喧嘩
カレンダーを見て、今日は拓人の誕生日だ、と気づいた。総一郎とつき合うまでは、時々お菓子を作ってあげたり、拓人の家に行って彼の祖母が用意したケーキを一緒に食べたりしていたのだ。「ばあちゃん、おれもう十五歳だよ。誕生日パーティーなんていいよ」と文句を言いながらまんざらでもなさそうだった拓人の顔を思い出し、少し笑ってしまった。今年は静香と一緒に何かするのだろうか。今年は「おめでとう」だけで済ませるべきだろうな、と思う。
家族での穏やかな朝食を済ませ、立ち上がる。歯磨きをしていたら、母がお弁当を「テーブルに置いておくわね」とわたしの席に置いてくれる。夜更かしをしているせいか今朝は起きられず、母が全部作ってくれたのだった。本当に、ありがたい。
玄関に座って靴を履いていると、母がいつものように小股で近づいてきて、話しかけた。
「今日、拓人君の誕生日ね」
「あ、お母さんも覚えてたんだ」
「ええ。今年は何もしないの?」
「しないよー。だって受験生だよ。そんな余裕ないよ」
「おっ、歌子、拓人が寂しがるじゃないか」
父がネクタイを締めながら会話に入ってきた。わたしはけらけら笑い、
「もうそんな年齢じゃありませーん」
と手をひらひらさせた。それから立ち上がり、家を出た。
「寒っ」
首を縮めてマフラーに顔を埋めた。今年のマフラーは地味なオフホワイトだった。でも母が選んでくれたのだ。色々考えてくれたようで、肌触りも温かさも以前とは全く違う。
コートのポケットに手を突っ込んで歩き出すと、父がドアを開いて、
「転ぶぞ。ポケットに手を入れるな」
と叫んだ。過保護だなあ、近所の人に聞かれたら恥ずかしいなあ、と思いながらも、わたしは何だか幸せな気分で歩き出した。
*
教室に入ると拓人がいた。友達と一緒に勉強している。さすがの彼ももはや勉強せざるを得ないらしい。拓人が顔を上げたので予定通りの言葉を言う。
「誕生日おめでとー」
「おー」
わたしと拓人の誕生日らしいやり取りはこれで終了した。さっぱりしたものだ。昨年度までの好いた惚れたは何だったのだと思うくらいだ。
でも、色々乗り越えたからこそ、深いところで繋がっている気がする。わたしにとって拓人はそういう人間だ。
総一郎はどうだろう。拓人とは別のところで深く繋がっている気がする。恋愛感情を抜きにしても、どこかで繋がっていられるような。
自分の席で考え込んでいたら、ホームルームが始まった。田中先生がやってきて、号令がかかる。
挨拶をしながら、ああ、拓人ももう十八歳か、と思い、何だか寂しくなった。
*
家に帰る途中で拓人と静香を見かけた。拓人の家に行くようだった。二人で門を開けて庭に入って行く。拓人の祖母が用意したケーキを一緒に食べるのだろうなあ、と思う。今年は苺のショートケーキだろうか、チーズケーキだろうか。わたしには関係ないけれど、ちょっと気になる。静香は拓人の家族にもう認められたのだろうか。だったらいいなと思う。
静香のほうがわたしに気づいて手を振った。柔らかい笑顔。ということは緊張していない。じゃあ、もう何度か拓人の家に来たんだな、と気づく。いいなあ、と思う。わたしも総一郎の家に頻繁に行きたい。
「おっ、歌子。歌子も食べる? ケーキ」
拓人が玄関から出てきて満面の笑みでわたしに声をかけた。わたしは首を振る。
「お邪魔ですから」
「何言ってんだよ。どうせばあちゃんいるんだよ」
「受験勉強があるんで」
「つき合い悪いぞ。まあ、いいけどな。静香とばあちゃん、もっと仲良くさせたいし」
「それがいいよ」
じゃあ、と手を振って別れた。わたしは家に帰り、拓人に言った通り自分の部屋で勉強をする。最近は本当にリラックスして勉強できている。集中力も段違いだ。学んだことをぐんぐん吸収していくのがとても楽しい。やはり、ストレスが強いときより気楽なときのほうが効率はいいようだ。
階下でわたしを呼ぶ声がする。父だ。今日は夕飯に間に合ったらしい。階段を下りると、顔を洗ってさっぱりした様子の父が笑って「ただいま」を言った。
今夜のメニューは母特製のカルボナーラスパゲティーとスープとサラダだった。最近カロリーの多いメニューばかり出るなあ、と思う。わたしに力をつけさせようと思っているのだろうか。生クリーム多めの少し緩いソースには黒胡椒がよく効いていておいしい。父は快活に近所の人の話をしている。本当に明るいなあ、と思う。滅多に笑った顔を崩さない父は、この半年以上の不機嫌な顔のほうが普段通りではないのだった。
「あ、歌子」
「何?」
「拓人に彼女ができてたな!」
わたしはきょとんとする。父は大ニュースのようににやにや笑っている。
