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蜂蜜製造機弐号  作者: 酒田青
高校三年生 二学期
139/156

総一郎の家

 廊下で、レイカとすれ違った。何だか肩の荷が下りたような、すっきりした顔をしていた。目が合い、それぞれ目を逸らす。わたしたちはもう友達ではないので、挨拶をしないのだ。

 どうしてあんなに軽やかな表情をしていたのかな、と考え、自分の状況を思い出してため息をつく。

 全国模試の結果はD判定だった。はっきり言って、酷い結果だ。夢を叶える、と勉強ばかりして、それでも駄目だったのだ。わたしには、元々の能力がないんだろうか、と落ち込む。もう、十月も終わりだ。そんな時期にこの結果が出るなんて、焦りしか生まれない。人によっては、諦めているだろう。

 昼食のときに総一郎たちに話そうか、と思ったけれど、彼らはいい調子のようで、わたしのように暗い顔をしていなかったので、やめた。

 昼食を終え、廊下を歩いていると、レイカとまたすれ違った。見知らぬ男子と歩いていて驚いた。彼女は恋人に「他の男と仲良くするな」と言われていて、彼の目がなくともそれを守っていたのだ。レイカと目が合う。それから二人とも逸らす。

 最近、レイカとよく目が合うな、と思っていた。レイカはわたしに関心なんてないはずなのに、どういうことだろう。

 教室に戻ると、光が美登里と話していた。わたしを見つけて、手招きをする。

「聞いた? 歌子。レイカ、ヒデと別れたらしいよ」

 びっくりした。レイカは彼女の恋人と結婚するつもりでいたのだ。それなのに、別れてしまうなんて意外だ。その上あんなに明るい顔ができているなんて。

 一体レイカに何が起こっているのだろう。そう考えたけれど、すぐに自分の模試の結果のことを思い出して、またため息をついた。


    *


 総一郎の家! と心の中で叫んだ。自転車置き場から総一郎に招かれるまま歩いて、茶色い大きなマンションのエレベータに乗る。中程の階に着き、先ほどまで低い位置から見渡していた街を見下ろしながら歩き、彼と彼の家族の家である一室のドアを開いた総一郎に続く。わたしはひどく感激していた。

 きれいな白い壁、清潔な玄関のたたき。たたきには灰色のタイルが敷き詰められている。廊下を行き、居間に通される。彼と彼の父が管理する居間は、とてもきちんと整理されていた。灰色のL字ソファーに小さめの低いテーブル。奥にはうちと同じように台所が続いていて、食事するための大きなテーブルもある。

「うわあ、すごい!」

 わたしが叫ぶと、岸が笑った。

「いやいや、何もすごくないよ」

「お前が言うな」

 総一郎が突っ込む。岸は、

「いや、町田は何にでも興奮するからさ。何度もここに来てるおれにとっては本当に普通」

「いいな、岸」

 わたしは本気で岸が羨ましくなる。総一郎は、今日まで家にわたしを招待してくれなかったのだ。わたしも、彼の存在を両親に隠していたので、一度しか招いてないけれど。

「へえ、総一郎が住む家って感じだね。整理されてる」

 渚がゆったりと歩いてやってくる。どうやらこんなに興奮しているのはわたしだけらしい。

 今日は、総一郎がこの間言っていた通り、ご飯に招いてくれたのだ。総一郎が作ったご飯を食べられるのだ。とても嬉しい。

「篠原、腹減った。何か食べたい」

 岸が言うと、総一郎が「はいはい」と奥に引っ込んだ。わくわくしていると、総一郎が炒飯を持って出てきた。大きなテーブルに置く。いい匂いだ。隠し味があるのだと、総一郎は言っていた。どんな隠し味なのかは、教えてくれなかった。

「スープとサラダもあるよ。皆手伝ってよ。特に岸」

 ソファーでくつろぐ岸に、総一郎の目が注がれる。彼はのんびり立ち上がり、勝手知ったる様子で台所に入った。わたしと渚も続く。台所もきれいに掃除されている。シンクはぴかぴかだ。

