内田真人
どうしてこういうことになっているのだろう。わたしは混乱しながら目の前にある紺色の壁から逃れようとしていた。近すぎて認識できないが、これは知らない男子だ。怖い。早く、逃げないと。わたしは壁に押しつけられていた。
土曜日が来て、剣道の大会がある県北部の市に一人で電車とバスで向かって、大きな体育館にやっと着いて、まずトイレに行こうとして迷ってしまった。うろうろしていたら、人気のない廊下で紺色の剣道着を着た見知らぬ男子に声をかけられ、少し話をしたらいきなり壁に押しつけられた。体温と吐息を感じるくらい体が近くて、動揺した。相手はガムを噛んでいるようだ。くちゃくちゃ音がする。
「ちょっと、やめて。放してください」
わたしが言うと、鋭い目つきのその人は、声を漏らして笑った。
「駄目。おれの名前覚えてくれるまでは放さない。内田真人。覚えた?」
「だから、放して」
「真人君、って呼んでよ。頼むから」
身をよじって、壁に突かれた両手の下をくぐろうとすると、内田真人はそこに手を置いた。
「何で逃げようとするの? おれ何かした?」
今やっていることがその「何か」だろう、と思いはしたけれど、パニックで言葉がでなかった。どうしてこんな人気のない場所に入ってしまったのだろう。どうしてこんな人に話しかけられて、平気で受け答えしてしまったんだろう。後悔の念が押し寄せる。総一郎はどうしているだろう。
「おい、やめろ」
聞き覚えのある低い声がして、目の前の内田がいきなりいなくなった。代わりに現れたのは、剣道着を身につけた総一郎。わたしはほっとして泣きそうになる。総一郎は、わたしを守るようにこちらに背中を向け、内田をにらみつけていた。
内田はよく見れば総一郎と同じくらい大柄で、青白いくらいの白い肌と鋭い目つきをしていた。耳には透明なピアスがあり、総一郎同様髪を染めていないほぼ坊主頭ではあるが、少し不良っぽい雰囲気があった。
内田は総一郎を見ると軽蔑したように鼻を鳴らして廊下を歩きだした。
「おい!」
総一郎が呼びとめようとする。わたしは慌ててそれをとめる。総一郎が試合前にトラブルを起こしては大変だからだ。
「いいよ、総一郎」
「よくないよ」
「助けに来てくれてありがとう。それだけでいい」
廊下の角で、内田がちらりとこちらを見てから行ってしまった。わたしはほっと肩を撫で下ろした。総一郎がそんなわたしを見て、心配そうな顔をしている。
「大丈夫だよ。今日は総一郎に頑張ってもらわないとね。優勝目指して」
総一郎は無理矢理みたいに微笑んだ。それから、
「気をつけないとな」
とつぶやいた。
*
「お、町田。迷わずに来られたんだ。偉い偉い」
総一郎と一緒に外の自動販売機の近くにいた岸のところに行くと、岸はにこにこ笑って迎えてくれた。いつもと同じ感じが戻ってきたようで安心した。総一郎が岸に先程のことを打ち明ける。岸はわたしを心配そうに見る。
「災難だったなあ。たまーに柄悪い奴がいるから、気をつけてな」
柄が悪いとかそういうレベルではなかったように思うけれど、うなずく。内田には何か妙な執着を感じた。でも、わたしは内田を見た覚えがないのだった。三月に開催された剣道の大会にも行ったことはあるが、剣道をする生徒は試合中防具で顔を覆うので、一番目立つときに顔を覚えることがないのだ。
「どっか行くときはついてこうか?」
岸の言葉に、吹き出す。まるで子供扱いだ。
「やめてよ。岸も総一郎も忙しいんだし、女子は色々あるし、一人で大丈夫」
岸は総一郎と顔を見合わせた。わたしは余程頼りないらしい。苦笑いをして辺りを見回す。
周りには、剣道の防具を身につけた男子生徒や顧問らしい大人がたくさんいて、今にも大会が始まりそうな雰囲気だ。まだ朝の九時だから、団体戦の開会式は三十分後。しばらくは総一郎たちと過ごせる。空は快晴。空気も気持ちよくて、総一郎たちがいい成績を残せそうな予感がした。
しばらくおしゃべりをして、十分くらいしてから顧問の先生から二人が呼ばれたので解散した。開会式の前に志気を高めるのだろう。体育館に入って様子を見ると、顧問の教頭先生を囲んで男子部員が真剣な顔で話を聞いていた。勝てるといいな、と思う。
もう一度自動販売機のところに行って、ジュースを一本買う。もう暑さが堪えるくらいの季節になってきたので、冷たい炭酸飲料を買った。プルタブを引いて飲むと、喉が刺激されて爽やかな気分になった。
「歌子さん」
声をかけられ、どきっとする。内田が笑って立っていた。体が強ばったが、何とか歩き出すことができた。内田はどうしてわたしの名前を知っているのだろう。
「何で無視するんだよ。ちょっと話そうぜ」
体育館の玄関に近づいて、もう少し、というところでこう言われた。
「篠原のどこがいいの?」
軽蔑しきった声だったので、怒りで足がとまった。
「あいつ、マザコンだろ? 母親が死んだくらいで落ち込んで飯も喉を通らない、弱い奴。そんな奴を好きでいて、空しくならない?」