「今知ったの?」
「うん。拓人の家から拓人と彼女が出てきててな。挨拶したんだ。かわいい彼女だったぞ」
「知ってたよ。一年のときからつき合ってるんだもん。彼女もわたしと友達だし」
「え? そうなのか? 何だー、知らなかったのはおれだけか」
「そうだよー」
「あら、お母さんも知らなかったわよ」
母がにっこり笑って話に混ざる。父が、そうだろ? と仲間を得て嬉しいかのようにフォークを振り回す。それからにやりと笑い、わたしにこう言った。
「歌子、拓人を取られちゃったな」
「別にー。ただの幼なじみだし」
「おまけに先を越されてなー」
どきりとする。でも平然とした顔のまま「別に」と答える。父はにっこり笑った。わたしの顔をまじまじと見ながら、
「でも、大丈夫。歌子は美人だから将来もっといい彼氏ができるからな」
とフォークを揺らした。わたしはどきどきしながらも、笑みを作って誤魔化そうとした。
「それ、親の欲目だよー」
「ほんとだって」
父も、母も、笑っていた。わたしばかりが少し焦っていた。
でも、そろそろ総一郎を両親に紹介してもいい気がする。そういう時期が近づいていると思う。
*
「あーあ」
夕暮れの河川敷で川の流れを眺め、魚を捕る白鷺のまばゆいばかりの白さを目で追いながら、総一郎に寄りかかった。今日もとても寒い。十二月なのだから当然だけど。
「寂しいなあ」
総一郎はずっと川を見ている。微笑んでいるから、わたしの声は聞こえている。
「寂しいなあって言ってるのに」
「わかってるよ。でも歌子、最近そればっかり」
総一郎は笑みを浮かべたままわたしを見る。余裕なんだなあ、と思う。
「総一郎は、寂しくない? もしかしたらわたしはW大落ちるかもしれないし、高校生じゃなくなったら、わたしたちの関係も変わっちゃうかもしれないのに」
最近そのことばかり考える。勉強をしていてもふとそのことを考えてシャープペンシルを走らせる手がとまる。高校生ではなくなる。それは同じ学校の同級生ではなくなるというだけではない。何かが決定的に変わってしまう気がするのだ。
「それでもさ、大丈夫だよ」
「何が大丈夫なんだか」
「大丈夫」
総一郎はわたしの頭を自分のほうに寄せた。わたしは今度こそ泣きそうになった。
「こうやって大丈夫って言ってくれるけどさ、わたしたち、もう同じ学校の生徒じゃなくなっちゃうわけでさ、キス止まりだしさ、総一郎がわたしに飽きるかもしれない。心変わりするかもしれない」
「それはないよ」
総一郎が微笑むのをやめて真剣な顔になった。わたしはどきりとしてその目を見つめる。鋭い形の目と、夕日の赤さが溶けだしているような茶色い瞳がわたしの顔に向けられている。
「おれは、とにかく……大丈夫だと思う」
わたしは少し泣いた。総一郎がそう言ってくれるのなら、今だけでも信じようと思った。不安だろうが心配だろうが、言葉にしてはいけない。わたしたちは高校生だ。そして高校時代はどんどん過ぎていく。時の流れに逆らうことはできない。だから、変わることへの不安なんて、口にしないほうが賢明だ。
総一郎がわたしにキスをした。わたしは彼の手を握った。大きくて温かくて硬くて乾いていて、わたし好みの手。ぎゅっと力を入れたら、ぎゅっと強くてのひらを包まれた。
下を向いてぐずぐず鼻を鳴らしていたら、総一郎が、帰ろうか、と言った。わたしはまだまだ一緒にいたいと言うのを我慢して、うなずいた。
*
暗くなった道を総一郎と歩き、家の前で別れた。総一郎は微笑んでいて、わたしは目が少し赤いこと以外は普段通りに見えるはずだった。
ただいま、と玄関のドアを開ける。おかえり、と母の声がする。靴を脱ぎ、居間に入ると、父がテレビを見ながらソファーに座っていたので驚いた。父は真っ先に「おかえり」を言う人で、今日は全くそれがなかったからだ。
「お父さん、ただいま」
「おかえり」
父は笑っていた。何だ、いつも通りだ、とほっとする。母が呼ぶので食卓につき、ハヤシライスを皆で食べる。父も母もいつも通りだ。おしゃべりをし、笑う。わたしは少しさっきの寂しい気持ちが尾を引いていて、口数が少なかった。
食事を終え、食器も片づき、父はソファーに座ってテレビをつけ、母はテーブルを拭き始めた。わたしも二階の自分の部屋で勉強をするつもりで、居間を出ようとした。
「なあ、歌子」
父が後ろから声をかけてきた。
「何?」
振り向くと、父は笑っていた。
「あれ、彼氏か?」
どきっとした。でも、ある程度覚悟はできていた。総一郎がわたしを家まで送ることはよくあったし、そろそろ紹介してもいい、と思っていたのだから。
