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蜂蜜製造機弐号  作者: 酒田青
高校三年生 一学期
127/156

総一郎と内田

 それは、突然だった。

 夕方、母に頼まれて庭の草木に水を遣っていた。夏の盛りで何もかも乾き、赤煉瓦で囲まれた花壇の土ですら白く固まっていた。生ぬるい水を大きなプラスチックのじょうろで撒くと、植物がほっとしたように見えて何となく嬉しかった。少しうなだれている花や新芽が目立ったが、数分もすれば元気になるだろう。そんなことを思っていたときだった。

「歌子さん」

 ぞくっとした。後ろから聞こえた男の声。それも、若い。ずっと警戒していたものだ。だから庭の外には一人で出ないようにしていた。学校に行くときは本当に気を遣って、一緒に夏期講習を受ける岸に道の角で待っていてもらうくらいだった。家に帰るときも渚や総一郎に送ってもらったし、万全とまでは思わないが、どこか大丈夫だと思っていた。家の敷地内にいれば安全だと信じていたのだ。

 振り返ると内田が柵に寄りかかって笑っていた。本当に自分がおかしなことをしている実感はないようだった。恋人として会いに来たみたいに、当たり前のような態度をしていた。柵は内田のすぐそばで終わっている。父が乗る車をサンルーフの下に入れるために、うちの庭の柵は完全ではないのだ。

「……どうしてここにいるの」

 母は出かけていた。家には誰もいない。家は暑さのために開け放っている。家の中に逃げても意味はなさそうだ。敷地の中で一番近い道路への出口には内田がいるし、何かされそうになったら叫ぶしかないらしい。幸いここは住宅街だし、叫びさえすれば誰か助けに来てくれるだろう。多分、拓人も家にいるから大丈夫。

 そう算段をしていると、内田はにやっと笑った。

「逃げることばっかり考えてるだろ」

 わたしはぎくりとする。

「おれは篠原より強いんだよ。篠原からあんたを奪い取るのは簡単だし、あんたもおれを好きになるよ」

「それは絶対ない。わたしは総一郎のことが本当に好きだし、あなたのことは嫌いだから」

 内田が顔をひくっとひきつらせた。

「んなことはないだろ? あんただって強い男の方が好きだろ?」

「剣道の強さなんて関係ない。わたしはずっと総一郎のことが好きだし、これからもずっと好き。もう、理屈なんて関係ないくらいなの。あなたにはわからないだろうけど」

「そういうのさあ、やめない? おれはあんたに正直になってもらいたいなあ」

 気持ちが通じないのは本当にもどかしい。この男は人間が皆そういう風だと思っているのだろう。こんなに通じ合わないのなら恋人になるのも無理だと思うのに、内田にはまったくわからないらしい。

「何でわたしにつきまとうの? わたし、あなたに何かしたの?」

 逃げるルートをまた考えながら訊く。時間を稼ごうと思って。内田は笑った。

「彼女と別れたんだ。そんなときにあんたを見つけた。三月の剣道の大会のときだった。一目惚れした。それだけだよ」

 随分簡単なんだな、と思う。女の子なんて自分が求めれば簡単に手に入ると思っている人間なんだとしか思わない。

「じゃあ、総一郎を嫌うのは? あなた、どうして総一郎を馬鹿にしたり喧嘩売ったりするの?」

 わたしがそう訊いた途端、内田の顔色が変わった。目がつり上がり、口元に力が入る。

「あいつは嘘つきだ」

 嘘つき? わたしはじりじりと後退しながら内田の目を見続ける。

「おれとの約束を破った!」

「約束?」

「中学の卒業式のとき、篠原に挨拶に行った。ずっと尊敬してたから、最後に話したかった。『高校に行っても剣道を頑張ってください』って言ったら、笑ってうなずいて『お前も頑張れよ』って言った。『試合できたらいいですね』って言ったら、うなずいた。なのに、あいつ、高校に入ったら剣道を辞めた。それどころか約束通り頑張って強くなったおれを、覚えてなかった。おれはあいつが嫌いだ。おれは約束を守ったのにあいつは破ったんだ。だから……」

