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蜂蜜製造機弐号  作者: 酒田青
高校二年生 三学期
113/156

総一郎と将来の話

 きっとわたしは世間知らずで、傲慢なんだと思う。そのことは何となくわかっていたけれど、気にしていなかった。わたしが住む世界にはあやちゃんと舞ちゃんが感じているような薄暗さや屈辱がなくて、そのせいか彼女たちの辛さをちゃんと理解できていない。コンプレックスを強く感じ続ける人生が、想像できない。だから、わたしはきっと彼女たちに完全に同意することはできない。

 ただ、わたしは悲しかった。足掻くこともできず、他人を憎むことしかできないあやちゃん。あやちゃんにすがりつくことしかできない舞ちゃん。

 わたしは二人と仲良くしているつもりのとき、二人をちゃんと見ていなかった。いつも一緒にいるので、二人をただの仲良しだと思っていた。クラスで孤立しているわけでもないから、望んで目立たないようにしているくらいにしか思っていなかった。違ったのだ。わたしが二人に嫌われたのは、その無神経さも大きかっただろう。

 渚に電話しようと、携帯電話を手に取った。そうするのはもう三度目だった。壁掛け時計が十二時を指しているのに気づいてやめた。わたしはずっと悶々と夜を過ごしているのだった。

 わたしにできるのは、二人を理解することではない、と思う。考え方と経験の違いが二人との溝を深くした。あやちゃんがわたしと片桐さんにしたことも大きかった。そしてわたしには二人に寄り添うだけの度量がないのだ。そうすべきでもない。

 ただ、祈ろうと思った。二人がいつか、辛さから逃れることができるよう。それくらいしかできない。


     *


 憂鬱な気分のまま、土曜日がやってきた。今日はホワイトデーなので、総一郎とデートをする約束だ。

 ふくらはぎの丈までの柔らかいシルエットをした赤いスカートを穿き、淡いグレーの薄手のセーターに体をくぐらせる。髪をとかし、鏡に上半身を寄せながら睫毛にマスカラを塗る。マスカラに気づいてもらえないのは毎度のことだけれど、欠かさずやる。横に向けたマスカラで睫毛をとかすようにし、それから二、三回じぐざぐに塗る。睫毛は少し、存在感を強めた。それから爪を見て、磨き残しがないかを確認する。昨日の夜、しっかり磨いたのだ。憂鬱が顔に残っていないかをよく調べて、わたしは立ち上がってベッドの上のジャケットを手に取った。総一郎のために準備をしていたら、気分が晴れてきた。何となく明るい気分で、わたしは部屋を出た。

 待ち合わせ場所は図書館で、総一郎は二階の学習室で勉強をしていた。辞書や厚い本を広げてノートに文字を書くことに没頭している彼を遠目に見ていると、何だか寂しくなった。わたしは総一郎しか見えていないけれど、彼には他にも見えるものがあって、それは自分の将来だったり夢だったりするのだ。彼の努力はわたしを置いてきぼりにする。でも、彼の夢が叶ってほしいという気持ちはあって、もどかしさに身悶えしそうだった。

 ふと、彼が顔を上げ、わたしに笑いかけた。彼の視線がわたしだけに集まっているこの瞬間が、たまらなく嬉しい。彼は立ち上がって辞書などをまとめ、リュックに詰めて片方の肩にかけ、わたしの元にやってきた。わたしたちは笑い合い、黙って下に降りた。図書館を出ると、そこは古い手入れされた庭で、丸く刈られたツツジが並ぶ花壇を囲んで煉瓦の地面があり、更にそこを囲む大きな落葉樹からは、赤い芽が出て新しい枝が生えてきていた。春の匂いがした。ただ、肌寒さはまだ続いていた。

「総一郎、頑張ってるねえ」

 わたしは明るく笑う。さっき寂しかったことなんかおくびにも出さずに。総一郎はうなずき、

「もうすぐ進級だしな。油断は禁物だよ」

 と微笑む。わたしも一応勉強はしているが、身が入らなかった。焦りばかりがお腹の奥にあり、やすりのようにわたしの胃を荒らすのだ。わたしには夢がない。目標もない。人生の指針もない。そして唯一の「総一郎のそばにいたい」という願いは彼本人に却下されてしまった。

