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蜂蜜製造機弐号  作者: 酒田青
高校二年生 三学期
104/156

拓人の家

 片桐さんと一緒にテラスから校舎の中に入り、片桐さんと別れてから、わたしは渚と合流した。渚が心配そうに「片桐さん、どうしたの?」と訊く。わたしは一瞬全部話してしまおうか迷ったけれど、考え直してやめた。

「片桐さん、色々悩んで拓人と別れたんだって。その話を聞いてた」

「そう」

 曖昧な話し方をするわたしに、渚は複雑な顔でうなずいた。

「拓人と話してみようかなあ」

 わたしの言葉に、渚がぎょっとした顔をする。

「何言ってんの。相手は歌子をずっと想い続けた男だよ。この間歌子が振ったばかりなんだよ。それなのに、浅井の元彼女のことで、話しに行くの?」

 確かにそうだ。きっとこれはお節介だし、拓人をいい気分にはしない。でも、片桐さんの落ち込んだ顔を思い出すと、そうも行かなかった。片桐さんは、別れたくて別れたわけではないし、拓人も片桐さんのことを本当に好きだったのだ。だって、片桐さんに振られたとき、拓人は泣いていた。おかしなメールがわたしにも届いていたことや、片桐さんがメールのことを誰にも話していないらしいことを考えれば、わたしが拓人と話さなければ、片桐さんは長く悲しい思いをするのだ。片桐さんがずっと我慢して苦しんでいたことを、拓人に伝えたかった。片桐さんは拓人を嫌って別れたんじゃないんだよ、と教えたかった。でも、それはほとんどわたしのお節介で、本当にやるべきことかはわからなかった。

「そうだね」

 わたしは少し考えてからそう答え、渚はほっと胸を撫で下ろしたようだった。それでも心配そうにわたしを見て、

「家が近いもんねえ。絶対話しに行っちゃ駄目だよ」

 と眉をひそめる。わたしは笑って渚の顔を見て、うなずかずに歩きだした。総一郎のクラスで、昼食を取るのだ。最近は、また総一郎や岸と一緒に食べることが増えていた。

「よーく考えてよね」

 うなずかないわたしを見かねてか、渚はわたしの前に回り込んで念を押した。わたしはそれにうなずいた。考えることなら、うなずいたっていい。


     *


 土曜日の夕方、わたしは拓人の家のインターフォンのボタンを押していた。「はい」と拓人の無防備な声。「わたし」と言うと、息を呑む気配がし、一瞬考える間があったあと、「どうぞ」と無感情な返事があった。わたしは勝手知ったる他人の家なので、黒い鉄の門の内側の掛け金に手を伸ばして外すと、小道を歩いて黒っぽい和風の拓人の家の玄関扉を引いて開けた。拓人は玄関の上がりかまちに立って、困惑気味にわたしを見下ろしていた。クラスが同じなのでいつも見る顔だが、クラスメイトに向ける顔しか見ていないので、この戸惑った顔を正面から見るのはちょっと気まずい感じもある。

「家、誰もいないんだけど」

「あ、そうなの?」

「ばあちゃんは夕飯の材料買いに行ってるし、母さんと父さんは夜まで仕事で帰らないし」

「そっか」

「……それでも上がる?」

「うん」

 わたしは迷わずうなずいた。拓人は小さくため息をつき、「じゃ、居間で」と言って身を翻した。わたしはそれに続く。玄関から見て正面に臨む階段は拓人の部屋に続くが、わたしたちはそれを通り過ぎて木目調の引き戸を引き、居間に入った。床暖房が入っていて、足下まで温かい。お菓子を食べながらテレビを見ていたらしく、灰色のソファーの上にはスナック菓子の袋とリモコンが転がっていた。

「ご飯の前にこんなにお菓子食べたら、入らなくなるよ」

 何気なく言ったわたしに、拓人は憮然とした顔で、

「うるせえなあ」

 とつぶやく。やっぱり振ったわたしが堂々とやってきたので、不愉快なんだな、と思う。わたしはソファーに座り、台所に消えた拓人がまた来るのを待つ。ほどなくして、拓人は梅昆布茶を持ってやって来た。自分の分は緑茶だ。わたしの好きな飲み物が梅昆布茶だということを、よく覚えていたなと感心する。それだけ彼がわたしと長いつき合いで、わたしをよく見てきたのだとわかった。

「お菓子食べていい?」

 と言いながら、拓人の食べかけたスナック菓子の袋に手を突っ込むと、彼は下を向いて長いため息をついた。それから顔を上げてわたしを見ると、こう訊いた。

「で、何の用?」

 ぱり、とお菓子をかじり、咀嚼し、飲み込んで、熱い梅昆布茶を一口味わってからわたしは答えた。

「片桐さんのことで話があって」

 拓人は絶句した様子でわたしを見ていた。

「ごめん。すごくお節介だと思うけど、言わなきゃって思って」

「かなりお節介だよ」

 拓人はまたため息をついた。それから、わたしの顔をまともに見る。

「わかってる? 歌子はおれを振ったんだぞ。で、篠原とよりを戻したんだ。それなのにおれ以外誰もいない家にやって来て、静香の話をする。おかしくないか?」

「うん、おかしい」

 わたしが答えると、拓人は下を向いて力が抜けたようにソファーに寄りかかった。

「何だよ」

「話しておきたいことがあってね。それで」

「おれは歌子のこと、好きだったんだぞ。そんなおれのところにほいほいやって来てさ」

 拓人はソファーの端から立ち上がり、わたしの前に立った。それからわたしが座っている位置の背もたれに両手を着き、わたしの視界は拓人の体で塞がれた。拓人の顔も、目の前にある。

