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蜂蜜製造機弐号  作者: 酒田青
高校三年生 二学期
142/156

風邪

 いつ起きたのか、わからない。気づけば雪枝さんの服をたくさん着込まされ、使い捨てカイロを背中に貼られ、明るい日差しの中を雪枝さんと歩いていた。商店街は活気に満ちていて、八百屋のおじいさんも、眼鏡屋のおばさんも、わたしを見て驚いて声をかけてきた。「大丈夫?」だとか「風邪?」だとか訊かれて、わたしは何も答えられなかった。雪枝さんは引きずるようにわたしを連れて行き、「お父さんはちゃんとわかってくれるから」とか、「お母さんもいつかは」とか、声をかける。商店街の入り口のほうを見ると、母が立っていた。何だかとても小さく見えた。細くて小さな母。頼りない母。でも、優しくて好きだった。

 やっと気づいて、わたしは暴れた。

「帰りたくない」

 思えば風邪のせいでわがままになっていたのだと思う。自分が風邪を引いていること自体よくわかっていなかった。

「歌子! ご迷惑をかけないの」

 母がわたしを叱る声に、わたしは動きをとめる。母がわたしを厳しく叱る声なんて、初めて聞く。いつもやんわりと注意するだけの母だったのに。

「昨晩はありがとうございました。本当に……」

 母が雪枝さんにお礼を言っている。

「いいえ」

 雪枝さんが笑みを浮かべて首を振る。

「家まで一緒に行きましょう。歌子さん、だるそうだし」

 雪枝さんが言うと、母がお礼を言ってわたしの空いたほうの腕を掴んだ。軽く暴れるが、体が言うことを聞かず、結局されるがままになって歩き出した。二人の会話を聞くに、どうやら今は朝の九時らしい。学校にはとっくに間に合わない時間だ。

 家に着くと、母が家に入って色々な準備をしている間、玄関に座っているわたしに雪枝さんが話しかけてきた。

「お父さん、まだ怒ってるんだって」

 わたしは熱い息を吐きながら雪枝さんを見る。

「わたしも理不尽だって思うよ。でも、お父さんすごく心配してたらしいよ」

 そんなことを言われても、納得なんかできない。

「話し合って駄目だったとしても、道はたくさんあるんだから、頑張ればいい」

 でも、頑張っている足下をすくわれたら、転んで立ち上がれないのではないか。

「失敗しても、また試せばいい」

 わたしは雪枝さんを見上げた。雪枝さんはわたしにかがみ込み、微笑んでいた。わたしはうなずいたような、首を振ったような、曖昧な気分で彼女を見つめていた。

「歌子ちゃん、部屋を温めたから、二階に行きましょう」

 母がやってきた。雪枝さんはわたしから体を離し、母に頭を下げる。

「そろそろ帰ります」

「お仕事ですよね」

「はい」

「まあ、すみません」

「いえ、昼からのシフトなので」

 二人は頭を下げ合って、雪枝さんはわたしに手を振り、帰って行った。

 わたしは母に引っ張られ、どうにか二階に上がり、温かい部屋のベッドに入った。

「心配したのよ。中村さんがいい人でよかったわ」

 母がわたしのあごまで布団と毛布を上げる。わたしはそんな母の顔を見ていたが、次第に景色はマーブル模様に溶け込んでいった。


     *


「インフルエンザになった」

 とメールを打つと、渚からすぐに返事が来た。

「大丈夫? 熱は何度?」

 返事を打つ。

「三十八度。一度下がったから今はかなりマシだよ」

「うわっ。でも受験前でよかったね」

 ずきんと胸が痛む。でも、渚には教えておかなくてはならないだろう。

「お父さん、W大受けちゃ駄目だって」

「はっ?」

「総一郎といるところを見られて」

「は? どういうこと?」

 説明をすると、渚は猛烈に怒った。気持ちがいいくらいたくさんの言葉を並べて怒ってくれた。わたしは何だか救われた気分になった。

「諦めちゃ駄目だよ、歌子」

「うん」

 そう返事はしたけれど、また頑張れるか、自信がなかった。あの熱量を取り戻すのに、どれだけ自分を焚きつけなければならないだろう。わたしには、もう一度父に「受験させてほしい」と言う勇気もなかった。

「総一郎に言っとこうか?」

 渚のメールを見て、考え込む。それから一言、

「いい」

 と返した。


     *


 インフルエンザは一週間で落ち着いた。鼻水は出るけれど、病気真っ盛りのときとは違う。やっと学校に行ける。

 インフルエンザになってから、それを理由に父と会っていなかったが、学校の準備をしているときに出くわしてしまった。父は、「おはよう」と言った。わたしも「おはよう」と言った。そのあとは目を逸らし合って、朝食を黙って済ませ、わたしは学校に出かけた。


     *


 階段を上がりきると、

「おはよう」

 と声が振ってきた。目の前に、総一郎が立っていた。

「大丈夫か? 鼻の頭が剥けてる」

「嘘っ」

 触ると、確かにざらついている。

「無理するなよ」

 総一郎は、わたしの肩を叩いてから自分の教室に向かって歩き出した。

「総一郎」

 わたしが声をかけると、彼は振り向いた。わたしは父のことを言おうとしたのだった。でも、言えなかった。黙っているわたしを、総一郎は不思議そうに見た。それからわたしが言葉を諦めて手を振ると、振り返して教室に入っていった。

 今日も一日が始まった。

 昼食の時間はいつものように総一郎たちと過ごす。わたしは言いたくて、でも言えなくて、ずっと無言だった。岸がそんなわたしを茶化そうとする。事情を知っている渚が半ば本気で怒る。総一郎が不思議そうな顔をする。

 一日、ふわふわした気分でいた。授業も、頭に入らない。勉強しようとしても字を目で追うだけで終わってしまう。

 わたしは、W大に行きたいという気持ちを全く失ってしまっていた。

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