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蜂蜜製造機弐号  作者: 酒田青
高校三年生 二学期
140/156

受験勉強と両親

 しばらく、渚と岸のことで悶々と過ごした。どちらからキスをしたのかだとか、どういう結果になるのだろうかとか、ぐるぐる頭の中を巡る。あのとき、二人とも普段通りの態度でわたしや総一郎と接していた。帰るまでそうだった。渚は嫌じゃなかったかな、と考えて、何で言ってくれないんだろう、と思った。でも、いずれわたしに何か言うのはわかっていた。待とう、待つべきだ、という結論に達して、わたしはうなずき、勉強に戻った。

 もう十一月だ。苦手の微分も積分も、人体の仕組みも生態系も、地理の勾配の求め方も、自信があるレベルではなかった。何もかも駄目だと沈み込むときがあるくらいだ。得意の国語分野でも、上には上がいるし、比べても仕方がないけれど比べてしまうから、このくらいでは駄目だと自分を追い込もうとするのをやめられなかった。

 何より両親を説得できていなかった。これはわたしがわたしに「もっといい成績を」と求める原因だった。

 話し合わなければ。確かにわたしが行きたい大学は私立で、わたしが奨学金を受けてもアルバイトをしても生活費までまかないきれないレベルで、両親の助けがなければどうにもならないのだった。

 親に頼らなくても選択肢は他にもある。でも、わたしは早く目的の研究をし、早く東京に行きたいのだった。演劇をやりたかったし、映画の歴史や様々な技術、技法について知りたかった。そのためには実力をつけ、両親にひれ伏してでも援助してもらわなくてはならない。

 気が抜けそうになるときがある。毎日同じ姿勢で机に向かっているせいで、背中が痛い。でも、やらなきゃ。今年度いっぱいでも保たせなきゃ。


     *


「お父さん、お母さん」

 食卓で家族皆で朝食をとったあと、早食いの父が自分の皿を片づけようと立ち上がったときに声を出した。しばらく気まずい家族関係だったので、緊張した。

「話がある」

「何だ」

 父は座り直した。何の話題かわかっているのだろう。機嫌はよくなさそうだ。母は緊張した様子で父を見る。この話題は毎回父を苛立たせるから、気になるのだろう。

「中間試験や模試の結果でわかってるかもしれないけど、わたし、成績上がったよ。W大を目指すこと、認めてほしい」

 父はあからさまに渋い顔をした。母はまた父を見る。

「どうしても行きたいのか」

「うん」

「そんなにやりたい研究なのか?」

「うん。お願い。行かせてくれたらお父さんたちにもう逆らったりしないから、行かせて」

 わたしは頭を下げた。上から父の慌てた声がする。

「頭を上げなさい、歌子。そういうのは望んでない」

 頭を上げると、父と母が戸惑ったようにわたしを見つめていた。何となく、今までの頑なな父の態度が崩れた気がした。父はため息をつく。

「悪いけど、どうしても遠くの大学には行かせたくないんだ」

「生活費がかかるの、わかるよ、でも……」

「そういう問題じゃない。お父さんたちは心配なんだ。目の届くところに歌子を置いておきたいんだ」

 信用がないんだなあ、と思う。でも、ここで食い下がったら余計に意思のない頼りない人間になってしまう気がする。

「わたし、毎晩日付が変わっても勉強してる。成績もよくなってる。大学に入ってもついていけるように戯曲とか有名な小説とか、今まで読んでなかったものも読んでる。映画の研究をしたいから、時間を割いて映画を観たりもしてる。それでも足りないかな。もっと何かをしたら、行かせてもらえるのかな」

 両親は顔を見合わせていた。父は戸惑っていたし、母は心配そうにわたしをちらりと見た。父がわたしに言う。

「歌子、W大学はD判定だっただろ? 無理しなくていいんじゃないか? おれは……」

「頑張るから。行きたいの」

 父は考え込んだ。母がじっとわたしを見ている。わたしが頑張りすぎていると思っているのだろうか。でも、わたしは総一郎たちと楽しく過ごす時間もあるし、もっと遅くまで勉強している同級生もいるから、自分はやりすぎているとは思わない。

「しばらく待ちなさい。お父さんにも考える時間が必要だ」

 父がわたしにはっきりとした口調で言った。ぱっと明るい気分になった。

 来週の全国模試で。もっと確実な結果を出そう。それなら、大丈夫かもしれない。


     *


 秋というよりは冬に近い寒さだ。木枯らしが吹いて、校庭の隅のポプラの木々の落ち葉がかさかさと舞う。わたしも、わたし以外の生徒も、コートを着込んでいる。マフラーをつけている生徒もいる。模試が終わってしばらく経つ。気になって仕方がないが、結果が出る日までは気にしていてもどうしようもない。