「変なことされるかもって思わないの?」

「思わないよ。だって拓人だもん。信用してる」

 わたしの落ち着いた声に、拓人は力が抜けたようにがくりと頭を垂らした。わたしの目の前には拓人のつむじがあり、かすかに汗のにおいがした。はあ、と拓人がため息をつきながら手を離し、また元の位置に座る。わたしの横にあったスナック菓子を奪い取り、中身を口に放り込んでわたしを見る。

「で、静香のことで話って何なんだよ」

 以前と同じ調子の声だった。わたしはほっとしながらうなずき、話をした。昨日、片桐さんに会ったこと。片桐さんがおかしなメールをもらっていたこと。別れたくて別れたわけではないこと。片桐さんはまだ拓人のことが好きだということ。拓人はひざにひじをつき、頬杖の格好で遠くを見ながら聞いていたが、話が終わると視線だけわたしに寄越し、

「本当に?」

 と訊いた。わたしはうなずき、わたしに届いていたあのメールを表示させて拓人に見せた。わたしももらっていたという説明を聞きながら、拓人は顔をしかめてそれを読んだ。それから、体を屈めて頭を乱暴に掻くと、

「マジかよ」

 と悔しそうな声を出した。

「静香も、歌子も? おれのせいじゃん。何で言ってくれなかったんだよ」

「拓人のせいじゃないから、言えなかったんだよ。だって、何にも悪くないじゃん。悪いのはこのメールを出した人でさ」

「でも、気づかなかったんだぞ。へらへらしながら二人と関わって、全然気づいてなかった。静香なんて、半年以上ずっとだろ? 言ってくれればよかったのに」

「片桐さんは、拓人に心配かけたくなかったんだよ」

「でもさ……」

「片桐さんは、まだ拓人のことを好きだよ。好きだから、言えないこともあるんだよ」

 拓人はわたしを見上げた。それから唇を尖らせてわたしの携帯電話の画面を見つめる。

「歌子、ありがとうな」

 ふと、拓人の口から言葉が漏れた。わたしは少し驚いて彼を見た。彼は、わたしをじっと見つめて、こう言った。

「今まで何でだろう、何で静香はおれを振ったんだろうって考えてたんだけど、一人じゃ絶対答えが出なかったよ。歌子が教えてくれてよかったよ」

 まあ、絶対お節介だけど、とつけ加えながら。わたしはほっとしてため息をついた。

「あー、よかった。拓人とますますこじれたらどうしようって思ってたんだよね」

「何だそれ。自信満々に見えたけどな」

 拓人が片頬を上げて笑う。

「ううん。賭けだったんだ。拓人が怒るか、受け入れるか」

「勝手に賭けの対象にすんなよ」

 拓人はにやっと笑ってわたしを見た。わたしは「ごめん」と手を合わせる。それから、笑う。

 しばらく拓人の身の回りの話をしてから、わたしは「じゃ、帰るよ」と立ち上がった。拓人は一緒に玄関までついて来た。

「なあ、歌子」

 玄関で座ってスニーカーの紐を直していると、後ろから拓人の声がした。わたしは「何?」と訊く。

「おれな、歌子を抱きしめたとき、本当に歌子を諦めてよかったのかなって思った。このまま押し切っちゃえ、とも思った。歌子のことが好きだったことを、はっきりと思い出した。でもさ、篠原のことを必死で追いかける歌子を見たとき、あ、勝ち目ないやってわかった。告白したのだって最後の足掻きだよな。答えはわかってたのに。だから、おれ、歌子と篠原が末永く続くことを願ってるよ」

 靴紐を直し終わり、わたしは振り返った。拓人はにっこり笑っていた。わたしが何かを答える前に、彼はこう言った。

「他の女子に取られんなよ。他ならぬおれが応援してるんだからさ」

 わたしは彼のわたしへの思いが、完全に消えていることに気づいた。いつもどこかにあったあの熱のようなものが、どこにも見あたらない。あるのは温かい親愛の笑みだけ。いつからそうだったのだろう、と思った。わたしが二度目に振ったときだろうか。それとも、もっと前だろうか。わたしは自分が今日彼の家を訪れるずっと前にそうなっていたことがようやくわかった。少し寂しい気分だった。彼との関係が更新されたと感じられたから。

 わたしは微笑み、うなずいた。

「ありがとう。末永くやっていくからね」

 それからわたしは彼の家を出た。門を開いてアスファルトの道に立ち、彼の家を見上げる。

 きっと、ここに来る機会は今まで以上に減るだろう。そう思った。

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