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蜂蜜製造機弐号  作者: 酒田青
高校三年生 二学期
136/156

映画館

 あ、トイレの臭いがする、と思った。さっき通り過ぎたチケット売場はカウンターが古い木製で傷だらけだったし、カウンターの下の壁に塗られた薄い緑色のペンキも剥げかけていた。一階は休憩スペースになっていて、円いテーブルといくつかの椅子が何セットか置いてある。そこを通り過ぎてから目的の劇場に向かったのだ。階段の壁には小さめのポスターがいくつも貼られ、どれも知らないものばかり。この映画館は小さなビルのほとんどを占めていて、あまり有名ではない映画ばかり上映しているようだった。ポスターを見ると、イタリア映画だとかドイツ映画だとか、聞いたことのない日本の低予算映画だとか、お客が入るのか心配になってくる。

 「イヴの総て」を映画館で観られるなんて、素晴らしいことだ。でも、こんなに古くて痴漢も出そうな映画館じゃなくてもいいのに、などと勝手なことを思う。

 目的の劇場がある三階に着いた瞬間、人が少なくて唖然とした。大学生アルバイトだと思われるもぎりの若い男性がいる以外は、ぽつりぽつりとしか人がいない。一階よりも更に狭い廊下のような空間に数人の男女だけというこの状況に、不安になる。それでも近くにあった自動販売機でジュースを買い、椅子に座って渚を待った。映画館に入る前から不安だったので、更に落ち着かない気分になった。

 渚にチケットを渡せたとき、とても気分が高揚していた。でも、帰ってからどんどん不安は強まり、今となっては自分の身勝手さに頭を抱えるくらいだった。

 わたしは、渚を傷つけたのだ。それなのに、それからすぐにこんなことをするなんて、もっと嫌われるとしか思えない。

 ため息をつき、携帯電話を見る。上映時間は近づいていた。あと十五分くらい。渚は、来てくれるだろうか。多分、来ないだろうな。わたしはもう一回ため息をつき、自分の馬鹿さ加減に胸をざわめかせていた。上映五分前になっても渚は来なかったので、立ち上がってチケットをもぎってもらい、一人で劇場に入った。

 薄暗い湿った空間には、思った通り、十人くらいしかいなかった。わたしが愛してやまない作品も、初上映から何十年も経つとこんな有様だなあ、と寂しくなる。それでも映画だけは楽しんでいこうと、真ん中の席に陣取った。ひょっとして、だけど、渚が来ても、わたしのことが見えるだろうから。

 劇場が暗くなった。真っ暗な中、一瞬わたしはパニックになる。けれど、次の瞬間白い光がスクリーンから放たれ、体の力が抜ける。映画が始まったのだ。

 わたしは映画を夢中で観た。ベティ・デイヴィスの完璧で優雅な演技を見つめ、何も考えられなかった。けれど、主人公が独白をするメランコリックな場面に入った瞬間、わたしはわれに返ってまだ渚が来ていないことに気づいた。隣の席は右も左も空で、わたしは一人だった。どっと涙が出た。

 わたしは結局渚を傷つけただけで終わったのだった。渚がわたしに対して向けてくれた友情に、何も返せなかった。わたしは渚に心配をかけ、無制限に与えてくれる好意をぬくぬくと受け、それでいて渚を大事にできなかったのだ。本当に悲しい友情の終わりだな、と思って、それからは映画を観ることができなくなった。

 ベティ・デイヴィスはわたしに夢を与えてくれた。わたしはその人が作った映画を、映画館で観ることができているのだった。なのに、まともに観ることができない。

 音楽が消えた。場面が切り替わったようだ。顔を上げると最後のシーンの手前だった。ベティ・デイヴィスが若い女優を見つめている。気怠げに煙草を吸いながら。彼女は若い女優を嫌っているのだった。目の冷たさに、驚く。彼女は先ほどまで友人に優しい温かい人だったのに。若い女優の一挙手一投足に呆れかえっているのだ。その落差に、私は、すごい、と思った。彼女の役は、本当に生きていた。少しも嘘くささがなかった。すごい人だ。そして彼女はこの素晴らしい演技でたくさんの人の人生を豊かにしてきたのだ。

 わたしは真に許されている気がした。渚はわたしを許さないだろう。たくさんのわたしを嫌っている人たちも、許してはくれないだろう。わたしはわたしを許していた。だからこんなにも充足しているのだった。今だけ、誰のことも優しい目で見ることができるように思った。渚に永遠に嫌われても、わたしは大丈夫だろうとも。

