を観たのだ。そう思った。あの日、最後の一回のつもりで観たベティ・デイヴィスの映画は、わたしを本当の意味で救ってくれた。

 老いた姉妹を主人公にした、静かな映画だ。少女時代にやって来た鯨が来るかもしれないという期待、失われた過去、死んでしまった二人の夫。ベティ・デイヴィス演じる盲目の老婦人が死んだ夫の遺髪で顔を撫でる場面は何度観ても感動的で、わたしはやはり泣いてしまったのだけれど、今回本当に惹かれたのはそれではなかった。彼女たちの、今なお続く「今」なのだった。ベティ・デイヴィスが演じる姉が妹の気持ちを損ねてしまう。過去にとらわれて頑固になるあまり、彼女の妹の客を傷つけてしまったのだ。そのために二人暮らしが終わろうとする。姉は深く反省し、死んだ夫との結婚記念日だった妹に、おめでとう、とつぶやく。妹はもう部屋に戻ってしまったのに。

 やっと過去を振り返り続ける自分の生き方を直視し、それが間違いだと気づいた。けれどもう遅い。妹の心は冷え切っている。

 でも、彼女にはチャンスが残っていた。勇気を出してそれを掴んで、前向きな妹がほしがっていた見晴らし窓を作る決心をするのだ。それは彼女にとってもきっと必要なものなのだろうと、わたしは思った。

 観ている最中、混沌としたものがわたしの中にあって、映画が終わった瞬間ぎゅっとまとまって一つになった。様々なものが、急に明確に見えてきた。人生は可能性に満ちていて、その気になれば少しはあがくことができる。そういうメッセージを、今回受け取れた気がしたのだ。

 雪枝さんの言葉を思い出した。雪枝さんはわたしに、「道はたくさんある」「失敗しても試せばいい」と言ってくれた。本当にそうだと思った。わたしは、志望大学に行けないと思った瞬間、壁を作っていた。それが突然透明になって、消えてしまったのだ。そうだ、大丈夫だ。わたしはまだ可能性をたくさん持っていて、それら全てを試すことができるのだ。

 わたしにはたくさん好きな人たちがいて、彼らは皆わたしを元気づけてくれる人だ。そして彼らは皆世界のどこかしらにいて、離ればなれになってもきっと存在し続けてくれるのだ。総一郎も、渚も、拓人も、雪枝さんも、わたしの中ではそういう人たちだ。

 大丈夫だ。わたしはほっとしながら、DVDの映像が終了したことを示すテレビの画面を見つめていた。大丈夫、大丈夫。わたしは大丈夫。

 わたしの意志は一つだった。夢を追いかけよう。進もう。どんなルートでもいい。とにかく自分なりの理想を追い求めよう。

 総一郎と話す決意がついたのはこのときだった。「大丈夫のおまじない」が生まれたのも。

 そして、両親とまた進路について話す気持ちになったのも、このときだった。


     *


「お父さん、これ」

 夜、居間のソファーに座ってテレビを見ていた父の前に、一枚の紙を差し出した。父は無表情にちらりとそれを見、手を伸ばす。台所のテーブルを拭いていた母がこちらを見ているのがわかる。父は紙を広げた。そこにはわたしの模試の結果が書かれているのだった。母がぱたぱたと音を立ててやってくる。二人でそれを覗き込む。父の表情は変わらないが、母が口に手を当てて「まあ」と驚いた声を出した。

 B判定が出ていたのだ。完全な安全圏とは言えないが、それなりに自信を持って挑んでもいい成績。もちろんW大学の。

「まだ言ってるのか、W大受けたいって」

 父がため息をついた。わたしは大きくうなずいた。とても落ち着いた気分だった。父の一挙手一投足に視線を走らせたりもしないし、怒ったり、卑屈になったりもしない。ただあるのは決意だった。

