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蜂蜜製造機弐号  作者: 酒田青
高校三年生 二学期
131/156

 渚のことは考えないように毎日を過ごしている。考えないでいると、わたしの生活の多くの部分が空白になってしまうのだけれど。空白に目をつぶり、気づかないふりをし、何か新しいものを求めて外の世界を見る。でも、新しいものなんてない。生活は続いているし、受験勉強もしなくてはいけないし、身の回りに変化はないのだ。

 わたしが新しくなればいい。そう考えても、わたし自身が新しくなるには過去に囚われすぎているし、気力が足りない。どうしてこんなに囚われてしまうのだろう。そう考えて、堂々巡りになるのが嫌になってやめる。

 そればかりを繰り返していた。


     *


「歌子。お疲れ」

 総一郎と岸が教室に入り、真っ直ぐにわたしの元にやってきた。わたしは微笑む。文化祭が始まっていた。うちのクラスのカフェは、ちょうどいい休憩場所として盛況だ。限られた予算内で、子供の誕生会みたいな飾りつけをしてどうにか楽しげな雰囲気を作り、出来合いのお菓子を配ったり、お茶を提供したりしていた。わたしはカフェにずっといて、注文のお茶を忙しく作っていた。

 総一郎は菊花茶を注文した。岸はハーブティー。

 菊花茶を作るため、乾燥した花をカップに入れてポットからお湯を注ぐ。ゆっくりと菊の花が開いていく。じっとそれを見つめながら、ぼんやりしていた。

「おー、本当に菊の花だな」

 総一郎がすぐ後ろから声をかけてきて、びっくりする。慌ててカップを差し出すと、総一郎がちびりと飲んで、複雑そうにうなる。そういえば蜂蜜を入れていなかった、と気づき、総一郎が持っているカップに蜂蜜のチューブの蓋を開けて注ぎ、マドラーを渡した。

「町田ー、ここの店はサービスがなってないぞ」

 岸がからかおうとする。わたしは愛想笑いを返し、総一郎に味を訊く。「面白い味」と総一郎は笑う。こういう謎めいたお茶が何だか彼に似合っていて、わたしは笑ってしまう。

 岸が美登里からハーブティーを渡され、ぐいっと飲んだ。その瞬間、「うわっ」と顔をしかめる。どうやら独特の味が合わなかったらしい。

 総一郎と岸は最後までお茶を飲みながらわたしと話をした。楽しそうなことばかり言ってくれた。わたしは笑うだけでよかった。気を遣わせてばかりで申し訳ない気持ちもあったけれど、気が紛れたので助かった。しばらく話してから、二人は「またな」といなくなった。

「歌子」

 女の子の声がして、どきっとして振り向く。光だった。わたしはどぎまぎしながら笑う。

「盛況だねー」

 光は周りを見渡して、わたしに話しかけた。わたしも笑顔で答える。

「下級生は怖がってほとんど来てくれないけどね」

「だって三階だもん。三年生のテリトリーだから来にくいよ」

「まあね」

「ドリップコーヒーください」

 光が笑って注文してくれた。わたしはなかなか注文の入らなかったコーヒーのパックを取り出して、カップにセットしてお湯を注いだ。

「ミルクと砂糖は?」

「いらない。わたしはブラック派だから」

「すごいね」

 わたしなど、コーヒー自体飲めない。カップを渡すと、光は両手で包むように持ってぐいっと飲んだ。そのまま飲み干し、ぷはっと息をついた。

「うわ、ますます暑い」

 光の言葉にわたしは笑う。今は残暑が厳しい九月の初旬。熱いコーヒーには向かない季節だ。

「でもすごいね。コーヒー飲めるなんて」

 わたしが言うと、光はあははと笑う。

「コーヒーくらい普通だよ。受験勉強にぴったりだから、飲んで勉強するの。頭が冴えるからいいよ」

「わたしは味が駄目だから飲めないな」

 光は大人だなあ、と子供じみた感想を抱く。それから一つ思い出し、光に笑いかける。

「あ、また遊びに来てよ。お母さんが光ちゃんはどうしてるのって時々訊くんだよ」

「え、本当?」

 光は顔を輝かせた。本当は、「渚ちゃんはどうしてるの」のほうがよく訊かれるのだけれど。わたしはそれを振り払い、にこにこ笑ってみせた。

 光は文化祭で一緒に回る友達としてわたしを選んでくれたらしい。交代要員が来たので、わたしは光と一緒に教室を出た。

「今年の劇、面白かったね」

 わたしが言うと、光は考え深げにうなった。

「去年のほうが面白かったよ」

「そう?」

「去年の劇、レベル高かったもん。わたしはあの日を『歌子を発見した日』として記憶してるくらい印象的だったし」

「発見?」

 わたしは笑って訊いた。光は廊下をすたすた歩きながら大きくうなずいた。

「あの子はこんな子だったんだ、って思った。一番すごかった。友達になりたいって思った」

「そうなんだ」

 わたしはにこにこ笑う。わたしが今目標にしていることと、去年の劇は強く繋がっている。あのときのことを褒められると、とても嬉しくなる。

「進路は演劇と関係あるんだって?」

「うん」

「すごいね。わたしはまだ何も決まってないのにさ」

「光は選択肢が多いからいいじゃん。わたしは目標があるだけ」

「ううん。歌子は才能があるんだよ。羨ましい」

 光は大袈裟なほどに感動してくれていた。わたしは彼女のことがますます好きになった。わたしのことをこんなに褒めてくれる人はいないからだ。

 光といると楽しいな、と思う。もっと仲良くなりたいな、とも。渚の顔がちらつく。渚との関係を断ったばかりなのに光とこれほどに接近しているのは、自分に誠実な理由があってのことなのだろうか、とも思う。

