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蜂蜜製造機弐号  作者: 酒田青
高校一年生 二学期
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噂と試験と篠原

 拓人は悪くない。あんなに好きになってくれたら、普通の女の子なら同じだけ返したくなるはずだ。悪いのはわたし。普通と違うわたし。

 拓人に返事をすることに決めて、自分の中の拓人への気持ちを曖昧にした。好きになるかもしれないと、誤魔化した。でも、本当は最初から変わっていない。拓人はただの幼なじみだ、という気持ちはそのままあった。

 拓人を呼び出すメールを書きながら、雪枝さんの言葉を思い出し、自分が成熟した人間ではないことを考え、無理だと思った。拓人と恋人になるなんて、無理。

 こんなことで拓人と疎遠になるのなら、いっそ成熟していたかった。拓人を好きになれる自分でいたかった。わたしはわたしでいるしかない。わかっている。けれど、もしかしたら、と思ってしまうのだ。

 部屋にこもってベッドの上でぐずぐず泣く。ドアの向こうで母がわたしを呼んでいる。わたしはそれを無視した。

 明日は、月曜。わたしと拓人は、クラスメイト。会わなくてはいけない。けれど耐えられない。

 結局、わたしは次の日仮病を使って休んだ。


     *


 学校に行くと、クラスメイトたちがわたしを一斉に見た。わたしは拓人がいる後ろの扉からではなく黒板側の扉から入ったのだけれど、注目しやすいのは確かだった。それにわたしと拓人の事情が一斉に広まってしまったことは想像できる。昨日、教室の様子が気になって着信拒否を外したら、あのアドレスからメールが届いたのだ。

「言うとおりにしてくれてありがとう。あとはこのまま消えてね」

 と。残念ながら消えることはできない。消えたいのは山々だけれど、人間は自分の存在をなかったことにできないのだ。

 わたしは挨拶もせずにうつむきがちに一番後ろのわたしの席についた。誰も近づいてこない。女子は当然だとして、男子は何人か話す相手がいたのに。篠原だってこちらを見ない。悪質な噂なのかもしれない。噂って怖い。拓人が仲のいい友達に話して、その人はうっかり口を滑らせ、人から人へ、白い噂は黒い噂になって駆け巡る。そうしたらわたしは誰からも嫌われる人間になる。でも、それもいいなと思う。今は誰とも話したくない。

 ホームルームが始まった。今日は担任の田中先生ではなく、副担任の中村先生だった。中村先生が何も気づかないことを祈りながら、わたしは平気な顔を作って点呼に応えた。


     *


 日々は過ぎていく。学校からすぐ家に帰るだけの日常。わたしは寄り道をしなくなった。雪枝さんは仕事が忙しくて休みが取れないらしいし、一人で出かけるのも無味乾燥に思えた。期末試験も近いので、わたしは気が向くたびに机に向かった。勉強は元々好きではないけれど、嫌いでもない。今までの定期試験は中の上といったところだから、もう少し成績をよくするのも達成感があっていいかもしれないと思ったのだ。

 父も母も腫れ物に触るみたいにわたしを扱う。二人はわたしが拓人を振ったことを知っている。わたしが話したから。だからといって、わたしがこんなに暗い人間になる理由はわからないはずだ。申し訳ないとは思うけれど、篠原やレイカや教室の様子などを全て話したくはないからわたしは二人をそのままにする。

 雪枝さんはメールや電話で懸命に励ましてくれたけれど、わたしがもう大丈夫だと言ったから、そのことを話さなくなった。彼女にも気を遣わせているのかもしれない。

 期末試験はそんなわたしに構わずやってきて、学校中で吹き荒れた。わたしは少しだけ充実した気持ちで、試験に向かった。


     *


 最後の家庭科の試験が終わり、わたしは後ろから回ってきた男子に自分の列の答案用紙を渡した。前のほうの席のレイカは彼に用紙を乱暴に押しつけていた。試験の席順でも、わたしとレイカは近くだ。何だか嫌になってくる。

 わたしは満足感があった。勉強していた分、自信があったから。このままがり勉になってしまうのもいいかもしれないな、などと思う。他人と関わることが最近全く楽しくないし、それはあり得ることだ。

 教室は開放感で一杯だ。元気よく帰る男子、おしゃべりを始めた女子。篠原に群がる学校の秀才たち。これはいつもの光景。篠原の自信の程と試験問題の自分の正否を確認しているのだ。拓人のほうは未だに見ることができない。嫌い合っているわけでもない。ただ気まずいだけ。それなのに存在を確認することもできないなんて、この間までは考えられなかったことだ。

