田中先生の噂
「田中先生がもうすぐ結婚するとかいう噂、本当かな」
美登里の言葉に驚いて、シャープペンシルを取り落としてしまった。机の上から拾いながら、渚の顔を思い浮かべる。嬉しそうな顔で彼への気持ちをわたしに言った、渚。彼女は知っているのだろうか。
「噂でしょー? 美登里、間違いだったら田中先生に怒られるよ。気をつけなきゃ」
夏子が注意すると、美登里は口についたファスナーを勢いよく閉じる仕草をした。わたしたちは笑う。
でも、本当だったらどうすればいいのだろう。わたしは渚のことで頭が一杯になってしまった。そこに突然声が降ってきた。
「どーも。楽しそうだねえ」
ぎょっとして振り向くと、本物の渚が少し元気のなさそうな顔で立っていた。
「あ、渚」
わたしが挨拶代わりにてのひらで渚の片手にタッチすると、彼女はにこっと笑ってわたしの肩を軽く叩いた。どういう意味が込められているのだろう。わたしには「安心して」という意味に思えた。
「まだ田中いないんだね」
渚が教壇を見る。わたしはどきっとして口を開く。さっきの話題に繋げないように何か言おうとしたのだが、何も思いつかない。
「あ、渚は知ってる? 田中先生が……」
美登里が言いかけた。しかしすぐに夏子が「お口にチャック!」と指さしたので、美登里はまたさっきと同じ仕草をして黙った。渚が笑って、
「何? 何?」
と訊く。わたしはすかさず話に入る。
「最近の夏子と美登里の流行なんだよ。美登里が何か言いすぎたら、夏子が『お口にチャック』って注意して、こうするんだ。もうお約束になっちゃって、わたし笑っちゃうよ」
「馬鹿なことやってるねえ。まあ、元気で何より」
渚が変なまとめ方をしたので、わたしたちは笑ってしまった。渚も笑う。窓際の席で、カーテンが風で揺れてわたしの腕に触れてくすぐったい。
夕方になったら雪枝さんの家に行こう、とわたしは渚に言った。夏子たちが二人の話題で盛り上がっているのを横目に、渚は微笑んだ。
*
雪枝さんは一次試験を終えていた。筆記試験が主で、雪枝さんは散々勉強していたからわたしは大丈夫だろうと思っていた。受かったら二次試験で、面接がある。雪枝さんならきっと受かるだろう。
ドアを開いた瞬間、疲れた顔がそこにあった。一次試験から時間が経ったとはいえ、不安で仕方がないのだろう。雪枝さんはぱっと笑ってわたしたちを家に入れた。軽くエアコンが入っていて、わたしと渚は人心地ついた。中にわたしたちを案内しながら、雪枝さんが訊く。
「いやー、久しぶりだねー。元気してた?」
「うん。色々あったけど大丈夫だよ」
わたしは笑った。渚が呆れたようにわたしを見るので、雪枝さんが麦茶をガラスのコップに注ぎながらわたしを見た。
「言っちゃいな、その色々を! わたしは歌子の色々を聞くのが昔っから大好きだよ」
冷たいコップが配られて、わたしと渚は勢いよく中身を飲んだ。ほてった体の芯が冷えて、気持ちいい。雪枝さんが興味津々の顔で待ちかまえている。わたしは口を開いた。
「他校の男子にストーカーされたり、本当に色々あった」
「えっ、ストーカー?」
「でも解決したよ、何とか」
「ええー……。置き去りだなあ、わたし。まあ、解決してよかった。W大を目指す話はメールとかで聞いてたけど、お父さんは今どんな感じ?」
わたしは首を振る。
「未だに仲直りできてない。ぎくしゃくしてる。反対なんだね、まだ」
「そっかあ。辛いね」
わたしはため息をついた。家の中が何だか居づらいので、確かに辛いものがあるのだ。父は相変わらず機嫌よく帰ってくるし、わたしと挨拶を交わしたりするけれど、頑なにわたしを地元のS大に入れる気でいるし、W大についての話などなかったことにされている。わたしはそんな父とうまくやりとりできなくて、家にいるときは自分の部屋にこもってばかりいるのだ。
「でも、頑張るよ。勉強だってちゃんとやってるし。受験のころには何とかする」
雪枝さんはわたしの腕をぽんぽんと叩いた。それから渚のほうを見た。渚はずっと黙っていたのだ。
「渚も元気ないね。どうした?」
渚は顔を上げ、雪枝さんの顔を見た。
「雪枝さんは、好きな人が結婚しちゃったことってある?」
あ、と思った。渚は知っていたのだ。田中先生の噂を。雪枝さんは驚いた顔をし、うーん、とうなった。
「まあ、ある。元恋人とか、初恋の人とか、好きだっただけの人とか。三十二歳にもなればたくさんあるよ」
「辛かった?」
「一番辛かったのは、好きだっただけの人。自分は何にもせず、思いも伝えず、何の結果も生み出せないままだったせいだと思うけど、すごく悔しくて辛かった。でも、今はどってことないよ」
「どうして今はどうってことないの?」
「好きな人が幸せになるようにって、前向きな気持ちになることにしたの。そしたら怨念みたいになりかけてた気持ちがすっきりした。その人への思いも成仏して、今ではその人の顔も思い出せないくらい」
「幸せに……? そんなことできるの?」
「まあ、苦労するけど時間が経てばできるよ」
雪枝さんは微笑んだ。渚はぼんやりと彼女を見つめ、こっくりとうなずいた。わたしはそんな渚を見ていた。彼女の顔は、一つの思いに取り憑かれているように見えた。
ひとしきり話をしてから、わたしと渚は雪枝さんの家を出た。わたしたちは黙ってわたしの家に続く道を歩く。商店街に出て、わたしたちは夕暮れのにぎやかな通りをゆっくりと歩く。
「田中先生のこと?」
わたしが言うと、渚はうなずいた。
「噂、知ってたんだ」
「噂は、関係ないよ」
「じゃあ、何?」
「この間、呼び出されたでしょ? 期待してたんだ。わざと課題忘れて、二人きりで話す機会を作ったんだ。そしたら田中、指輪してた。左手の薬指に、してた。普通に話して、普通に別れた。呆然として、それからずっとぼんやりしてるんだ、あたし」
そうだったのか。全く気づかずに、自分の問題にばかり目が向いていた。渚のことをもっと気にかけるべきだった。彼女が言う前から気づくべきだった。唇を噛んで、わたしは彼女を見る。
「好き、なんだよね」
「うん。……好きなんだ」
わたしの目の前で、渚は涙をふた筋流した。はっとして、わたしは慌てて渚の手を掴んだ。渚も握り返す。横顔の渚は、涙を流し続ける。腕で目元を拭き、のどをひくつかせる。
わたしにできたのは、彼女の横で、彼女の手を握り、黙って歩くことだけだった。