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蜂蜜製造機弐号  作者: 酒田青
高校三年生 一学期
118/156

現実

 夜、わたしは夕食を取りながら、昼に総一郎たちと話したことを母に話していた。母は困ったようにうなずきながら聞き、何度も「お父さんに訊かないとね」と言った。わたしは既に目の前に夢とする世界が広がっているような気分になっていたので、上の空でそれにうなずいた。夕食は、ミネストローネだった。赤いスープをスプーンで何度もすくって飲み、「お母さんのミネストローネ、おいしい」と笑っていた。

 父が帰ってきたのはそんな最中だった。いつも通り上機嫌に、でも少し疲れた様子で「ただいま」と言いながら台所に入ってきた。わたしと母は笑顔で「おかえりなさい」と言う。疲れた疲れた、と言いながら、父はネクタイを緩めて上着を脱ぎ、台所と一続きになっている居間のソファーにかけると洗面所に向かう。わたしはうずうずしながら父が顔を洗うのを待ち、父が寝室で着替え終え、「おっとっと、背広」と言いながら戻ってきたところで、こう言った。

「わたし、やっぱりW大学に行きたい」

 父はちらりとわたしを見て、また出ていった。背広を置いてから戻ってきた父には、笑顔はなかった。

「演劇や映画の勉強がしたい。実践もしたい。運命だと思うんだよ。わたし、もうこの目標しかない」

 わたしが興奮気味に話すと、父は深いため息をついた。

「駄目だと言っただろ」

 わたしは驚いて立ち上がった。

「駄目だとは言ってないじゃん。無理だって言ったんだよ。でもわたし、頑張るよ。努力するよ。今までそういうこと、してなかったけどやっとやれるようになったんだよ」

「駄目だ。東京は遠いだろ。それに歌子に一人暮らしは無理だ。今だってお母さんに頼りっぱなしだろう。できるようになるとは思えない。それに演劇なんて勉強して何になるんだ。地元の大学に入って、何か身になる勉強をして資格を取ったりしたほうがずっといいじゃないか」

「そんなことない」

 声が甲高くなり、父の夕食を準備していた母がこちらを窺っている気配を感じた。父は顔をしかめている。

「何で? わたし、やっとやりたいことができたんだよ。応援してくれると思ってたのに、何でそういうこと言うの?」

 わたしは目が潤んでいるのに気づいた。ここで泣いてはただのわがままにされてしまう。口の中に苦い味が広がる。唾を飲み込み、涙をこらえた。それでも父は、

「応援する価値があるなら応援する。歌子のは気まぐれだろう」

 と吐き捨てた。わたしは体がふわっと浮くような強い怒りを覚えた。それでもこらえて、

「わたし、勉強もするし受験もする。受かってみせる。お父さんにはできるだけ負担をかけないようにバイトもするし奨学金も受ける。それならいい?」

 と低い声を出した。父は「はいはい」と相づちを打ち、

「勝手にしろ」

 と言って椅子に座ってミネストローネをかき込み始めた。わたしはその光景をじっと見ていた。赤いスープの色が、目に焼きついた。


     *


 結局は父が学資を出してくれなければ、W大学に受かったところで入学金を支払うことすらできないのだ。部屋で冷静になってからそう考えた。わたしの夢は、わたしさえ頑張れば実現可能なもののように錯覚していた。そうではない。父が応援する気にならなければ、様々なことが不可能なのだ。わたしはただの保護される側の子供なのだから。それに、父はわたしのことを手放したくないからああいう言い方をしてでも東京行きを阻止しようとするのだ。父に対して怒りながらだと困難だったが、わたしは幼いころからわたしを溺愛してきた父との記憶を思い出した。そうして、言い聞かせた。

 父が過保護なのだって、わたしのことが心配だからだ。それはわたしが頼りないからでもある。わたしが言った通りにできると証明してみせれば、父はわかってくれるだろう。

 壁掛け時計の秒針の音が響く。壁をにらみ続けて、耳障りだったそれが気にならなくなると、わたしは学習机の椅子に座り、数学の教科書を開いた。


     *


「歌子ー。何か元気ないね」

 あれから数日経った昼休み、渚がわたしの顔を覗き込んだ。目の前では総一郎がおにぎりを口に運び、ぱくっと食べているところだった。渚のお弁当は相変わらずシンプルだ。冷凍食品のミートボールと卵焼きとプチトマト。栄養が足りるのか心配になってしまう。岸はまた茶色いお弁当を広げて食べていた。わたしのお弁当ばかりがカラフルで、ぴかぴかに光って見えた。

