友情
どう見ても、大丈夫ではなかった。渚はあれから毎日元気がなかった。目標があってやっていたはずの勉強も身が入っていないようだ。総一郎が「雨宮の様子が変だ」というくらいだから、わたし以外の人にもわかるほど彼女は消耗しているようだ。
「渚、家に来ない? 今日は勉強はなしで、話だけしようよ」
田中先生のことは言葉にしなかった。渚は寝ていないような疲れ切った顔で、うなずいた。
家に続く道を歩きながら、わたしたちは無言だった。あれから渚はとても無口になっていた。親友がこんなに傷ついているのに、劇的に元気にする術を知らない自分を恨めしく思う。下手に励ますよりもましだと思って、一緒に黙っている。ちゃり、と手首のブレスレットが鳴った。渚がくれた、友情の証。ラピスラズリのブレスレットは金色の粒が光って、渚はわたしのようだと言っていたけれどわたしは渚のようだと思っていた。深い青の、星空のようなきれいな石。
わたしの部屋に着いても渚は無言だった。学校では総一郎たちに気を遣って一言二言くらいは答えていたけれど、事情を知っているわたしの前では気が抜けてしまうらしい。テーブルを挟み、わたしたちはただ黙っていた。
しばらくして、わたしはふと思いついて立ち上がった。
「喉乾いたでしょ。麦茶持ってくるね」
「いい。ここにいて」
渚はわたしではないほうを向いてそう言った。小さな、でもきっぱりした声だった。
「駄目だね、あたし。弱い。自分がこんなに弱いと思ってなかった」
渚はそのまま視線を窓に向けてかすかに笑った。
「これがいつまで続くのかなって思う。一生かな。だとしたら辛いな。雪枝さんみたいに好きな人の幸せを望むなんて無理だし。早く別れろって思っちゃう」
わたしは黙り、渚の隣に座り直した。
「田中のことなんて好きにならなきゃよかった。どうせ彼女がいるんならさ、もっと冷たくしてくれたらよかったのに」
「渚。わたしは渚のために何かしたい。何か、できることある?」
辛そうに顔を歪める渚を見ていられなくて、わたしは彼女から目を逸らしながら訊いた。もう一度顔を上げると、渚はわたしをじっと見つめていた。視線を動かさず、わたしのたましいを透かし見るような目だった。
「本当にそう思ってくれるんだ。嬉しい」
渚が微笑んだ。わたしは嬉しくなって笑った。
「前にあたしが言ったこと、覚えてる?」
渚はわたしの顔に手を伸ばし、触れる。いつもと違う様子と熱いてのひらに驚き、わたしは彼女を見つめ返す。
「あたしは今でも歌子のこと好きだよ」
頭を引き寄せられて口を塞がれた。柔らかい渚の唇がわたしの唇を食むように愛撫する。わたしは頭が真っ白になり、一瞬動けなかった。でも、渚が顔を離してわたしを見た瞬間、いけない、と思った。渚がわたしを見つめるその目は、いつもと全く違っていた。熱っぽくて、泣きそうに潤んでいた。腰を抱かれ、渚が体ごとわたしに近づく。わたしは思わず目の前の渚を突き飛ばしていた。
ベッドにぶつかり、渚は顔を歪めて黙っていた。わたしは息を荒くし、親友だった人を見ていた。彼女はわたしを見なかった。突然立ち上がり、鞄を持ち、歩き出した。わたしは呼びとめなかった。部屋を出た彼女が立てる階段を降りる音を、何も考えられずに聞いていた。
その日から、ブレスレットはつけなくなった。
*
「渚、最近来ないねー」
美登里がふと言った言葉に、ずきんと心が痛んだ。教室で、珍しい中国茶を出すとしたらどんなものにするかで盛り上がっていた。わたしは言葉少なで、それに気づいた美登里がさりげなく探ってきたのだ。
「喧嘩した?」
夏子が気遣わしげに訊く。わたしは何でもないような顔を作ってうなずいた。
「すぐ仲直りできるから大丈夫だよ。仲いいもんねー」
わたしは微笑み、うなずいた。でも、本当のことを言うとわたしの中は空っぽだった。何も考えられなかった。友情が戻るとは思えない。彼女は決定的なことをしたのだ。
「歌子ー」
誰かがわたしを呼び、思わず顔を上げる。光が笑って立っていた。髪を切ったばかりらしく、ボブショートがベリーショートになって涼しそうだった。
「髪切ったんだー。似合う?」
「うん」
「何? 元気なさそう」
「ちょっとね」
「雨宮さんと喧嘩した?」
「……」
「やっぱり。元気出してね。あ、今日は一緒に帰ろうよ。この間面白いことがあってさー、誰かしらに話したいんだ」
彼女の明るい笑顔に、わたしはようやく少し笑うことができた。それからうなずき、一緒に帰る約束をした。
光と帰る道は新鮮で、少し気が紛れた。彼女はとてもいい子だった。優しくて、わたしともっと仲良くなりたいと思ってくれている。そして、わたしに特別な感情を抱いたりしない。
「じゃあね、また来週」
光が手を挙げる。わたしは笑って手を振って、別れた。
*
始業式が来て、夏休み中変わらず会い続けたクラスメイトたちと一緒に体育館へ向かった。渚を見かけた。わたしは一瞬立ちどまり、彼女を見つめてしまった。彼女はそれに気づき、悲しそうに唇を噛んで足早に歩き出した。
「どうしたんだよ」
いつの間にか総一郎が隣にいて、心配そうに訊く。
「あんなに仲良かったのにさ、ずっとしゃべってないじゃないか」
「うん……」
岸が総一郎の隣を歩く。何となく事情を察しているような様子で、黙ったままわたしを見ている。総一郎は、笑ってわたしの肩を叩く。
「仲直りできるといいな」
わたしは微笑み、うなずいた。
始業式の間中、この間のことを思い出していた。わたしはざわざわと、嫌な感情が体中を駆け回っているのを感じていた。
時間が経つにつれ、あのときから自分の中にある感情がどんなものか、わかるようになってきた。わたしは渚と恋人になりたいと思っていない。親友でいたかったのだ。ずっと、一番大切な友達でいてほしかった。それを、渚が壊した。わたしは、裏切られたと思っていた。わたしは怒っていた。悲しくもあった。
始業式を終え、美登里たちと一緒に歩きながらもいらいらしていた。笑みを浮かべ、おしゃべりをしながら、わたしは怒りに身を任せていた。
「歌子、おはよう!」
光が来た。いつものように爽やかに笑っている。彼女は夏の暑い日に吹く涼しい風のような人だ。わたしは少し心が和んだ。
「今日から九月だけどさ、信じられないくらい暑くない? 体育祭、大変なんじゃないかな」
「わたし、それだけで憂鬱。ただでさえ運動苦手なのにさー」
わたしが答えると、光は大きな声で笑った。
「特訓してあげようか?」
「いい! これ以上やること増やしたらパンクしちゃう」
わたしは笑って答える。光は白い歯を見せ、楽しげにうなずいた。それから「あ」とつぶやく。光が見ている方向を見ると、渚が歩いていた。そのまま渚はわたしの横を無表情に通り抜け、自分のクラスの方向に歩いていった。
「ありゃりゃ、本当に喧嘩したんだね」
光の言葉に、わたしは黙った。彼女はわたしに近寄り、
「だーいじょうぶ、元気出せ!」
と明るく言った。大丈夫だなんて言えなかったけれど、わたしは笑った。