「お願い、行かせて」

 わたしは静かに切り出した。父は首を振った。

「駄目だ」

「わたしが総一郎とつき合ってるからお父さんが心配してることも、お父さんがわたしの保護者だってことも、わたしがお父さんの援助なしには大学に行けないこともわかってる。でも、行かせてほしいんだ」

 父は黙った。テレビのほうを見て、こちらを見ない。母ばかりがこちらをじっと見ている。

「わたしはお父さんに感謝してるよ。自分勝手なところがあるし、こっちの気持ちを気にしないところがあるけど、わたしをすごく可愛がって、ここまで育ててくれた。わたし、お父さんのこと好きだよ。でも、わたしはお父さんを安心させるために生きてるわけじゃないんだよ」

「じゃあ、何のために生きてるんだ」

 父が初めてこちらを見て言葉を発した。わたしはそっと息を深く吸って、話し出した。

「自分の人生を生きるため。わたしはお父さんのために一生を安全に生きていくことはできないの。冒険もしなきゃいけないし、勇気のいることをたくさんしなきゃいけない。そうじゃなきゃ、わたしはたくさん後悔しながら年を取って、人生が終わっちゃうんじゃないかと思う」

「じゃあ、全部自分で頑張ることだな。おれは何にも援助しない」

 父が顔をそむけた。それでもわたしは傷つかなかった。

「それも考えてる。就職してしばらくしてから大学に行ってもいいし、何も大学に行くことだけが演劇の勉強や研究に絶対に必要なものでもないから」

 父が目を丸くしてわたしを見た。わたしは続ける。

「でも、それは最終手段。大学に行かせてもらえるなら何とかそうできないかと思って頼んでる。お願いします。行かせてください」

 わたしはぺこりと頭を下げた。父は呆然とした顔でわたしを見つめ続けた。母もそうだ。しばらく沈黙が続いて、突然父が声を出した。笑ったのだ。

「歌子、お前な、脅してどうにかしようとか思っても無駄だぞ。お前にそういうことはできないんだから。一人で生きていくなんて無理だろ? 自分の力で大学に行くなんて、無理だろ?」

「ううん。できるよ」

 微笑んで答えた。

「きっとできる。わたしは自分が大丈夫だって思う。W大に絶対受かる自信はないけど、自分の力で生きていく自信だけは何だかあるよ。お父さんたちはわたしの人生の全てにいるとは限らないんだもん。それくらいのつもりじゃないと。ただ、そういう道を通る前に、お父さんたちにお願いしてみようと思ったんだ」

 父はわたしをじっと見つめていた。目を見開き、唇は何かを言おうとしてとまっていた。それからようやく父は声を出した。

「駄目だ。歌子はS大に行くんだとおれは決めたんだ。何と言おうと、おれは……」

「わたしは歌子ちゃんにW大に行かせていいと思うわ、お父さん」

 母が澄んだ声で言った。わたしは驚き、父は固まったまま床を見ていた。

「歌子ちゃん、頑張ったじゃない。B判定だなんて、以前のこの子からは想像がつかないくらいいい成績。辛いのに、本当に頑張った。眠いのにお弁当も自分で作って、夜まで勉強して。わたし、歌子ちゃんの思う通りにさせてあげたい。演劇も、研究も、させてあげたい」

 それだけ言うと、母は強ばった顔でわたしを見た。わたしは嬉しくて泣きそうだった。母はぎこちなく微笑み、父を見た。父は動かない。膝の上に載せた手をだらんと垂らし、わたしたちを見なかった。

「お父さん、お願い」

 わたしはもう一度頼んだ。父はくるりと母を見た。母は緊張した顔で父の表情のない顔を見ていた。父の顔は次第に赤く染まり、怒りの表情に変わっていく。

「おれは、歌子のことが心配で言ってるんだ。母親のお前がそういうことでどうするんだ!」

 母はひるんだが、きっと父をにらみつけ、

「お父さんの心配は歌子ちゃんのためにならないと思ったからよ」

 と静かに答えた。声は震えていた。父は大きな声で続ける。

「何を言ってるんだ。地元にいたほうが色々安心でいいに決まってるだろ?」

「安心するのはお父さんであって、歌子ちゃんじゃないわ。歌子はあなたのものじゃない。いつまでも抱き抱えて大事にし続けることなんてできないでしょ。歌子だって、自由に好きな勉強をしたり、恋人を作ったりしていいはずよ!」