「ううん。何でもないよ。ところで岸、最近は日の丸弁当じゃないんだね」

 わたしが岸に話しかけると、岸はうなずいた。

「最近は自分で作ってるんだよ」

 総一郎が目を見開き、わたしと渚は「ええっ」と声を出した。岸がにこにこ笑い、

「母親、いつも忙しくてさー。最近偉くなったみたいでますます弁当作る暇がないらしくて。なのに弁当作れとは言いにくいし、気の毒だし。というわけで、自分で作るようになった。まあ、おかずは基本夕食の残り物とか、切ればいいちくわとかかまぼことかそういうのだけど」

「えらーい」

 渚が褒めると、岸は嬉しそうな声で笑って相好を崩した。わたしは思わずため息をついてしまう。岸がわたしを見て笑う。

「え、町田は褒めてくれないの? いきなりため息なんて」

「違うよー。わたしだけが自分でお弁当作ってなくて、甘ったれだなー、って思って。わたしだけがお母さんに早起きさせて、作らせてるのよくないなーって」

「おお、町田に自立心の芽生えが」

「護、余計なこと言うんじゃないの」

 岸と渚のやりとりのあと、総一郎が穏やかな声でわたしに訊いた。

「歌子、自分で弁当作りたいの?」

「うん……。そうかも。お母さんばっかりわたしの世話をしてるから、気が咎める」

「やればいいよ。お母さんも喜ぶから」

 わたしは総一郎に微笑みかけた。総一郎は、にっこり笑った。


     *


 元気がなかったのは、W大学の過去問題を解こうとしてもさっぱりわからなかったからなのだった。わたしは、自分の立ち位置に気づいて愕然としていたのだ。今のわたしは、受験して受かるレベルにいない。このままなら確実に落ちるだろう。わたしはこのところ感じられていた自信が、しゅるしゅるとしぼんでいく気がしていた。総一郎たちは、自分たちのレベルを確認した上で自信を持っているのだ。突如としてまぶしく感じられ出した彼らに、こういう話はできなかった。

 今日は、ベティ・デイヴィスの晩年の出演作を観た。白黒ではなく、少し前の作品だった。

 銀髪になったベティ・デイヴィスは、頑固で偏屈な盲目の女性を演じていた。穏やかで優しい映画。彼女の現実を凌駕する演技は相変わらずで、亡くなった夫の遺髪で顔を撫でる場面では涙が溢れるくらい映画に没頭してしまった。

 この人は晩年になっても輝いて、長い銀髪は美しく、見るものを惹きつける。わたしには、こういう老後は待っていないだろうな、とふと思った。

 ずっと地元にいるのだろう。夢なんてなかったことにして、巣立っていく友人たちの背中を見ながら。

 映画は穏やかなまま、ゆったりと進む。最後の最後で、ベティ・デイヴィス演じる老婦人が大工に突如台詞を放った。見晴らし窓をつける。確かにそう言った。ずっと拒んでいた、海の見える見晴らし窓をつけることを自ら頼んだのだ。彼女が演じる老婦人は、偏屈で嫌な人だった。見晴らし窓なんていらないと言い張っていた。なのに、妹が望んでいた見晴らし窓をつけることを、自分にも必要だと認めた。つまり、自分の心を外の世界に開いて素直になることを決めた、ということだと思った。

 わたしは何度もうなずいた。エンドロールを眺めながら、色々考えを巡らせた。わたしはもっと努力をしよう、とまず思った。W大学に受かる努力もするし、人を愛する努力、感謝する努力もする。それから、自分を開こう、と思った。今までの開けっぴろげな自分ではなく、もっと奥に秘めた自分を。他人に見せなくてもいい。自分に開いて見せよう。

 映画が終わり、DVDをレンタルケースに戻すと、わたしはソファーから立ち上がった。台所では母が紅茶を飲んでいた。

「お母さん。わたし、夕飯作りたいから教えて」

 母は目を丸くした。

「それから、明日からのお弁当も自分で作りたいから、手伝ってくれない?」

 母の驚いた顔は、嬉しそうな笑顔に変わった。

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