映画のチケット
体中が強ばる。心臓が暴れている。わたしの足は、どう動いているのだろう。
今、わたしの後ろには渚がいた。わたしが階段を降りるのに、ついてきているのだ。わたしが歩くと音がする。室内履きのゴムが擦れる音。後ろからも同じ音が、違うリズムで鳴る。
さっき、一組に行って、渚を呼んだのだ。本を読んでいた渚はさっと緊張した顔をして、それから冷たい顔を作った。立ち上がって、わたしの元に来る。一組の生徒はわたしたちのことなど全く気にしていなかった。彼らにとっては以前のようにわたしが来ただけのことだろう。総一郎と岸だけがわたしたちを見ていた。二人とも、驚いてはいなかった。ただわたしたちをじっと見つめていた。わたしは渚を見上げてついてくるように頼んで、二人で歩き出したのだ。
着いたのは、中庭だった。夏に内田のことで集まったことのある場所。大事な話なので、誰にも聞かれたくなかった。
わたしと渚は向き合った。以前より、距離がある。友達の距離ではないな、と思う。
「何の用?」
渚はようやく口を開いた。声ははっきりしていた。視線はしっかりわたしの目に向かっている。
「あの、あのね」
目を見られていることでうろたえてしまった。でも、視線を外してはいけない。誠実に振る舞いたいから。渚は表情を変えない。
「わたし、渚と元に戻りたい」
しばらく口ごもったあと、ようやく言えた。渚のまぶたがぴくっと動いた。
「元の友達に戻りたい」
自分の言葉に安心して、わたしはほっと息をついた。
「渚がわたしにキスしたことは、忘れよう。わたし、怒ってない。あのときは怒ってたけど、もうどうでもいい。わたしは渚と一緒にいたい。親友でいたい」
一気に言って、体に熱があるような安心感があった。渚が口を開いた。
「ありがとう」
表情が変わらないので、一瞬言われたことがわからなかった。それからありがとうと言われたことに気づき、うまく行ったのだと思った。けれど、違った。
「許してくれてありがとう。ずっと悪いことしたって思ってたから。でもさ、あたしの気持ちはどうなるの?」
「え」
「あたしの処理できない歌子への恋愛感情はどうなるの?」
「それは」
「忘れろって? 歌子があたしの行動を流したみたいに? 無理だよ。あたしは気持ちが残ってる。行動に起こしてしまった。越えちゃいけない一線を越えた。その前ならともかく、今は流すことなんてできない。歌子、酷いよ」
渚は唇をぎゅっと結んだ。それからまた、「酷い」と言った。わたしは何も言えなかった。今度はわたしが渚を傷つけたのだと思った。この間、渚がわたしの意志を無視したように、わたしは渚の気持ちを軽んじたのだ。
「感情を押し殺すなんて、できない。どうせだったらあのまま自然に離れたかった。あたしの気持ちが叶わないのはわかってるんだから」
わたしはうろたえ、指先が震えているのを感じた。渚は泣きそうだった。でも泣かなかった。
「あたしは、歌子と元に戻ることなんてできないと思ってる」
そう言い切ると、渚はくるりと背を向け、早足で歩き出した。わたしは呆然としたまま、校舎に入る渚の後ろ姿を見つめていた。
*
とぼとぼと、校舎に入る。しばらく歩いてから立ち尽くした。今度はわたしが渚を傷つけてしまったのだと、頭の中で繰り返した。
「あれ? 町田、どうかしたのか? 具合悪そうだぞ」
声がしたので顔を上げると、田中先生がこちらに向かって来るところだった。田中先生は何も知らない顔で、わたしに近寄った。細いフレームの眼鏡の向こうから、日焼けした顔がわたしを見下ろす。この人のことがきっかけでわたしと渚の仲がこじれたのだということを思い出した。この人のせいだと思った。本当は、田中先生は引き金でしかないのに。
「町田、具合が悪いなら保健室に行けよ」
「大丈夫です」
声が硬かった。田中先生はそれでも気にしない様子で声をかける。
「具合悪いならすぐ言えよ」
「はい」