 そこまで言ったところで内田は黙った。しゃべりすぎたと思ったらしい。わたしは空になったじょうろを地面に置き、声に力が宿るように祈りながらこう言い放った。

「早く帰って。でないと叫んで誰か呼ぶから」

 内田はたじろいだ。柵から体を離して周りを見渡す。

「警察沙汰になって剣道を続けられなくなっても困るでしょ。帰って」

 内田は戸惑ったようにわたしを見て、舌打ちをした。そして、大股で道を歩きだした。内田が視界から消えるのを待ち、わたしは一番近い大きな窓から家に飛び込み、家中の窓を閉めて鍵をかけた。体が震えていた。でも、どこか冷静だった。携帯電話を居間のテーブルから手に取り、電話をかける。相手はすぐに出た。

「総一郎? 内田、家に来たよ。……大丈夫。話したいことがあるから、明日会って」

 心配する総一郎としばらく話してから、電話を切った。それからやっと体から力が抜け、ソファーに倒れ込んだ。


     *


 次の日、総一郎はいつもより早い時間に学校に来た。顔色が悪い。わたしのことで心配をかけすぎたかもしれない。岸と渚もやってきて、一緒に学校の中庭に向かった。大っぴらに話すことははばかられた。薄暗い中庭のめいめいの位置についたところで、わたしは昨日のことをざっと話した。皆、険しい顔で聞いている。

「あいつ、怖いよ。中村先生や歌子のお父さんたちに伝えて、警察とか呼んだりしたほうがいいんじゃない?」

 渚がいらいらしながらわたしに言った。わたしは首を振る。渚が焦れったそうに、

「歌子は甘いって言ったでしょ。早くしなきゃ」

 と言う。わたしは静かに返す。

「最初はそうしてもいいと思ってた。でも、話を聞いてるうちに違うんじゃないかと思って……」

「違うって何が? あいつ、何かしかねないよ。せめてお父さんたちに教えないと」

「お父さんに話したら、大事になる」

「だからそうしろって言ってるんじゃん!」

 渚が拳を強く振って怒った。わたしは考え込んだ。それから続けた。

「内田、言ってたんだ。総一郎を嫌う理由」

 三人は静まりかえり、わたしに注目する。総一郎はますます顔色が悪くなる。多分自分のせいでわたしがつきまとわれているのだと思っているのだ。でも、違う。

「総一郎に裏切られたと思いこんでるんだよ」

 そして、わたしは内田が言ったことを三人に伝えた。岸と渚は困惑した顔になったが、総一郎ははっとした顔になった。

「だからね、内田に総一郎は事情があって約束を忘れたり、剣道を辞めてたりしたんだってことを説明したりすればどうにかなるかもしれないって思ったんだ」

「歌子。それを聞いても内田がストーカーをやめるなんて思えないよ。総一郎のことも思いこんでるだけじゃん」

 渚が辛そうなくらい心配げな顔でわたしを説得しようとする。岸もうなずいている。わたしは総一郎を見た。顔に赤みが差していた。

「岸」

 総一郎が声を上げた。岸が彼を見たときには彼は自信を取り戻した顔をしていた。

「内田と連絡つく?」

「総一郎まで! 内田と連絡したりしたら、また揉めるよ」

 渚が怒った顔で噛みつく。わたしは妙に落ち着いた気分でそれを見ている。岸は戸惑いながら、

「直接の連絡先は知らないけど、おれと繋がってる後輩が知ってると思う」

 と答える。総一郎はうなずいた。

「じゃあ、内田に伝えて。剣道会館で試合をしようって。道具類全部持って来い、一本勝負だって」

「総一郎!」

 渚が怒った声を出す。わたしは少し驚いていたが、たどり着くところにたどり着いた気がしていた。剣道会館は、恐らく総一郎が住む街にある剣道の道場だ。総一郎は小学校までそこで剣道を教わっていたと言っていた。