 少なくとも、わたしは渚に甘えきっていた自分とさよならをすることができていた。

 映画が終わろうとしている。若い女優の不穏な場面。わたしはぼんやりとそれを眺め、映画が終わった瞬間、一つ人生を終えたようにほっとした。エンディングロールのあと、立ち上がろうとした。驚いた。左隣に渚が座っていたのだ。

 彼女はスクリーンを指さしながらわたしに訊いた。

「これ、どうなんの? この若い女優がやっつけられるわけ? 何でそこまでしないの?」

 わたしは口をぱくぱくさせ、「ええと」とつぶやく。

「多分そうなるけど、それを描くと繰り返しになるから、想像してお楽しみくださいってことかな」

「ふうん」

 渚は明るくなった劇場で、スクリーンを見ていた。冷たさを装っていない、以前の表情で。

「渚、来てくれたんだ」

「……うん。まあ、最後の十分くらいで滑り込んだ」

 渚はスクリーンばかり見ていた。何も映っていないのに。

「わたしのこと、許せなかったんじゃない?」

「うん。チケットを渡されたとき、また勝手なこと言ってる、と思った」

「なのに、何で?」

 渚はわたしを見た。真っ直ぐに。笑ってはいない。わたしたちの関係は微笑み合うことのできる段階にない。

「あたしのこと、本当に好きでいてくれるんだなって思ったから。歌子が突っ走ることは元々知ってたし」

「そっか」

 それでも腑に落ちない。こんなにも簡単にわたしに以前の態度を取ってくれるものだろうか。渚はわたしの顔を見て、こう言った。

「田中とね、話した」

 わたしははっと渚を見た。渚は淡々とした表情だった。

「好きだった、って言ったの。そしたら、ごめん、って言われた。知ってたんだって、あたしの気持ち。まあ、あれだけ態度に出してたらばれるよね。お前は特別な生徒だ、面白くて気になる生徒だって言ってくれた。でも、特別な女性ではないって。それでもあたしに『幸せになってほしい』って。『家族とか、恋人とか、親友とか、そういうのを大事にして、幸せになれ』って。あたし、歌子のこと思い浮かべた。悪いことしたなって思った。そんで、歌子にまた親友になりたいって言われてることを思い出して、幸せな気分になった。その瞬間、何て言うんだろう、あたしの恋愛感情や執着は、田中のも歌子のも、二つとも消えてなくなっちゃった。だから、歌子は勝手だなって思いつつも来たよ。映画は趣味じゃないし、一時間半黙って隣にいるのも気まずいから、最後だけ見ることにしたんだけどさ」

 わたしは、ありがとう、と小さくつぶやいた。とても嬉しかった。渚が許してくれたことも、田中先生が渚とちゃんと向き合ってくれたことも。先生が呑気だなんて思って悪かったな、と思う。先生は、完璧ではないけどいい先生だと、わかっていたはずなのに。

「あたしは歌子と友達でいたい。親友でいたい。いいかな」

 渚はわたしを見て、笑みを添えることなく言った。わたしはうなずく。

「うん。もちろん。ごめんね。本当に酷いこと言った」

「それだったらあたしだって酷いことした」

「渚がいないと、体のどこかが不安定な気分なんだ。今、やっと体がしっかりしてきた気分」

「何それ」

 渚が笑った。この数ヶ月で初めて。わたしも笑い、次に泣いた。渚は笑ってわたしの肩に手を置いたが、次第にその手が震え始め、彼女はわたしより酷く泣いた。嗚咽を漏らし、泣きじゃくる彼女にしてあげることは決まっていた。わたしは彼女を抱きしめた。

 いつも彼女がわたしを抱きしめていた。わたしは彼女の腕の中でぼんやりしているだけだった。自然と彼女を抱きしめている自分に、少し驚いた。でも、これがわたしと彼女の新しい関係の始まりなのだと思った。

「念願の一位になったね。おめでとう」

 わたしが言うと、渚は泣きながら笑う。

「総一郎がまた巻き返すよ。あたしは元々学校の試験のルールに沿って問題を解くのが苦手なの。一人で勉強ばっかりするの、寂しかったよ。これからは程々にする」

 わたしたちは泣き笑いしながら劇場を出た。雑然として入り組んだ夕方の街の中で、わたしと渚は久しぶりにお互いの明るい笑顔を見た。

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