 いつものように黒板側の扉から教室を出たら、ちょうど廊下を歩いていた中村先生から声をかけられた。

「町田さん、現代文よかったわよ。頑張ったわね」

「本当ですか」

 ぱっと気持ちが明るくなった。現代文は未だに勉強の仕方がわからないのだけれど、試験範囲の読み込みと漢字だけはよくやった。それが結果に出たのかもしれない。嬉しい。

「次の授業のときに答案を配るから、楽しみにしててね」

「はい」

「あ、そうそう」

 中村先生は急にわたしに近づいてきた。小声で尋ねられる。

「あなた最近一人ぼっちじゃない? 大丈夫?」

 わたしは自分の表情が一瞬にして暗くなるのを感じた。教室に誰一人として話す相手がいないというのは、わたしを陰気にさせるのに充分だ。

「大丈夫ですよ」

 それでも笑った。先生にも、話す気にはならないからだ。先生は心配そうな顔になる。

「大丈夫大丈夫って言うけど、全然大丈夫そうじゃないわよ。わたしは話を聞くからいつでもいらっしゃいって言ってるのに、来ないんだから」

 わたしは先生の目を見られず彼女の肩の向こうを見ていた。

「あ、篠原君」

 先生の言葉に肩がびくりと動いた。

「篠原君も、現代文よかったわよ。男子は大体現代文って苦手なんだけど、篠原君はいつもよくできる」

 隣に、篠原の長身が並んだ。

「そうですか」

 篠原の声。

「あなた、まるで他人事みたいね。とにかく、二人ともこの調子で頑張るのよ」

 中村先生は行ってしまった。篠原の前ではわたしのことを言えなかったのだろう。少し、助かった。

 わたしは顔を上げて篠原をちらっと見た。篠原はわたしに気づいた。それから、前に見せてくれていた、小さな笑いを浮かべた。わたしは信じられない気持ちでそれを見ていたけれど、次の瞬間には篠原は身を翻して廊下を歩いて行ってしまった。


     *


 現代文の点数は本当によかった。九十八点。篠原より二点上だったのだ。篠原の点数を知っているのは、彼の成績がいつも学年中で言い触らされているからだ。さすが篠原、などと聞こえてきて、それより点数が上のわたしは得意な気分だ。ただ、誰もわたしの点数を確認しに来ないから、わたしは内心にやけているだけだ。

 そのあとも次々と答案用紙が返ってきて、現代文ほどではないけれど、なかなかいい点数だった。レイカはいつものように点数がよくなかったようで、追試の話ばかりしている。ざまあみろ、と思ってしまうわたしは、以前より随分性格が悪くなってしまったかもしれない。


     *


 試験終了から一週間ほど経ってから、帰りのホームルームで成績表が配られた。以前より二十位ほど上げて、上の中くらいにはなっていた。達成感。この達成感が次の試験まで味わえないと思うと、少し虚しい。

 篠原は今回もトップ。学年全体が知っている。毎回言いふらすメンバーがいるからだ。感嘆すると同時に、この間の篠原の笑顔の意味を考える。

 成績が上がったとか下がったとか、クラスメイトがお祭り騒ぎの中にいるのを後に、わたしは教室を出た。

 昇降口に着いたころにはかなり冷静になっていた。成績がよくても、この憂鬱は晴れない。また同じ日常が帰ってくるのだと思うと、さっき軽かった鞄が重く感じるくらいだ。

「町田」

 声をかけられた。この声は、篠原。靴を取り出すのをやめ、後ろに立っていた篠原に向き直った。

「帰るの?」

 篠原が訊くのでわたしはうなずいた。

「一緒に帰らない?」

「え」

「嫌?」

「ううん」

 わたしは慌てて首を横に振った。篠原はほっとしたような笑みを作り、一段高い廊下から下駄箱のすのこに降りてきた。わたしは久しぶりに篠原と話すので、どきどきしながら靴を履いた。

「篠原、一位だったね」

 小さな声で訊く。篠原はいつものように無関心な顔でうなずいた。

「わたし、篠原より現代文上だったよ」

「本当?」

 篠原がわたしをしっかりと見た。わたしは嬉しくなってうなずいた。

「篠原に勝った」

「悔しいな。多分クラスでは一位だよ。おれが一位だって言われてたし」

 わたしは思いがけないことを聞いて篠原に飛びつきそうになった。篠原が驚いて一歩引いたからやめたけれど。

 わたしたちは校舎を出て歩き出した。篠原と一緒に帰るのは初めてだ。わたしは今までしなかったことをやった。

「篠原、メールアドレス教えて」

 篠原が目を丸くする。それから歯を見せて笑った。

「いいよ」

 校門の前で立ちどまり、わたしたちはメールアドレスを交換した。

「篠原総一郎。登録した!」

「え、おれの下の名前知ってるんだ」

 篠原は意外そうにわたしを見る。わたしは唇を尖らせた。

「知ってるよ。篠原はわたしの下の名前知ってるの?」

「知ってるよ」

 篠原はにっこり笑った。わたしは初めて見るその表情をまじまじと見詰めた。優しい顔だ。

「歌子だろ?」

 その言葉は、宝石の名前みたいに聞こえた。

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