「……わかった」

 岸がうなずき、渚が彼をにらむ。総一郎は深呼吸をし、

「あいつに対して償えることがあるとすれば、それくらいだな」

 とつぶやいた。


     *


 日曜日、大急ぎで総一郎の街に向かった。自転車で生ぬるい風を切って、汗が全身からあふれ出すのを感じる。

 この間、素敵だと感じた総一郎の街に、親しげな感じは残っていなかった。大きなお寺も、マンション群も、どこか空々しい。総一郎の中学校の前を通りすぎるとき、一瞬鼻の奥がつんと痛くなった。気がつけば、涙が出ていた。わたしたちは賭けに出ていて、失敗すれば内田の恨みをますます買って、もっと危険なことになるかもしれない。皆に知られ、騒ぎになって、警察まで出てくるかもしれない。

 でも、わたしは内田が少し可哀想だったのだ。わたしは先輩だとか後輩だとか、そういう関係に強く魅入られることはなかった。尊敬する先輩に裏切られたと感じるような経験もない。でも、だからこそそれがとても悲しいものに感じられるのだ。できることなら、内田に総一郎のことをちゃんと知ってもらいたい。総一郎は辛かったんだ、剣道をやれなかったのも悲しかったんだとわかってほしい。

 わたしは色々な負の感情に押しつぶされそうになりながら自転車を走らせた。わたしの中には希望があって、それが小さく輝いているから今、こうしていられるのだった。

 木造の剣道会館の質素な建物が見えてきた。敷地に入り、自転車を停める。渚がいた。彼女は固い表情でわたしを待っていた。

「皆来てる。岸も、総一郎も、……内田も」

 わたしはうなずき、一緒に玄関で靴を脱いで道場の間に向かう。広い空間に大人たちが集まり、剣道の稽古をしていた。竹刀を打ち鳴らす音、低く大きなかけ声が響く中、防具を全て身につけた総一郎と内田が互いににらみ合っていた。総一郎の口利きで、場所を借りられたのだった。岸が審判をつとめるということで、緊張した面持ちで間に立っている。

「歌子さん」

 内田がわたしを見て防具ごしに笑った。わたしは目を逸らす。そんなわたしに内田は話しかけ続ける。

「今日の試合、見てろよ。おれが勝ったらあんた絶対好きになるから」

「うざっ」

 渚が言うと、内田は彼女をにらみつけた。わたしは渚の腕を引っ張る。渚は口をつぐんだが、内田をねめつけている。

「町田も来たから、試合を始めてもいいか?」

 岸が強ばった声を発した。総一郎がうなずき、内田は「お願いしまーす」と気の抜けた返事をした。

 二人は立ち位置についた。すっと静かな空気が広がった。礼をし、蹲踞という座った姿勢で竹刀を構える。そして、立ち上がり、岸の「始め」という合図があった瞬間それは始まった。

 二人は間合いを取りながら右や左に回り、竹刀で距離を測るように互いの道具を軽くぶつけ合う。内田の動きは大胆だ。たびたび大きく踏み込んで総一郎の体を打とうとする。一本勝負。つまりどちらかが一本取ったら終わりだ。わたしは思わず手を合わせる。

 内田が声を上げながら勢いよく踏み込んで、竹刀を振り下ろした。どきっとしたが、総一郎は竹刀で受けとめていた。そして何度も激しく竹刀を合わせ、総一郎のほうが優勢になってきたところで内田が一旦離れた。また間合いを測る。

 位置を変えながら互いをにらみ合う二人を見て、心臓の高まりを感じる。内田は最初舐めていたようだが、次第に真剣になってきたようだ。手数が減り、慎重な動きが増えた。

 永遠に終わらないと思った。二人はずっと前後や左右に移動して相手を見ている。この心臓の動きの激しさも、とまらないのだろうか。少し辛い。

 突然、総一郎が動いた。大きな声を上げながら前に踏み込む。内田が竹刀で受けようと体を強ばらせる。二人は競り合う状態になった。総一郎が声を上げた。彼の竹刀は内田の胴に横様に当たった。

「一本!」

 岸が叫ぶ。わたしは力が抜けていくのを感じた。総一郎が勝ったのだ。隣で渚が深く息を吐くのを感じた。彼女もわたしと同じ状態だったらしい。

 試合終わりの礼が済み、総一郎はわたしたちのほうに向かって歩き出した。わたしは総一郎に駆け寄る。彼は顔の防具を取り、安心したように笑った。わたしは微笑んだ。それから彼の体を防具ごしに抱きしめた。