「そうだよ。家まで送ってくれたんだ」
「名前は?」
「篠原総一郎君。一年のときからつき合ってる」
「そうか」
父の笑みは徐々に消えていった。わたしは少し焦りながら続ける。
「総一郎ね、頭いいんだよ。わたしがわからない問題を、全部わかりやすく教えてくれるんだよ」
「そうか。そしたらどこの大学を目指してるんだ?」
父はもはやテレビのほうを向いていて、こちらを見ていなかった。
「東京の大学」
しんとなった。父は前を向いたままこちらを見ない。
「お父さん?」
「お父さん、さっき橋のほうに歩いて行ったんだよ。ちょっとショックだったなあ」
父の声は低かった。わたしはさっきキスしていたところを見られたんだな、と思ったけれど、恥ずかしさこそあれそれほどまずい状況だとは思っていなかった。
「だって、つき合ってるんだもん」
「歌子。W大は諦めろ」
「え?」
何を言われたかわからなかった。父はこちらを振り向き、怒りのこもった目でわたしをにらみつけている。W大を、諦める? どうしてこの状況で? 初めは戸惑いを感じていただけだったが、父の表情が変わらないのを見て、突然パニックになった。
「何で?」
「篠原君が東京の大学に行くから歌子も行きたいんだろう。そういう理由なら行かせるわけにはいかない」
「意味わかんない。そのためだけにあんな難関大学目指すわけないでしょ?」
わたしは父の前に回り込んでわめいた。母がぱたぱたとやってきて、わたしたちを心配そうに見ている。
「とにかく駄目だ」
「何でそうなるの? 田中先生にももうW大を受けるって言ってあるんだよ。何で今更? お父さん、約束したじゃん! 嘘つき!」
「何とでも言え。とにかく駄目だ」
わたしは怒りのために頭痛を覚えた。それでも言葉をコントロールできない。
「嘘つき!」
叫んだあと、父がわたしをにらみながら部屋を出ていった。ドアがぱたんと閉まるのを聞き、わたしはそばにいた母に詰め寄る。
「お母さん、お父さんを説得して!」
「歌子ちゃん、お父さんは頭に血が昇ってるだけだから……」
母は曖昧に笑いながらわたしの肩に触れた。それを振り払う。
「お母さん、いつもそう! わたしとお父さんが喧嘩するとお父さんのことをかばう。わたしのことなんて助けてくれたことない!」
母がショックを受けた顔でわたしから離れた。わたしは大きな足音を立てながら歩き出した。
目の前にあったご褒美が、手に取る前に取り返されたような気分だった。裏切られたような気分になって、わたしは家を飛び出した。
わたしは総一郎との関係も不安で、高校を卒業して変わってしまうのではないかと思っていた。それでも大丈夫だと思おうと言い聞かせていたのだ。だって、時の流れには逆らえないし、わたしは望む進路で頑張れると思っていたから、それなら我慢することができる気がしていたからだ。
色々なストレスや不安が押し寄せてくる。勉強が辛くてもやれていたのは希望があったからだ。両親が応援してくれるとわかって、本当にほっとしていた。もう、あんなに苦しい思いをしなくてもいいんだと思ったから。
でも、父はわたしに望む進路を諦めろと言った。
拓人の家以外で一番近いのは雪枝さんの家だ。家にいたくないので泊めてもらおうと思って、電話をかける。
「歌子?」
雪枝さんの声を聞いた瞬間、涙がぶわっと溢れ出した。嗚咽を漏らし、言葉が出てこないわたしを、雪枝さんは待ってくれる。
「歌子、今どこ?」
雪枝さんが落ち着いた声でわたしに訊く。
「商店街の、入り口」
「一人じゃ危ないよ。今行くね」
電話が切れ、シャッターが下りた商店街の街灯の下で、泣きじゃくった。肩が震える。のどが痛い。上着を着ずに飛び出したので、ひどく寒かった。
「歌子」
雪枝さんがやってきた。コートを着てはいるが、下はフリース素材の寝間着のようだった。わたしは雪枝さんに駆け寄って抱きつき、また泣いた。雪枝さんはわたしの頭を撫で、自分のアパートに連れて行ってくれた。
*
「お父さん、酷いねえ」
雪枝さんがわたしの話を聞いたあと、ため息をついた。わたしはようやく落ち着き、お茶を飲んでいた。
「W大を受験できるって思ってたのにね」
わたしはうなずいた。何だか、ひどくだるい。
「今日は泊まっていっていいよ。家には連絡してあげるから」
「いい」
「何言ってるの。あのね、家に連絡されたくないだろうけど、お父さんたち心配してるよ。ね、行ってくるね」
わたしは意識が朦朧としていた。雪枝さんの言葉にも反抗する気力がなかった。寒くて仕方がなくて、雪枝さんの家の青い布団のこたつに深く潜った。それからいつの間にか眠っていた。