振り返る。内田はにやにや笑っていた。ジュースを左手に持ち変えて、わたしは内田の頬を平手で叩いた。ぱん、と乾いた音が響く。無感覚だったてのひらは、じわじわと痺れたような痛みを覚えだした。
「何すんだよ」
内田が左頬を押さえて顔を歪めていた。わたしは怒りながらも他人に暴力を振るってしまったことに怯えていた。ごめんなさい、と言いそうになった。けれど内田が言ったことは許せなかったので、そのままわたしは身を翻して体育館の中に入った。さっきまでのいい気分がぐちゃぐちゃになっていた。
内田に会わないよう、開会式が終わるころまで女子トイレに隠れていた。いい日になるはずだったのに、と悔しくて、いい日にしなきゃ、と決意した。トイレから出るころには最初の試合は始まっていた。
*
体育館は試合をする高校生でごった返しているので、二階のギャラリーから観ることにした。うちの学校の剣道部は、六つある試合場のうち第五試合場で試合をするらしい。トーナメント方式だけれど、最後は決勝リーグで四つの学校がそれぞれ競うらしく、まずは決勝リーグまで行くことが大事であるようだ。うちの学校の剣道部は結構強いので、決勝リーグに行けるだろうという人は多い。わたしも期待している。
わたしがギャラリーにたどり着いたときには先鋒同士の試合が終わっていた。うちの学校は勝ったようだ。次鋒は勢いこそよかったものの、競り負けてしまった。次は、中堅。総一郎の出番だ。剣道独特のしゃがんだ形の礼をして、立ち上がって構える。「始め」の合図で試合が始まった。この間の岸の試合のときのように警戒し続けるのかと思ったら、総一郎はあっという間に相手の面を叩いて一本取ってしまった。試合は四分間と決まっているので、手数が大事なのだろう。その後もどんどん攻めていく。相手はいきなり一本取られたことが悔しいのだろう、守りに徹する。でも、最後の数秒で、総一郎は相手の手に竹刀を当てた。試合は終わった。圧勝だった。すごい、強い、と一人でつぶやく。渚が一緒に来てくれたら一緒に喜べたのに、と少し寂しい。副将は岸で、堂々とした動きで相手を圧倒した。隙がない岸に、相手の選手はお手上げのようだ。終始追い込まれていた。岸もやっぱりすごいんだなあ、と思う。うちの剣道部員たちが拍手をした。いい試合をして勝ったという気持ちの表れらしい。剣道は声援を送ることがあまりいいことではないらしいので、わたしも一人で拍手だけした。試合は三人勝って結果が決まり、勢いに乗りだしたようだ。
試合が一段落したので、うちの剣道部もわたしも休憩に入った。総一郎に声をかけたいが、あまりうろうろしても集中を欠いてしまうかもしれない。ただ、暑いので一階に降りて保護者らしい人や出場者の友達らしい人が多いことを確認して外に出た。熱気に包まれた風のない体育館に比べれば、外は涼しく、気分がよかった。
総一郎たちは順調に勝ち進んでいった。強いというのは本当だな、と嬉しい。決勝リーグの手前の試合が始まる前に昼が来て、わたしは総一郎と岸と一緒に昼食を取ることにした。
*
わたしは自分で作ったお弁当を自慢げに広げ、総一郎と岸と一緒に敷地の裏庭で食べ始めた。小さなハンバーグを総一郎にあげ、小さなオムレツを岸のお弁当箱に載せてあげた。一口食べて、総一郎は妙な顔をする。オムレツを口に含んだ岸も、動きをとめた。
「どうしたの?」
わたしが訊くと、二人はそれぞれ、
「歌子、玉ねぎ生焼けかもしれない」
「町田はオムレツに砂糖を入れる派なんだな」
と言いにくそうに言う。慌てて自分の分を食べると、玉ねぎはしゃきしゃきしたし、オムレツは妙な甘い味がした。
「嘘ーっ。何で?」
「玉ねぎは挽き肉と混ぜ合わせる前に、あらかじめ炒めるんだよ」
ショックを受けるわたしに、総一郎が慰め顔で言う。岸もこう言った。
「家庭によっては卵焼きに砂糖を入れるところもあるけど、オムレツは塩や胡椒で味をつけるものだと思う」
わたしは大きくため息をつく。そんな初歩的なことで失敗するなんて。今日は母の補助を断って作ったのだが、失敗したようだ。
「まーまー、うちのたくあんあげるから元気出して」
岸が色の淡いたくあんをわたしのお弁当に載せてくれたので食べると、しゃきしゃきしていて味もまろやかでおいしかった。たちまち元気が出る。笑顔になったわたしに、岸は「母親が趣味で漬けてるんだ」と笑う。
「あーっ、そういえばわたし、総一郎の料理食べたことないな」
わたしが思い出して言うと、総一郎はきょとんとしてわたしを見た。彼が持っているのは今日もおにぎりで、分けるのには適していない。総一郎の料理、食べてみたいな、と思う。
「いつか食べさせるよ。皆でうちに来ればいい。料理、振る舞うよ」
「やった!」
わたしが体を揺らして喜ぶと、二人は笑った。空は遠くまで晴れている。暖かい日差しが、わたしたちに注ぎ込まれる。
事件が起きたのはそのあとだった。