「何でだよ」

 総一郎の後ろで、内田が震えていた。

「おれは県で一番強いんだぞ。篠原より成績がいいんだ。何でおれが負けるんだよ」

 総一郎は黙っている。わたしは成り行きを見守っている。

「歌子さんは俺のだよ。篠原、お前のじゃない。おれは歌子さんのこと好きなんだ。お前なんか……」

「おれはさ、内田」

 総一郎が話し出した。

「歌子のこと、本当に好きなんだ。愛してるんだ。それだけ」

 わたしは呆然とした。岸や渚もそうだった。総一郎はわたしを見ることをせず、真っ直ぐに内田を見ている。

「お前のものにはしたくない」

 内田はしばらく黙って床を見ていた。何だかいつもより小さく見えた。今まで怖いくらい巨大に見えていたのに。内田が顔を上げ、こちらを見た。総一郎を、いつもよりずっと柔らかな目で見ていた。

「篠原先輩」

 静かな声だった。

「試合をしてくれて、ありがとうございました」

 内田の態度の変化に驚愕しているわたしたちの前で、総一郎は微笑んだ。

「うん。内田。全国大会、頑張れよ」

 内田はこっくりとうなずき、すたすたと歩き出した。更衣室らしい部屋に行き、防具だけ脱いだ姿で戻ってきた。それから総一郎にお辞儀をし、岸にも会釈し、立ち去った。

「……どういうこと?」

 渚がぽかんとつぶやいた。わたしは少しわかっていた。内田は、この試合で憑き物が落ちてしまったのだと思う。わたしに対する執着も、総一郎の言葉で消えてしまったのだ。

「総一郎、わたしのこと、愛してる?」

 わたしは隣の総一郎に訊く。総一郎は今まで見たことのないくらい赤い顔になって顔を逸らした。そして、内田がさっき出ていった更衣室に向かって大急ぎで歩き出した。わたしはこの上なく幸せな気持ちだった。

 愛してる、か。


     *


「コンビニで、内田に会ったんだよ」

 一組の教室で岸が言って、渚が顔をしかめた。わたしと総一郎は真剣に聞く。

「『篠原先輩にも歌子さんにも謝りたい』って言ってたよ。今は勇気が出ないけど、篠原には失礼なことを言ったことを謝りたいし、町田には怖い思いをさせてすみませんって言いたいって」

 総一郎はうなずく。わたしはそんな総一郎の顔を見つめる。彼の穏やかな表情は、とてもではないけれどこの間のような試合をした人間のそれだとは思えない。

「ふーん。じゃあ、もう歌子にはつきまとわないんだね」

 渚が言うと、岸はうなずいた。

「冷静になれば、町田がはっきり言い続けたことが心に響くようになったらしい」

「遅っ」

 渚が呆れたように短く言い放つ。確かにそうだ。でも、周りが見えなくなるほど何かに執着する人は、そういう部分を持っているのかもしれない。

「ストーカーの心理はわかんないね。まあ、大事にならなくてよかったよ」

 渚がわたしの体を抱きしめる。暑いのだが、渚の体からはいい香りがする。

 総一郎は、窓の外を眺めて微笑んでいる。この優しげな彼が、「愛してる」などと情熱的な言葉を放ったのだと思うと、不思議な気分だ。

「総一郎」

 わたしは彼を呼ぶ。彼は振り向き、わたしの顔を見て笑う。

「わたしも、好きだよ」

 彼は赤くなり、ははっと軽く笑っててのひらで顔を隠した。

 でも、愛しているという気持ちはまだよくわかっていないかもしれない。彼が抱いているわたしに対する愛は、わたしにはまだ理解の及ばないものだ。

「内田、いつか普通に話せるといいよな」

 総一郎の誤魔化しに、わたしはつき合う。渚と岸がにやにや笑っている。

「そうだね」

 でも、本当にそうなるといい、と思う。

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