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蜂蜜製造機弐号  作者: 酒田青
高校三年生 一学期
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新しい出会い

前回までのあらすじ

 篠原と喧嘩をして一旦は別れたものの、彼のことを忘れられず、修学旅行で告白した歌子。実は篠原も歌子を思い続けていて、二人は関係を修復した。篠原のことを好きな王先輩は、篠原に告白したものの断られ、彼女の卒業式に彼が語った歌子への想いをぶちまけてしまう。

 一方、歌子は拓人の恋人片桐さんと話してから、彼女を苛む悪質なメールの主を突きとめていると思っていた。それは舞だと思っていたのが実は彼女の友人あやで、拓人のことを好きなあまり、またコンプレックスから行動していたのだという。歌子は二人とわかり合えず、自分の無力さを思い知る。

 終業式の日、歌子は長年対立していた元友人レイカと鉢合わせする。レイカは歌子に伝えていなかった怒りの理由をぶちまけた。歌子は自分の悪い部分を自覚し、レイカに謝った。レイカのほうも、それを理由に歌子に対する罪悪感を抱き始めたようだった。歌子はレイカのことが嫌いではなくなってきていた。

 歌子は、三年生になる。進路や将来のことを決める時期に来ていた。

 自覚のないまま三年生になってから十日ほど経ったある日、わたしはテレビの画面に釘づけになっていた。モノクロの画面はちらちらとわたしの視覚を刺激し、自分がこの世に存在するというさっきまで紛れもなかった事実が、頭の中からきれいに消えていた。画面の中では女性が裾の広がったドレスを着てお辞儀をしていた。抑揚のある声で話し、現実世界の女性たちよりリアリティーを持って、優美に振る舞った。彼女は女優だった。彼女の容姿を、特に美しいとは思わなかった。むしろ意地悪そうな顔だと思ったし、彼女はそれほど若くなかった。なのに絶対に覆しようのない美しさが、彼女の振る舞いからわたしに押し迫ってきた。眉の動き、手の仕草。細かな表現が彼女の演じる女性を口は悪いが善良な女性として完璧に演出していた。最初は意地悪そうだと思った容姿は、とても美しく優しい女性のそれだと感じさせるようになっていた。何より、迫力があった。彼女は常に存在感があり、わたしはずっと彼女ばかり見ていた。すごい、すごい、とわたしはつぶやいた。こんなすごい女優を、わたしは見たことがない。

 共感を求めて振り向くと、美登里はあくびをかみ殺していたし、渚に至ってはソファーにもたれて眠っていた。夏子だけが面白そうに画面を観ていたが、彼女はこの女優にそれほどの衝撃を受けていないようだった。わたしはがっかりしながらまた画面に目を移した。女優が煙草を優雅に吸い、煙を吐きながら語るのを見た。彼女は女の人生を語った。その声音や表情は悲しみや諦めに満ちていて、彼女が演じる女性の気持ちを余すところなく表していた。素晴らしかった。彼女は最高の女優だった。そして、素晴らしい映画。この女優は名女優の役を演じているのだが、彼女は付き人に名声を奪われてしまうのだ。不穏な空気を残し、映画は終わる。わたしはエンディングロールを食い入るように見る。一人一人の名前を確認する。アルファベットの名前を素早く読めないことを悔しく思いながら。現代のものよりずっと短いエンディングロールすら終わってしまうと、わたしは夏子の横に置いてあるDVDのパッケージを慌てて手に取った。夏子が不思議そうに見守る中、わたしは主人公の一人を演じた先ほどの女優の名前を確認する。ベティ・デイヴィス。そして、作品名は「イヴの総て」。わたしは長い長いため息をついた。ほとんど呼吸を忘れていたのだ。でも、緊張が解けたと思ったら、興奮が訪れた。鼓動が激しくなったまま収まらない。

 そんなわたしを後目に、渚が目を覚まし、「あ、終わった?」と不明瞭な声で訊いた。わたしの親友がこの感動を共有していないなんて、と驚いた。美登里は「面白かったねえ」なんて感情のこもらない声で言っているし、夏子は映画のうんちくを滔々と述べている。わたしが胸の中に抱いているこの物言えぬ興奮は、わたしの友人たちにもたらされてはいない。わたしは突然孤独を抱いた。世界で一人だけ、この映画に深くのめり込んだ人間であるように思えた。このときばかりは、わたしがこの映画に選ばれた特別な人間であるように感じた。もちろん、それは違う。世界中にはそんな人間がたくさんいるに違いない。だからこそこの作品は名画として世に知れ渡っているのだ。けれど、わたしは雷に打たれたような感動を得て、それは一生あるかないかのものであるように感じたのだ。