「うーたこ」

 後ろから声をかけられ、振り向くと渚がいた。彼女も学校指定の紺色のコートを着、手には使い捨てカイロを握っていた。その手を軽く振っている。

 挨拶をし、おしゃべりをしながら校舎に入る。階段での別れ際、小さな声で渚は言った。

「ご飯済ませたあと、話がある」

 ああ、あのことだ、とわかった。わたしはうなずいた。

 授業を真剣に受ける生徒が格段に増えた。いくらのんびりしていても、自信があっても、もう焦らずにはいられない時期だ。夏子や美登里は休み時間になっても勉強にいそしんでいるし、数人の生徒は授業中に別の科目の勉強をする。多分自信のある科目やセンター試験でしか受けない科目の授業だからだろう。光がわたしに会いに来ることも、わたしが会いに行くことも減った。

 授業が済んで、休み時間に英語の文法をチェックしていると、上から声が降ってきた。

「おい、歌子、雨宮が迎えに来たぞ」

 拓人が目の前にいてびっくりした。しかも、気づけば教室のあちこちでお弁当が広げられている。休み時間ではなく、昼休みだったらしい。

「歌子、大丈夫か? 勉強ばっかりしてるぞ」

 拓人の言葉に、わたしは吹き出す。

「何言ってるの? 受験近いんだからそっちが普通じゃない?」

 拓人は心配そうだ。わたしの顔を覗き込む。

「何か青白いというか、ノイローゼっぽいというか……。本当に大丈夫か?」

「うん。心配ありがとう。ご飯行ってくるね」

 渚が廊下で待っているのが見える。わたしはお弁当を持って拓人に手を振った。

「どうしたの? 浅井」

 渚が訊く。わたしは首を振りつつ答える。

「何か、心配してた。わたしがノイローゼっぽいって」

 渚は黙ってわたしの横を歩く。それからぽつりと、

「そうかもしれないよ」

 と言う。

「歌子、最近前よりずっと焦ってる感じじゃない? 総一郎の家に行ったときとは別人みたい。何かあった?」

「んー。ご飯のあと話す」

 しばらくわたしをじっと見たあと、渚はうなずいた。


     *


「結局ね、お父さんの判断次第なの。お父さんがW大を受けてもいいって言ってくれるまで、安心できないの。焦りが酷くなったのは、お父さんたちにもう一回頼まなきゃいけないって思ったからだし。それまでは頑張ってるところを見せなきゃいけないし」

 わたしの説明に、渚はじっと耳を傾けていた。彼女はきっとすごく心配してくれている。わかっているから、説明をしなければいけないし、安心させなければならない。ここは寒い。廊下の一部だとはいえ、暖房が効いていない場所は外ほどではないけれど冷え切っている。一組の前の廊下で立ち話をしていたのだ。

「お父さん、どんな感じだった?」

「大丈夫だと思うよ。考えるって言ってたし。はっきり言ってもらえなきゃ、安心できないってだけ」

 でも、ちょっと折れそうだった。早く結論を出してくれればいいのに、父は長い間考えていて、わたしもうっかりして結論が悪い方向にひっくり返ったりしないように催促できないでいたのだ。そう言うと、渚が「催促しなよ」と言った。

「何か、辛そう。催促して、早く結論言ってもらおうよ。どんな結果でも、どうにかなるから」

 わたしはうなずいた。確かに、どうにかなるはずだ。そう考えると一気に安心して、久しぶりに深く息を吸い、吐いた。すっきりした気分で、渚に訊く。

「で、渚の話って?」

 渚は固まり、しばらく考えてから言った。

「護と、キスした」

 わたしはうなずく。

「知ってた。ごめん、見てたんだ」

 渚はかあっと顔を赤く染めた。初めて見る顔だ。よほど恥ずかしいらしい。

「嘘でしょ。総一郎も?」

「総一郎は、見てない。わたしも言ってない」

 彼女は長いため息をついた。ちらりと一組の閉ざされた扉を見つめ、少しでも離れようと窓際ににじり寄る。

「でも、岸とは普通の感じだね」

 わたしは言う。一緒に食事をし、岸は相変わず軽く冗談を言ったり、一足早く食事を済ませたら勉強をしたりしていたし、渚もそんな岸をいなしたりしていたのだ。渚はうなずく。

「普通に振る舞おうって決めたの、二人で」

「じゃあ、つき合って……」

「違う。この間は、護があたしにキスして、あたしは受け入れただけ。何か進展したわけじゃない」

 わたしはびっくりしてまじまじと渚を見た。それは、岸にとっては辛いことではないだろうか。渚も、キスを受け入れたということは彼自身のことも受け入れているのではないか。

 けれど、わたしは何か助言めいたことを言わず、「そうなんだ」と言った。渚は今、この状況を受け入れられていないのだ。いつかは受け入れる予感がする。そのとき、彼女はきっとわたしに何か言ってくれるだろう。