 わたしは笑った顔を作ったまま、総一郎に訊く。

「今日はどこに行く?」

「本屋」

「また?」

「必要な本があるんだ。ちょっとつき合ってくれよ」

 総一郎は歯を見せて笑った。わたしはうなずき、

「わたしも何か面白い本を探そうっと」

 と言って総一郎の手をぎゅっと握った。わたしの手は彼の手に比べればとても小さいので、しっかり掴めたのは人差し指から薬指までだ。総一郎はわたしの手をほどいて、自分の大きな手でわたしの手を包み直した。

「じゃ、行こう」

 彼は笑ってわたしと一緒に歩き出した。

 大型書店で大学の過去問題集の背がずらりと並んだ書棚を眺めながら、わたしはぼんやりする。総一郎は時折立ちどまって、中をぱらぱらと流し見している。父がわたしに行かせたがっている地元の大学の問題集もあったけれど、まだ早いから、と自分に言い聞かせて手に取ることもしなかった。

「歌子は勉強してる?」

 総一郎が訊くので、わたしはうなずく。

「してるよ。でも全然できるようになった気がしない」

「一緒に勉強しようか? 土日の午後とかさ。午後の図書館も静かでいいよ」

「そうだねえ」

 わたしの生返事に、総一郎は困った顔をする。

「歌子、真剣にならないと。来年になったら……」

「ね、総一郎。わたしのこと好き?」

 総一郎は言葉に詰まったようになる。わたしは微笑み、「好きって言って」と彼に一歩近寄る。総一郎は困惑しつつも冷静に答えた。

「そういうの、言うような場所じゃないから」

「そっかー」

 わたしは彼を置いて歩き出す。彼が慌てて追いかけてくるのがわかる。店の裏手にある人気のない階段までやってきてから、彼は訊いた。

「どうしたんだよ」

「総一郎、わたしは総一郎と一緒に東京に行きたい」

「それは駄目だって言っただろ」

 総一郎は眉尻を下げてため息をつく。

「どうして?」

「おれのために大事なことを決めちゃ駄目だって言ったろ?」

「どうして?」

「どうしてって……。歌子の人生を、おれなんかのものにしちゃいけないと思うから」

 どきっとした。総一郎は、真剣な表情でわたしを見た。

「歌子はおれの自由を尊重してくれるのに、どうしておれには歌子の人生を歪めていいみたいに思ってるんだよ。嬉しいけど、何か悲しいよ」

 わたしはどきどきした。「悲しい」という単語が総一郎の口から出たのは初めてだからだ。総一郎は唇を軽く噛んでから、こう言った。

「歌子には、自分の人生を歩いてほしい。そして、おれの人生と交わるところがあるのなら、一緒にいてほしい」

 一緒にいてほしい。その言葉の重さが、わたしに現実感を取り戻させた。そうだ。わたしは自分の将来を、何か現実味のないもののように扱っていたのだ。わたしは、いつの間にかやってくる未来を、受け身の姿勢で捉えていた。それは、わたしにとっても、総一郎にとってもよくないことだった。

「ごめん」

 落ち込んだわたしがうなだれていると、総一郎はわたしの肩に両手を置いて、明るい声を出そうと努力していた。

「歌子はおれを大切にしてくれてる。おれも歌子を大切にしたいんだ。だから、もう少し真面目に考えてほしい」

「わかった」

 わたしは顔を上げて総一郎を見た。彼はほっとしたように笑い、体を離した。

 わたしたちは夕暮れの時間まで、ゆっくりと過ごした。帰りに、彼はわたしにホワイトデーのプレゼントをくれた。クッキーの入った小さな缶だ。

 家に帰り、自室にこもってクッキーを口に入れる。クッキーは軽く噛んだだけで崩れ、ほろ苦い味がした。

「将来かあ」

 わたしはつぶやき、窓の外を見た。薄暗い空に、半月が見えた。何か、大切なものが見つかる気がした。

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