 総一郎に薦められたアメリカの古い小説が有名な映画になっていた。それを観たいと言っただけなのに、夏子が「今日は映画の日にしよう」と張り切って、同じくらいの時代の作品をたくさん持ってきてくれたのだ。観たのは二本だけだけれど。目当ての作品だった一本目も面白かったけれど、ここまでの衝撃はなかった。それでも何か予感めいたものを感じていた。モノクロの人物が楽しげに、心から明るく振る舞う映画に惹きつけられていたのだ。それから夏子が半ば無理矢理にわたしたちに見せた二本目が、「イヴの総て」だった。演劇界の内幕ものだよ、と言って。わたしは夏子に感謝した。わたしの人生が軌道を変えた。それもいいほうに。停滞していたわたしの人生が、エネルギーを蓄え始めていた。

 映画を観終えたので、四人でお菓子を食べながらおしゃべりをする。心ここにあらずのわたしが気になるのか、渚が「大丈夫?」と訊く。わたしは笑って、「大丈夫」と答える。頭の中では映画の場面が押し寄せるように上映されていた。とめようがなかった。

 夕方になり、三人は家に帰ろうと準備を始めた。夏子が持ってきたDVDをまとめてバッグに入れようとしているのを、わたしはとめた。

「貸してくれない? 他のも観たい」

 と懇願すると、夏子は嬉しそうに笑いながら、

「いいよ。気に入ってくれたんなら嬉しい。でもこれ十本くらいあるよ」

「いい。全部観る」

 夏子が目を丸くした。わたしはうなずき、もう一度「全部観る」と繰り返した。

 三人は珍しい人間を見る目でわたしを見ながら、帰っていった。最高尾にいる渚の淡い髪が光に透けるのを見送ってから、わたしは急いで玄関から居間に引き返した。両親は出かけていていなかった。時間を確認し、まだ大丈夫だとわかってから、先ほどまで見ていた「イヴの総て」を取り出してデッキに挿入した。

 映画が、再び始まった。


     *


 毎日、狂ったように映画を観た。古いアメリカ映画ばかり何本も。居間で観るしかないので、平日は家に帰ってからの数時間が勝負だった。ヒッチコックが撮った、おびただしい数の鳥が人間を襲う怖い映画を観て怯え、豊満で美しい金髪のマリリン・モンローが歌うのにうっとりし、オードリー・ヘップバーン演じる王女のロマンスに胸を打たれた。優雅な身のこなしの俳優が、歌いながらローラースケートで滑って行くのを呆然と眺めた。フィクションが、正しく機能していると感じた。人を救うフィクションが、そこにあった。一つ一つの映画を観始めるとき、わたしは魂を持ち上げる気分だった。今から映画を観る。怖いかもしれない。悲しいかもしれない。能天気すぎて馬鹿らしく思えるかもしれない。でも、これらの映画はわたしを救ってくれる。

 別に、人生に不満なんてなかった。多少困難でも手助けしてくれる人がいたから。それでも救いがたい部分が、わたしにあるのだとようやくわかった。わたしには弱さがある。傲慢でもある。すでに傷ついた部分もある。損なわれた部分だってある。映画を観ている間、わたしはそれを全部救われている気がした。全部許され、修復されている気がした。善い人間になった気がした。

 ある日三度目の「イヴの総て」を観、映画を方向づけるベティ・デイヴィスの決定的な台詞を字幕で読みながら、わたしは泣いていた。馬鹿みたいだと思いながら、この善なる素晴らしい映画の画面を見つめていた。


     *


 一週間で十一本の映画を観た。繰り返し観たものもあったので、合計するとすごい数になる。やっと現実世界に戻ったような気になりながら、わたしは放心していた。

 学校では、わたしは美登里、夏子、拓人と同じクラスになっていた。他にもたくさんのクラスメイトと仲良くなっていて、わたしは去年の始まりまであり得なかった自分の境遇に驚いている。美登里も夏子も仲良くしてくれる。拓人もよくしてくれるし、片桐さんとは名前で呼び合う仲になった。静香は勉強ができるほうなので、四組になった。わたしは五組。担任は田中先生、副担任は中村先生。ほとんど変化がないけれど、不満はない。光と舞ちゃんは四組、レイカと坂本さんとあやちゃんは六組。わたしはこの間の会話のあとから、レイカとすれ違っても無関心ではなく気にするようになっていた。総一郎と渚と岸は一組で、一番勉強が厳しい理系クラスなので当然といえば当然だ。三人はとても勉強ができる。新しい環境に順応し、わたしは満足していた。映画を観る日々が続き、気持ちが落ち着いていたのもあるだろう。

 日曜日の夕食後、ぼんやりと自分の部屋のベッドに腰かけて、学校のことを考える。授業のことも考える。授業は難しくなっていた。特に理系科目はわたしには過酷だった。それでも頑張るしかない。でも、何か引っかかりがある。やれるんじゃないかな、とわたしは感じ始めていた。勉強を、映画のために頑張れば、わたしはやれるのではないか。映画のために? 勉強を? わたしは自分の奥底からの提案に、ぽかんとしていた。それからにわかに興奮し始めた。

 携帯電話を取り出した。それから画面を触り、インターネットの画面を開いた。頭に浮かんだ言葉を検索窓に打ち込んで待つと、ずらっと情報が出てきた。わたしはどきどきしながらそれらを一つ一つ選び、タップした。

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