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蜂蜜製造機弐号  作者: 酒田青
高校三年生 一学期
119/156

惜しむべき一年

 わたしは猛勉強を始めた。まるで受験が一ヶ月後に迫っているかのように、必死に。古文や英語の単語が頭の中を泳ぎ回り、数式が走り抜けていく。授業のノートだけでなく、自主勉強用のノートをたくさん作った。それらはあっと言う間にページが真っ黒になり、次々にめくられていった。

 渚がうちに来たときも、漫画を読みたがる渚を無理矢理テーブルに就かせて一緒に勉強した。勉強が嫌ではない渚だからつき合ってくれたけれど、そうでなければわたしはとても迷惑な友達だったに違いない。渚は人が変わったようになったわたしを見て、少し心配そうだった。

「あんまり飛ばすと、ノイローゼになっちゃうよ」

 渚がシャープペンシルを走らせる手をとめて、わたしに言った。わたしは「大丈夫」と微笑んだ。

「どうせ今度中間試験があるでしょ? 必死になるいいチャンスだよ」

 それからまたノートに目を落とし、複雑さを増した数学の問題を解いた。渚はしばらくわたしを見つめていたようだが、彼女も再び勉強を始めた。


     *


「歌子」

 振り向くと、総一郎が立っていた。わたしはぽかんとする。

「一緒に喫茶店行こうか」

「うーん、今日は英文法覚える予定だから……」

 わたしはぼんやりしたまま答えた。ここは五組の教室の中。まだたくさんの生徒が残っている。総一郎はわたしとつき合っていることを五組の友人にからかわれるのを少し恥ずかしがっていたはずだ。なのに来てくれた。喫茶店に誘ってくれた。けれど、わたしは断った。断ってから、はっとした。

「あ、ごめん。行きたくないわけじゃないよ。今焦ってて。今度の中間で結果を残したいんだよね。それで……」

 わたしの言い訳に、総一郎は不機嫌になったりせずに微笑んだ。

「尚更行こうよ。おれ、英語得意なほうだよ。教えるよ」

 総一郎は言った。わたしはまたぼんやりしていたが、一瞬のちに笑っていた。総一郎の優しさがありがたかった。隣の席の男子が、「篠原、おれにも教えて」と言い出したが、総一郎は「また今度」と笑ってわたしを立たせた。それから、一緒に教室を出た。

 校門から街に出て、総一郎と歩く。彼の穏やかさを増した顔は、まるで若いお釈迦様だ。最近の彼は、自信に満ちている。見上げながら、何だかまぶしい。

「総一郎」

「何?」

 彼はわたしを見下ろす。微笑みはずっと消えない。

「最近、優しい顔してるね。どうしたの?」

「うん」

 総一郎はうなずきながらも答えない。前を向き、考えている。それから、わたしを見てこう答えた。

「歌子がそばにいて、将来の目標も決まって……。今がおれの一番いいときなんだなって思ってさ」

 わたしは嬉しくなりながら、彼の顔を見上げ続ける。

「このあとは色んな嫌なことがあると思うよ。例えば受験失敗」

「総一郎に限ってそんなことないよ」

 わたしはくすくす笑う。

「あとは歌子に振られるとか」

「それも絶対ない」

 わたしは総一郎の腕に絡みついた。商店街の中、制服を着たままこうして歩くのは全く恥ずかしくなかった。行きつけの美容室も、よくお遣いに行く味噌屋さんもある商店街だけれど、気にならなかった。総一郎はにっこり笑ってわたしを見つめる。

「だから、楽しもうと思うんだ」

 総一郎は前を見て言った。

「高校卒業までの一年、楽しむんだ」

 わたしは総一郎を見た。何だかまたまぶしく見えた。

「だからずっと静かな気持ちなんだよ。不思議とわくわくした感じもあってさ」

「そうなんだ。わたしは最近必死」

「いいことだと思うよ。必死って」

 総一郎はわたしを見下ろして笑う。

「今しかできない必死なら、やればいいじゃないか」

 総一郎の優しい顔を見ながら、わたしは浄化されていく気がした。凝り固まった頭が、柔らかくほぐされていく。わたしはようやく自然と楽しい気分になっていた。総一郎のお陰だ。

「ベティ・デイヴィスがね」

「ん?」

 総一郎は、聞きなれない名前に眉を上げたが、そのまま聞いてくれていた。

「見晴らし窓をつけるって言ったの。映画の中で。わたしもそうしたい。どうすればいいのかわからなかったんだよね。どうすれば自分を開けるか……。皆のことを歪みのない目で見られるか。でも、わかった」

 総一郎はわたしを見ている。

「わたしが人生を楽しむことなんだね。そうすれば自然とそうなるんだ。うん」

 総一郎はまた笑った。今度は声を上げて。

「何だかわからないけど、よかったよ」

 彼の焦げ茶色の目を見つめながら、わたしは大きくうなずいた。


    *


 中間試験は、二つ順位を上げただけで終わった。けれど、わたしは充実した気分だった。だって、これまで下がってばかりだったのだ。数学も、二つの内一つは今まで取ったことのない九十点台の答案用紙が帰ってきた。信じがたい点数なので、驚いた。少し進歩した。それだけで満足だ。これから、もっと進歩するのだ。わたしは答案用紙を見て微笑んだ。

 放課後の教室は順位発表のためにてんやわんやだ。皆、自分の順位が載った細長い小さな紙を持って色々な表情をしている。上がったと騒ぐ人、机に座って呆然と順位表を見つめる人。

 夏子は「駄目だ」とうなだれ、美登里はいつも通りという顔をしていた。二人と話していると、後ろから順位表を奪われた。拓人だ。静香も一緒だ。

「ちょっとー、プライバシーの侵害!」

 わたしが文句を言うと、拓人はしげしげと順位表を見ながらため息をついた。

「負けた」

 静香が拓人から順位表を奪い返してくれた。「ごめんね」と言い添えて。

「何か、受験モードだよね、何となく」

 美登里が言うと、拓人たちは周りを見回した。

「そりゃー、受験まで一年もないしな。あーおれ何にもやってない」

「静香と一緒に勉強すれば? 部活は今月で引退するんでしょ?」

 わたしが言うと、拓人はまたため息をついた。

「勉強かー」

 窓越しに校庭のポプラを見ると、若葉が茂って生き生きとしていた。わたしはこうして受験に悩むわたしたちが、このポプラの若葉と共に美しい思い出になるのだということに気づいていた。この瞬間も、今しかないのだとわかっていた。総一郎のお陰だった。

「あと一年で終わる高校生活、楽しまなきゃね」

 わたしの口からふと漏れた言葉で、皆の顔が苦悩したものから寂しそうなものに変わった。そうだ。この一年は惜しむべき一年なのだ。一瞬一瞬を、大切に生きなければ。

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