「受験が近いのに変なことしやがってさ」

 そう言う渚の顔は、決して本気で嫌がっているようには見えなかった。


     *


 期末試験を終えて、翌日から戻ってくる答案用紙はわたしを安心させるに充分だった。どれも九十点台だったのだ。

 家に帰って両親に見せると、褒めてくれた。今までと少し違ったのは、父の顔が曇っていたことだ。

 でも、父はわたしに優しい声で言ったのだ。

「頑張ってるな」

 と。わたしはうなずき、ほっとした気分で笑った。それから、期末試験の結果がわかったら、父に訊いてみよう、と思った。


     *


 総一郎と一緒に帰るのは久しぶりだった。デートらしいデートはしばらくしていなかったし、二人ともそれどころではなかったからだ。わたしは当然だし、総一郎も成績がいいとはいえ、勉強せずに合格できるほど彼の志望校は甘くはない。

「冬だー」

 わたしが言うと、総一郎がさくさくと校庭の落ち葉を踏みながら笑った。目尻に下がり気味のしわができて、わたしが好きな形になった。それを見て、わたしはにっこり笑う。

 校門をくぐり、生徒が通る校門からの道を避け、商店街に入ると、ここぞとばかりにわたしは総一郎の手を握った。大きな手。温かいし、ちょっと硬いし、ちょっとかさついていてわたし好みの手だ。

「歌子」

 あ、名前を呼ばれた、と思う。低くて柔らかくて、わたしの名前を呼ぶときだけこういう声になる。わたしの名前を大事にしてくれている声。

「商店街に来たってことは、本屋に寄るんだろ?」

「ううん。わたしはね、総一郎と一緒に歩きたかったの」

「そう」

 総一郎はちょっと嬉しそうに笑う。それから靴を鳴らして歩く。漬け物屋の前に着いてから、彼は言った。

「河原に行く?」

「うん」

 寒いけれど、コンクリートの階段に座って話をするくらいなら、しばらくできるだろう。

 商店街を引き返し、橋のほうに向かう。橋を渡り、川沿いに少し歩いてから階段を下り、適度な場所で並んで座った。

「寒いね」

「うん」

 わたしは総一郎に目一杯体をくっつけた。触れている部分だけは少し暖かくなった。

「総一郎と一緒の学校に通えるのも、あと四ヶ月かー」

「卒業式は三月の頭だから、三ヶ月くらいだよ」

「そういう厳密な事実を言わない! 気が滅入るよ」

 総一郎は笑い、わたしの肩を抱いた。背中が少し暖かくなった。わたしはつぶやく。

「寂しいね」

「そう?」

「寂しいよ」

「そっか」

 見上げると、総一郎は軽く微笑んでいる。わたしはまたつぶやく。

「ずっと一緒にいたいね」

「本当?」

「うん。ずっと」

 もう一度見上げようとすると、総一郎はわたしを抱きしめた。それから言った。

「ありがとう」

 総一郎の抱擁が何だか切なく、わたしは総一郎の体に腕を回したまま、ぐずぐず泣きそうになった。でも、そうしたくなかったから我慢して、鼻の奥に刺激を感じたあとは大丈夫だった。

 何だか、最近色々なことが切なく感じるのだった。


     *


 期末試験の結果がとてもよく、わたしはほっとしつつ家に帰った。母に見せると、「すごいわね」と笑ってくれる。しばらくして、父も帰ってきた。食事が始まる前にと成績表を見せた。父はしばらくうなった。

「歌子」

「何?」

「座りなさい」

 わたしは言われた通り、ソファーに座った。きっとこの間のことだと思った。父の顔は苦渋に満ちていて、でも真剣な目でわたしの目を見ていた。

「歌子、おれは歌子がW大に行くのを認めようと思う」

「本当?」

 嬉しくて飛び上がるように立ち上がると、父が手振りでまたわたしを座らせた。

「仕方なく、だぞ。本当は東京なんて遠くに行かせたくないんだぞ。それだけはわかるように」

「うん!」

 わたしはここしばらくのストレスが一気に飛んでいくのを感じていた。やっと、許可がもらえた。多分、もう気負いのようなものはなくなったのだ。これからは、自然に努力することができると思う。

「歌子、頑張ってたもんな。それを認めないのは残酷だからな」

「お父さん、ありがとう!」

 父はちょっと照れたように笑った。嬉しかった。家族関係も元に戻ると思った。去年みたいな、明るい関係。

「よかったわね、歌子ちゃん」

 母がわたしの横に座って微笑んでいる。わたしは思い切りうなずく。希望が、わたしの体に力を巡らせている。

 幸せだ。これからもっと確実な結果を出せるように、努力しようと思った。

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