「何を言ってる。歌子には恋人はまだ早いだろう。お前はいつも甘いんだ。だから歌子もこんなに自分勝手に……」

「お父さん、お母さん、やめて」

 わたしが声を張り上げると、両親はわたしを見た。両親が喧嘩をするなんて初めてだった。だからとても怖かった。

 ただ、母の手が震えているのを見て、勇気を出して父に反対してくれたことを知った。わたしは、何だか涙が出てきた。自分の進路について頼んでいるときは本当に冷静だったのに、両親がわたしのために感情的になって喧嘩をしているのを見て、おかしな、本当におかしな気持ちになったのだ。ありがたさと迷惑な気持ちが一緒くたになって、わたしの中で渦巻いていた。これほどわたしのことを考えてくれる人たちはこの世に滅多にいなくて、それがとてもありがたく、鬱陶しさもあるけれど、心に迫った。

「本当に、本当に、ごめん。自分勝手な娘でごめん。こんなに怒らせたり、困らせたり、心配かけたりしてごめん」

 父と母は泣き続けるわたしを見続けていた。父の表情はまた変化していた。何だか泣きそうな、弱々しい顔になっていた。

「でも、わたし、自分の道を行きたい。お父さんが応援してくれなくても、進みたい。お父さん、お願い。W大を受けさせて」

 父は顔をそむけた。それから、ばたばたと部屋を出ていった。玄関を出る気配がし、車が発進する音がする。わたしは結局父を傷つけてしまったのだ。そう思って、胸がきりきりと痛んだ。

「お父さん、行っちゃったね」

 わたしがそっと言うと、母が頬を紅潮させたままわたしを見返した。

「あの、お母さん、お父さんに言ってくれて……」

 また涙が出てきた。「ありがとう」が言えない。一番言いたい言葉が。母はわたしに微笑みかけた。母は、絶対に父に逆らわない人で、過剰なまでの平和主義者で、弱々しいくらいに見えて。なのにわたしのために戦ってくれた。勇気がいることだったと思う。なのに、わたしの背中を押すために、声を上げてくれた。

 わたしは母に歩み寄り、抱き締めた。母も抱き返してくれた。母の体は温かくて、骨ばっていて、小さいときに嗅いだ「お母さんの匂い」がした。

「ほんっとうにありがとう」

「いいのよ」

 わたしと母は、顔を見合わせて笑った。


     *


 夜中、勉強中に、外で車が停まる音がした。夜中の一時。母はもう寝ているころだ。鍵が回される音。ドアが開き、誰かがこっそり入ってくる音。

 わたしはしばらくじっとしていたが、また勉強を始めた。数学の問題を一つ解いたところで、階下で冷蔵庫が開く音がして、テレビがついた気配がした。わたしは立ち上がり、部屋のドアを開けてそっと階段を降りた。

 居間を覗くと、テレビには白黒映画が映っていた。ソファーの背からは黒い頭がにょきりとはみ出していて、時折その人は何かを飲み食いし、ため息をつくのだった。

 テレビに映っているのはベティ・デイヴィスだった。「イヴの総て」が流されているのだ。わたしは思わず足を踏み出した。それからソファーにいる父の顔を見た。目が合う。父は気まずそうに真っ赤な顔を逸らし、缶ビールに口をつけた。テーブルにはチーズやするめがぞんざいにビニール袋ごと広げてあり、部屋中に発酵した匂いが充満していた。

