総一郎の誕生日と田中先生
「誕生日おめでとう」
「ありがとう」
総一郎は微笑んだ。ビルの一階に入っているアイスクリーム屋の二人掛けの席に、向かい合って座っていた。わたしはうきうきと楽しい気分だ。渚のことばかり考えていたこの数日だが、総一郎の誕生日に二人きりで過ごすというのは格別の楽しさで、この気分を渚に分けてあげたいと思うくらいだ。余計なお世話だろうけれど。
「十八歳だね」
わたしが言うと、総一郎はうなずいた。
「ほとんど大人じゃん。いいな」
「大人じゃないよ、全然。なりたいとは思うけど」
総一郎は笑って答えた。あとひと月余りでわたしも十八歳になる。先に十八歳になった同級生のことを考えると、まだまだわたしは幼いな、と思う。同級生たちは大人びていて、高校に入ったばかりのころのような無邪気さがなくなっているように感じていた。わたしもそうなるのかな、それともわたしだけそのままなのかな、と考え、総一郎に訊いてみる。彼は笑って答えた。
「どうなんだろうな。かなり変わった気もするし、全然変わってない気もするし。でも相変わらず歌子は無邪気だよ」
それは大人になっていないということだろうか。考え込み、次の瞬間にはどうでもよくなって総一郎に笑いかけていた。
「今から家に行ってもいい?」
「え」
総一郎の表情が固まる。
「いつかご飯ふるまってくれるって言ったでしょ。ずっと楽しみにしてるんだ。今日行ってもいい?」
「駄目」
素早い総一郎の言葉に、わたしはびっくりして身を乗り出す。
「えっ、何で何で?」
「今日、父さんも優二もいないから」
「いいじゃん。わたし、総一郎の家に行きたいな。どういう部屋なのか見たい」
「うーん」
総一郎はしばし腕を組んでうなっていた。それから真っ直ぐわたしを見つめ、
「やっぱり駄目」
と答えた。わたしはがっかりして肩を落とす。
「岸とか雨宮が一緒ならいいよ」
総一郎がなだめるように笑う。わたしは唇を尖らせて、
「それもいいけど、二人きりのほうがもっといいな」
とテーブルの上を見つめた。総一郎はもう一度うなった。でも、答えは一緒だった。
「駄目。二人きりなんて駄目だ」
「何それ。それって保護者が言う台詞だよ。総一郎は当事者でしょー?」
「当事者だからこそまずい事態を避けたいというか」
「まずい事態って何? 家に行くだけでしょ? そりゃあ、もしかしたらそういう関係になっちゃうかもしれないけど、わたしは平気だよ」
「歌子がそういう覚悟なら、ますます駄目だ」
「何それ。総一郎真面目すぎ」
そう言ってテーブルの上に両ひじをついて彼を見つめると、総一郎は頭を抱えていた。どうやらよほど悩ましい問題らしい。
「歌子」
「何?」
「おれはこの間言ったように歌子に暗い感情を持ってる。欲望、というか」
「うん」
「おれはそういうの、露呈したくない」
「いいよ。何でも受けとめるよ」
「歌子」
「んー?」
「いつかでいい?」
わたしはじっと彼を見つめた。総一郎は焦って余裕のない顔をしていて、何だか可哀想になってしまった。
「いいよ。いつか、総一郎の家に行く、と。そして、いつか、そういう関係になる、と」
「そういうの、アイスクリーム屋の店内なんかで言わないでほしいな……」
「約束を言葉に出して確認してるの。いい?」
総一郎は叱られた子犬のようになってうなずいた。わたしはおかしくなって笑う。総一郎はそれを見てちょっと笑う。
わたしは総一郎と次の段階に行きたかった。家に行ったり、二人きりで抱き合ったりしたかった。その気持ちは、焦燥、と呼んでもいいくらいだ。わたしの体はますます女性的に変化し、総一郎のことはますます好きになっていく。「愛してる」という言葉を聞いてから、それはどんどん強くなっていく。