 けれど、わたしは渚のことを考えていたくないので、気づかないふりをした。


     *


 翌日の体育祭は、例年通りテントの陰で応援をしていた。美登里や夏子とも一緒だ。

「歌子、たまには日差しを浴びろよ。不健康だし、空気読めてないぞ」

 拓人がやって来て、呆れたように言う。わたしはぷい、と顔を逸らし、

「やだ。暑いもん。焼けるもん。やる気もないしさ」

 と答えた。拓人は頭を振り振り離れていった。わたしは総一郎が走るときに備え、プログラムの用紙だけはしっかり持っていた。それをじっと見つめていると、今度は美登里に呆れられた。

「歌子は本当にわが道を生きているねえ」

「いいんだよ、歌子はこれで」

 夏子が何かの戯曲を文庫本で読みながら美登里に言う。美登里はそれにも呆れながら、

「渚、来ないねえ」

 と言う。わたしはどきりとする。

「喧嘩、長引いてるね。何があったの? わたしたちも知りたいと思ってるんだよ」

 わたしは顔を上げ、美登里を見る。心配そうにわたしを見つめていた。夏子も、眼鏡の向こうから黙ってこちらを見る。

「渚はあれからずっと一人。歌子が関係してるところには全然来ないもんね」

 確かに、渚は総一郎たちとも関わらなくなっていた。

「友人関係は歌子にぜーんぶ譲って、自分は一人なんだよ。わたしが話しかけても愛想笑いしてどっか行っちゃう。歌子、わたしは二人とも友達だと思ってる。だからお願い、本当のことを」

「駄目、教えられない」

 わたしは遮るように鋭く答えた。美登里は黙り、地面を見つめる。夏子が文庫本を閉じ、わたしたちに声をかけた。

「わたしたち、渚と友達だもんね。心配なのは確か。でもさ、美登里。ちょっと待ってみようよ。わたしたちは黙ってよう」

 わたしは苛立ちながらも美登里や夏子に対して申し訳ない気持ちでいた。それから渚が以前一人でばかりいたことを思い出し、胸が痛む。

 でも、わたしじゃなくてもいいじゃないか。わたしが去ったからといって、渚はまた一人になる必要なんてない。

 そう考えて、頭の中がぐちゃぐちゃになる。わたしの表情を見て、何かを続けようとした美登里が口をつぐんだ。

 次の競技が始まっていた。女子二百メートル走だった。わたしは運良く参加せずに済んでいた。ぼんやりと競技を見つめる。

「あ」

 夏子がつぶやく。視線の先を見ると、渚が最前列にいた。真顔で立ち、手足や首を回している。わたしは思わず見入った。

 「用意」でクラウチングスタートのポーズを取る。スターターが鳴った。渚は走り出した。低い姿勢からどんどん上半身を上げていき、完璧なフォームで走り抜ける。この間まで走っていた元運動部の生徒たちををどんどん追い抜き、彼女は一位でゴールした。ゴールをしても、笑顔はない。

 中学時代は陸上部だったんだと聞いたとき、彼女にふさわしくて素敵だと思ったのを覚えている。そのあとに人間関係で辞めたことを教えられ、悲しかったのも覚えている。

 わたしはぼんやりとしたまま、プログラムを見つめた。美登里も夏子も話しかけてこない。

「はー。疲れた」

 前を誰かが通り、わたしの横に座った。

「ここ、涼しくていいね。わたしもいようっと」

 光が笑っていて、わたしは少しだけつられて笑った。

「わたしが走ったの、見た?」

「ごめん、見てなかった」

 わたしが答えると、光はちょっと寂しそうな表情になり、それからまた笑った。

「わたし、二位だったもんね。あんまり目立てなかったかも。雨宮さん、わたしより順番早かったけど、一位だったね。すごい」

 わたしは愛想笑いをする。それを見て、光は黙って笑う。

「あのね、今チャンスだと思ってるんだ」

「……チャンス?」

「歌子の一番の親友になるチャンス」

 わたしはびっくりして光を見た。彼女はにっこり笑い、立ち上がる。

「わたしは歌子の一番の親友になりたい」

 彼女は歯を見せて笑った。明るくて元気な彼女。わたしを褒めてくれるし、わたしは彼女といると楽しい。

 わたしは微笑んだ。光も笑って自分のクラスのほうに走っていった。多分照れくさかったのだ。

 美登里と夏子が顔を見合わせていた。わたしは見なかったふりをして、運動場に視線を運んだ。

 これでいい、と思う。多分、だけど。

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