「お父さん、映画観てるの?」

「うん」

 父の声は不明瞭だったが、頭はしっかりしているらしく目の焦点は合っていた。

「『イヴの総て』観てるの?」

 父は黙った。それからわたしを手招きし、ソファーの真ん中からずれて隣に座るよう指さした。わたしはその通りにした。

「お父さんな、大学時代は映画同好会に入ってたんだ」

 わたしはびっくりして思わず父をまじまじと見た。父の若いころのことなんて、考えたこともなかった。父はわたしが小さいころからお父さんで、働いていて、鷹揚に笑う中年の男性だった。それが、今の言葉で突然彼にそれ以前の過去があることを想像させたのだ。しかも、映画同好会だなんて。

「勉強そっちのけでな、映画を皆で観てな、レポートを書き合うんだ。当時はインターネットもそれなりに普及しててな、自分で作ったサイトに批評を書いたりもしてたよ。働き出してからそういうのができなくなって、更新もできなくなって、サイトは消しちゃったけどな」

 父は恥ずかしそうに笑った。

「『イヴの総て』は、何回か観て、批評を載せたよ。サスペンスが弱い、とか書いた気がする。でも、ベティ・デイヴィスの演技力は素晴らしいものがあるよな。歌子が女優やってみたいとか映画の研究がしたいとか言うのも、わかる気がするな」

「そう思う?」

「うん」

 父はうなずいた。

「正直、歌子がそっちの道に惹かれてるのは嬉しくもあった。『おれの子だな』って思ったから」

「お父さんの子供だよ」

 わたしは思わず言った。父は笑った。目尻に三本しわができて、父がもうそれほど若くないことにふと気づいた。父はわたしや母を守りながら生きてきた。少なくとも十八年という年月をそうしてくれていた。何だか申し訳なくて、でも自分の自立のことを考えると「ごめんなさい」などとは言えなくて、ただ「ありがとう」と小さくつぶやいた。父はそれが聞こえたのか、目を逸らしてビールを飲んで顔を窓に向けた。

「正直、まだ歌子を手元に置いておきたいという気持ちがある」

 父はテレビの映画を見つめながら言った。そしてわたしを見て、「でも」と続けた。

「今日の歌子の態度はすごく立派だと思ってた。ちゃんとおれとしゃべれたもんな。おれ、言い負かされたからな。やばいやばいって思いながらも、これなら本当に大丈夫なのかもしれないと思った。意地でも思い通りにさせるかって思ったから、どうしてもあの場では認められなかったけど。……歌子。歌子の思い通りにしなさい。好きな大学を受けなさい。おれは、せめて歌子が本当に自立する最後の手助けくらいはしたい。だから、安心して大人になっていい」

 わたしは父の話の途中から唇が震えていて、言葉の最後には泣き出していた。とても嬉しかった。父が認めてくれた。わたしの生き方を認めてくれた。それだけで、わたしはとても救われた気持ちになった。

「ありがとう」

 父は笑ってわたしの肩を抱いた。わたしは父の高い肩にもたれて、もう一度繰り返した。

「ありがとう。お父さん、大好きだよ」

 震えながら息を吸う気配がして、父は泣き出した。わたしたちは二人で泣いて、それから笑った。映画は中盤で、ベティ・デイヴィスの独白シーンが始まった。父は彼女を褒め、わたしももう何度観たかわからないのに感動した。二人で最後まで観終わった。父は、「サスペンスもちゃんとあったな。昔と今じゃ感じ方が違うみたいだ」と言った。

「歌子」

 部屋に戻ろうと立ち上がったわたしに、父は真剣とも冗談ともつかない顔でわたしに声をかけた。

「今度、篠原君を連れて来いよ。話してみたいんだ」

 わたしはくすくす笑った。

「いいよ。お父さん、総一郎に辛く当たらないでね」

「もちろんもちろん」

 言い方に怪しさを感じたけれど、本気ではないのはわかった。わたしは声を上げて笑って、おやすみを言った。

「お父さん、明日仕事でしょ。歯はちゃんと磨いて寝てね」

「わかってるよ」

 父ももう立ち上がっている。空になった袋を手に持って笑っている。

「じゃあ、本当におやすみ」

 父は微笑んで答えた。

「おやすみ」

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