でも、彼の愛はわたしを守ることに多くを費やされているようだ。彼自身からの破壊もそれに含まれているようで、キスをするときでさえ彼は自分を抑えている。いいのにな、総一郎なら、と思う。でも、そう言葉に出すと何だかあっけらかんと響いてしまい、わたしの気持ちはうまく通じない。
アイスクリーム屋は、とても涼しい。大きな窓ガラス越しに光が注がれ、街を行く人々の様子をのんびりと眺めることができる。総一郎はようやく安心したようで、窓の外を見つめている。彼の横顔が好きだ。高い鼻梁も、一重まぶたの鋭い目も、引き締まった口元も。二年ほど前はたくさんいる男子の一人でしかなかったのに、こんなに好きになるなんて不思議だと思う。
「総一郎、お店出たらキスしようか」
わたしが冗談半分で言うと、総一郎は振り向き、少し顔を赤らめ、
「うん」
とうなずいた。誕生日だからか、誤魔化したりする気はないようだ。
わたしが抱く、総一郎への気持ちについて渚に相談したいな、と思っていた。でも、渚には恋愛の相談をあまりしたことがないのだった。どうしてなのか、わかっている。それに、今の渚にはそんな余裕はなさそうだ。
わたしと総一郎は立ち上がって店を出た。腕に腕を絡ませると、彼は初めてそうされたかのように体を強ばらせた。
*
うちのクラスはカフェをすることになっているので、文化祭の準備は去年よりは簡単だ。夏子は受験からの逃避でまた劇をやりたいなんて言っているけれど。
週に二、三回、夏期講習のあとにクラス全員で集まる。それから話し合いをする。出すのは出来合いのお菓子と、その場で簡単に出せる飲み物だ。それらを決めたらあとは飾りつけ。教室を利用するけれど、どのように飾るかはまだ決まっていない。学校から出る費用も限られているから、あんまり派手なことはできない。わたしは飲み物担当にされていて、美登里や夏子や他の飲み物担当のクラスメイトとまとまって、ああでもないこうでもないとやり取りをしている。メンバーの一人の、家にエスプレッソマシンがあるという言葉で、コーヒーが出ることに決まった。あとは緑茶や紅茶やハーブティーや、変わったお茶を出そうと言い合う。
そこに、光がやってきた。
「歌子、聞いた?」
彼女は少し興奮していた。わたしは何だか不安になって尋ねる。
「何が?」
「田中先生、一昨日結婚式を挙げたらしいよ!」
「まじで?」
声を上げたのは別のグループの中にいた拓人だった。それから一気にクラス中にその言葉が伝わっていく。夏子と美登里もこの間の噂が本当だったことで互いを見て驚き合い、クラス全体が騒ぎ出した。皆、田中先生を祝福していた。素直にそうできないのはわたしだけだった。
「お前ら、何騒いでるんだ」
田中先生が叱りに来たけれど、クラスメイトたちはお構いなしに先生に駆け寄って結婚式のことを訊く。誰と結婚したんですか? どんな結婚式だったんですか? と矢継ぎ早に訊かれ、先生は面倒くさそうな顔を作って、でも嬉しそうに短く答えた。結婚した相手は、昔からつき合っていた人らしい。幸せそうに笑う先生を見て、わたしは焦りの気持ちを抱いて教室を見渡していた。大丈夫だ。大丈夫。そう思っていたけれど、後ろの扉が開いたところに、渚はいた。体中が凍りついた気がした。彼女は無表情のまま、さっと身を翻して歩き出した。わたしは慌てて追いかける。
「渚」
階段の前の、理系クラスと文系クラスの間の廊下でわたしは渚を捕まえた。渚はわたしに手を握られ、立ちどまった。黙ったまま、彼女は立ち尽くしていた。それから、しゃくりあげて泣き始めた。
それから、わたしは渚を連れて歩き出した。人気のない場所を探して歩き、科学室のある棟の裏手に来て、ようやく渚は泣きやんだ。
「ありがとう。もう大丈夫」
そう言ったけれど、渚は虚ろな泣き腫らした目で遠くを見ていた。




