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蜂蜜製造機弐号  作者: 酒田青
高校三年生 一学期
117/156

目標

「お母さん!」

 起きてから身支度を終え、わたしは興奮気味に朝食の準備をしている母に話しかけた。台所の母が、「おはよう」と言ってにっこり笑う。わたしは挨拶を返し、すぐに昨日の思いつきを話した。何も予想せず、気の焦るままに。

「わたし、東京のW大学に行きたい!」

 母は、困惑したように眉根を上げた。わたしはそれを意に介さずに続ける。

「わたし、映画の研究がしたい。演劇も勉強したい。舞台にまた立ちたい。映画にも、出たい。別に女優として一生それ専門でやってくつもりはないよ。ただ映画に出たいの。一番は、映画をもっと知りたいの。わたし、東京のW大学の専門の学科で、勉強がしたい」

 母は、言葉をなくしたようだった。わたしをじっと見て、唇を少しだけ開いて立ち尽くしている。次の瞬間、味噌汁がたぎって、ようやく時間が動き出した。母は慌てて火をとめ、ふたを開けて味噌汁を見ながらわたしに訊いた。

「本気?」

「うん」

「最近、よく映画を観ているとは思ってたけど……」

「一週間前、初めて観た映画に衝撃を受けてね、何本も観てるうちに一生の仕事にしたいと思った。研究者じゃなくてもいい。映画に関わっていきたい」

「一週間前? 最近ね」

「そうだけど、一生ものの衝撃だったよ。わたし、どうしてもW大学に行きたい」

 母は黙った。味噌汁を熱心に見ていると思ったら、突然わたしに振り向いた。

「お父さんに訊かないとね」

 母は、弱々しく笑っていた。

 父が降りてくる足音がしたので、わたしは急いで廊下に向かった。それからネクタイを締めている父に母にしたのと同じ話を繰り返した。父は上機嫌にうなずきながら聞いていたが、わたしが話し終えると、こう言って笑った。

「なーに言ってんだ。歌子の成績じゃ、W大なんて無理だろう」

「わたし、頑張るよ。世の中には一年で偏差値を十も二十も上げた人がいるんだし」

「歌子にできるとは思わないな」

 そのまま父はドアを開き、台所のほうに向かった。わたしは呆然としたまま立っていたが、段々気持ちが沈んでいくのを感じた。


     *


 四月の半ばはまだ寒いので、昼食は総一郎たちの一組で取ることにしていた。総一郎はおにぎりを頬張り、渚は自分で作った簡単なお弁当を広げ、岸は昨日の残り物が詰まっているというごちゃごちゃした茶色いお弁当をつついていた。わたしは具がカラフルな入れ物に入った手の込んだお弁当を眺めながら、ぼんやりと箸を進めていた。

「歌子?」

 総一郎が、おにぎりを包んでいたラップを丸めてからわたしに声をかけた。彼は、心配そうにわたしの顔を見た。目の前の彼の顔は大人びていて、去年の今頃よりずっと力強い顔になっていた。渚と岸がわたしの異変に気づき、顔を見合わせる。わたしはぽつりとこう言った。

「進路、決めたよ」

 三人は驚いたようにこちらに身を乗り出してきた。

「本当? 何?」

 渚が訊く。わくわくしたような顔だった。

「映画の勉強。あと、映画に出るってこと。映画の関係の仕事をして、演劇も少しやりたい」

 三人は歓声を上げた。渚が「よかったね。いい目標だね」と言ってくれる。岸がうなずき、「去年の劇、よかったもんな」と笑う。総一郎は、微笑んでこう言った。

「歌子らしいな」

 わたしは少し勇気づけられたような気になって、笑った。

「でもね、お父さんが反対みたい」

「えーっ、どうして?」

 渚が唇を尖らせる。

「女優になるとか映画監督になるとか、一人前でやってくのが厳しいことだけをやりたいってわけじゃないんでしょ? 映画の研究して、演劇もやりたいっていうシンプルなことでしょ?」

「うん。なのに笑って『無理』って言われた。確かに急だけど、真剣なのになあ」

 わたしが肩を落とすと、

「東京の大学行きたいの?」

 と総一郎が訊く。わたしはうなずく。

「と言っても、総一郎と一緒にいたいからとかそういうんじゃないよ。目指すW大学が東京にあるの。演劇とか映画とか、東京が一番近づきやすいだろうしね」

「へえ」

 総一郎が笑った。どうやら嬉しいらしい。目標のなかったわたしが自分のために東京に行きたがっていることが彼を喜ばせたようだ。

「W大は難しいから無理って言われた」

「そんな、決めつけなくていいじゃんね」

 渚がまた唇を尖らせる。岸がうなずく。総一郎が微笑んだ。

「お父さんを説得してさ、頑張ってW大目指せばいいよ。歌子が熱中したらすごい結果を生むってことは、去年の文化祭の劇でわかってるからさ」

 岸がちくわを口に運びながら、こう言った。

「何か、町田見てるとおれも頑張らなきゃなって思うよ。おれはまだまだやれてないって感じ。町田、お父さんに負けるな」

 渚がわたしの手を取って、元気一杯に笑ってうなずいた。

「歌子はやれるよ。お父さんだってわかってくれるよ」

 わたしは元気をもらった気がして、大きくうなずいた。

「わたし、頑張る」

 暖かい日差しが、教室に差し込んでいる。一組の勉強のできる賢そうな生徒たちが、離れた存在ではなく一緒に難関大を目指す仲間に思えた。わたしは笑った。父を説得することや入試がさほど困難だなんて、全く思っていなかった。

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