田中先生と別れ、今度はちゃんと歩いた。田中先生に怒っていたからだ。十歩ほど歩いてから振り向くと、田中先生はまだわたしを見ていた。わたしはその心配そうな目に、意外な気がした。でも、深くは考えずにまた歩き出した。
*
上の空のまま、中間試験を受ける。少し早めに勉強を始めたお陰で、わからないということはないようだ。集中することだけを考えていたいが、時折シャープペンシルの動きがとまる。それから、以前はよく渚が総一郎と成績を競っていたことを思い出す。今回は、どうなのだろう。今度のことで、渚は総一郎と話すことはなくなってしまった。
誰の声もしない教室に、鉛筆を走らせる音と空咳だけが響く。夢があることは、確かだ。でも、夢がわたしを支える力が弱まっているのを感じる。夢だけでは、頑張れない。渚がいないとわたしは無理。でも、わたしは彼女の恋愛感情を「どうでもいい」と言ってしまったようなものだった。もう、修復不能だと感じた。
問題に目を走らせ、最後の問題の回答欄を埋める。同時にチャイムが鳴った。
*
昼食は、美登里や夏子たちに加え、光と食べることが増えた。ちょくちょくわたしに会いに来て、おしゃべりをする。わざわざ隣のクラスからやって来るなんて、本当にわたしのことを好いてくれているんだな、と思う。ひょっとしたら、もう光の言う「一番の親友」になっているのかもしれない。
でも、わたしは光に何も返せていない。わたしから光に会いに行くことは彼女がわたしにそうするときよりは少ないし、わたしからもっと仲良くなりたい意志を示したことはない。友達は、友達だ。けれど、何だか自分の中で物事が整理されていなくて、自分から一歩寄る気分にはなれないのだ。
「部活やめたからさ、体鈍っちゃった」
放課後の教室で、光が腕を伸ばしながら言う。わたしは笑い、
「わたしなんか、最初っから運動してないからいっつもだるいよ」
と答える。
「えー、じゃあ、一緒にジョギングしない?」
「体によさそうだけどねえ、ジョギング。ていうか、家遠いじゃん」
「それぞれ同じ時間にジョギングして、終わったら報告、みたいな感じでさー」
ジョギングするくらいなら、勉強や読書や映画鑑賞に時間を費やしたい、と思ってしまう。教室の窓際の席からは、早くも夕焼け空が見えた。もう、こんな時間。帰らないと、と思う。明日も試験。だから早く帰らないと。でも、光はまだわたしと話したいようだ。
「歌子はさ、一人で何もできないようなふりして、一人で夢を見つけて頑張ってるよね。わたし、何にもない。これから色々見つかるんだろうって予感はあるよ。でもね、何も見つかってない自分に、焦りがあるんだ。だから、きらきらしてる人に惹かれるところがあるんだろうね。何というか、歌子のきらきらにあやかろうとしてる自分を感じる。そういう自分にどうなの? って思うことはある」
わたしは光を見る。彼女にそういう気持ちがあるとは知らなかった。光はいつも通りの涼しげな笑顔だ。さらりと言われたけれど、深いところをさらけ出されたという感じがする。
「多分、だけどね、光」
わたしはふと考えが浮かんだ。
「光は、自分がきらきらしてると気づいたら、わたしのことなんてどうでもよくなると思うよ」
言ってから、どきっとした。けれど、光は笑って、
「そういうときが来るのかねえ」
と立ち上がった。一緒に教室を出て、廊下でばったりと総一郎に遭った。彼も何かの用事で残っていたらしい。
「二人とも、帰り?」
総一郎の言葉に、うなずく。
「少し暗くなったから一緒に帰ろうか。危ないからさ」
「うわー、紳士」
光が茶化すと、総一郎は照れ笑いを浮かべた。
わたしの家の前に来ると、総一郎はわたしに二枚の紙片を渡した。こっそりと、光には見えないようにして。
「これ、何?」
「映画のチケット」
「本当? 一緒に見に行くの?」
「うん。歌子と雨宮がな」
「え?」
わたしは一瞬黙った。それからお礼を言った。
「行けたら、行くよ」
わたしが嘘をつくと、総一郎はにっこり笑って光と一緒にバス停に向かって歩いていった。光は不思議そうな顔で、わたしの手元を見ていた。