「あれ? シンクがめちゃくちゃきれいだな。掃除した?」

 岸が訊く。総一郎がもごもご言うのを聞いて、岸はわたしを見て笑う。

「どうやら町田が来るから掃除したらしいよ」

 わたしは一気に嬉しくなる。それからうきうきと大きなガラスのボウルに入ったサラダを持って行く。

 皆で食べる総一郎の料理は、とてもおいしかった。総一郎の炒飯は、ほんのり甘みがある。

「砂糖!」

 と渚が隠し味を当てようとする。総一郎は笑って首を振る。

「みりん!」

 とわたしが言うと、総一郎が目を見開き、岸が「当たりー!」と声を上げた。

「やっぱり彼女というのは勘が働くね」

 炒飯を頬張りながら笑う岸に、総一郎が「そうかも」とうなずく。わたしは正解できた嬉しさで、更に興奮する。

 ご飯を終え、四人で話をする。いつの間にか理系の彼らにしかわからない高度な物理や数学の話題になってしまい、少し退屈したわたしは居間を散策した。背の高い本棚が居間の壁の多くを覆っている。上のほうの段は難しそうな洋書や彼の父の研究に関係がありそうな専門書が並び、同じくらいの段の右側に、総一郎も読みそうな小説や新書が並んでいた。一番下の辺りは優二君が読みそうな子供向けの小説や科学の本だ。本を読むのが好きな家族なんだなと思う。そういうことを確認できることさえ、嬉しいと思う。

「総一郎の部屋はどこ?」

 わたしが訊くと、岸が居間にあるドアを指差した。二つあるドアの一つは優二君の部屋のもので、もう一つは総一郎の部屋のもののようだ。総一郎が案内しようと立ち上がる。一緒に部屋に入ると、総一郎の部屋の匂いがした。

 白い壁と灰色の絨毯とベッドのシーツ、青いカーテン。ベッドの横には剣道の防具や竹刀が大切そうに置いてあった。よく整頓されている。それに、居間と同じくたくさんの本。

「へえー。これが総一郎の部屋かあ」

 感心するわたしに、総一郎が笑う。

「何も珍しいものはないだろ?」

「ううん。珍しいよ、全部。わたし、初めて来たんだもん」

 振り向くと、総一郎はドアを完全に閉めるところだった。何気ない動作だったけれど、急にどきどきした。

 総一郎は、わたしに暗い感情とか、欲望とか、覚えるときがあると言っていたな、と思い出す。欲望なんて、わたしはまだよくわかっていないけれど。

 ただ、今彼にキスしたい、と思った。

「総一郎。キスしよう」

「え?」

 彼が驚いた顔をした瞬間、わたしは彼の首に腕を回して唇に口をつけた。舌を絡めたりはしないけれど、長いキス。離れて、わたしはえへへと笑った。

「久しぶりだね、キスするの」

 総一郎はぼんやりしていた。それから彼が腕を伸ばしたのでわたしは彼の体を抱きしめた。わたしの背中にも彼の腕が回る。

「やめとけよ。密室でこういうことするの」

 彼の声が上からと彼の体からの二方向から伝わってきた。

「おれ、本当に何をするかわからないから。今だって、岸や雨宮がいるから我慢できてるわけで」

「うん。ごめんね」

 わたしは抱擁に少し息苦しくなりながら、うなずく。彼が今この瞬間、わたしのことを強く思っていることが伝わってきた。嬉しかった。総一郎は大きなため息をつく。呆れて出すときのため息とは違った。

「ちょっとだけ離れようか」

 彼が言うので体を離す。顔を見ると、総一郎の顔は紅潮していて、何だか美しい。彼は箪笥の上の鏡を見て、困った顔になる。

「歌子、先に出てて。この顔はまずい」

 わたしはうなずいてドアをそっと開けた。それからびっくりしてまた総一郎の部屋に引っ込んだ。

「どうした?」

 と総一郎が訊く。

「ううん」

 と答えた。それから二分ほど待って、二人で居間に戻った。渚と岸がわたしたちを軽くからかう。それに対して笑いながら、見てしまったな、と思う。

 さっき、岸と渚がキスをしていたのだ。

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