チケットを見た。小さな映画館のもので、シンプルなデザインだった。上映映画は、「イヴの総て」。
*
「大変だ!」と男子の声がした。振り向くと、後ろの扉の近くにいるその男子に、教室中が注目していた。
「今度の中間、篠原が一位じゃないらしいぞ」
教室中がざわめいた。わたしも驚いた。総一郎はこれまでまともに勉強せずとも一位で、永遠に主席なのだと思っていた。受験前のこの時期に主席を逃すなんて、大丈夫なのだろうかと心配になる。
「え、じゃあ誰が一位?」
女子の一人が訊いた。男子は、
「雨宮さんだって」
と興奮気味に言った。教室がまたざわざわと揺らぎながら騒がしくなった。わたしは思考停止したまま座っていた。
「渚、一位?」
「すごいね」
美登里と夏子が駆け寄ってきて、わたしに言う。渚は総一郎の成績を越えたがっていた。そのことを思い出す。
おお、とまたざわめきが起きた。見ると、総一郎が教室に入ってきたのだった。秀才組が色々質問をする。総一郎はいい加減な返事をしながらわたしに近づいてくる。
「すごい騒ぎだな」
開口一番、総一郎は言った。自分のことで巻き起こったというのに、何だか他人事だ。
「一回や二回主席じゃなくなったからって、大したことないよ。おれはいつも通りの点数だし。雨宮がすごかっただけ」
「渚が?」
わたしはようやく声を出した。総一郎がうなずく。
「満点ばっかりだってさ。そりゃあそうだよ。雨宮、歌子と喧嘩してから現実逃避みたいに勉強ばかりしてたんだから。雨宮の能力であの勉強量なら、おれが敵うわけないしな」
「現実逃避?」
「うん。いつも文系科目はぶーぶー言いながらやってたくせに、中村先生に質問に行ったり、つまらないって言ってた高校数学も鬼みたいな顔でやっててさ、現実逃避としか言いようが……歌子?」
わたしは泣いていた。涙が次々にこぼれる。渚はわたしのことをまだ頭の片隅に置いてくれている。それが嬉しかった。それがわたしに対する辛い感情だろうと、どうしようもなくありがたい。元に戻れないと言われて、もう駄目だと思っていた。ひょっとしたら本当にもう駄目なのかもしれない。でも、今だけは現実逃避したいくらいわたしのことを考えてくれているのだ。
おめでとうって言いたいな、と思った。主席になりたかった渚を、祝いたい。自分勝手だろうか。自分勝手だろうな。でも、体がもう立ち上がろうとしている。
「篠原ー、町田を泣かせた?」
男子が大きな声を出すと、教室がまたざわついた。総一郎は慌てて否定し、「おれは何にもしてない」と言う。わたしは総一郎のせいではないと説明したいけれど、言葉が出てこない。
「篠原君、何かしたの?」
光が隣のクラスから飛んできてくれたらしく、総一郎を非難する。わたしは首を振って立ち上がり、ぐいっと涙を拭いた。
「大丈夫。わたし、ちょっと行ってくるね」
ぽかんとしている光や総一郎を置いて、わたしは廊下に出た。田中先生と会った。田中先生はわたしに、
「教室が騒がしいな。何かあったのか?」
と訊いた。いつも通りの呑気な先生。わたしは首を振り、一組に向かう。途中の階段を見ると、渚がいた。珍しく、気の抜けた顔をしている。「渚!」と呼ぶ。渚は顔を上げた。それからそのままの顔でわたしを見た。
「わたし、本当にこの間酷いことをした。本当に、ごめん。許してほしいなんて、虫がいいと思う。でも、わたしは渚と友達でいたい。本当に、そう思う」
渚は階段を上がりきり、わたしを見下ろす。その目は、どこか澄み切っていて、わたしは以前何度も思ったように、渚を美しいと思った。
「これ、映画のチケット。来たくなかったら来なくていい。ただ、もらって」
わたしが差し出したチケットを、渚は受け取った。わたしはそれを突っ返される前にくるりと向きを変え、走り出す。少し行ってから、渚を見る。彼女はわたしを見ていた。その目は、透明に思えるくらい滑らかに輝いていた。