お嬢様は慎み深く、物怖じいたしません ~職業ジャズピアニスト 犬養祐輔の苦悩~
(ああ、くそっ、これ以上どうしろって言うんだっ)
己の胸に顔を埋める少女のやわらかな重みと温かさに、今年三二歳を迎える犬養祐輔は片手で顔を覆った。
無論、もう片方の手は少女の薄い肩を掴んでいる。否、乗せていると言ったほうが適切か──。
顎下にある少女の頭から漂うのは、これまで腕に抱いてきた数多の女たちが纏っていた香りとは明らかに違う芳香。
これが育ちの良さなのかと瞑目するほどに品の良い香りは、少女特有の張りとしなやかさのある肢体の存在感と相まって、祐輔の五感と理性に訴えかけていた。……否、陥落寸前にまで追い詰められていた。
こうして胸中で悪態を付いていなければ、眼下にある飾りもなくシンプルに夜会巻きにセットされた髪の中に指を差し込み、乱して、片手で簡単に掴んでしまえるほどに細い首筋に唇を寄せ、舌を這わせそうになる。
(だ、駄目だっ、青少年保護条例っ、淫行罪で捕まる! そう、せめて十八歳ならぎりぎりセーフ……って、おおおいっ、俺!)
祐輔の邪な考えを察知したのか、少女が連れてきた護衛の片割れから浴びせられる眼光が、更に強くなった気がした。……ちなみに、もうひとりの護衛は、アイフォン片手に迎えの車の誘導に出て行っている。
確かにこの店は、本通りから少し外れた一方通行の狭い車道に面している為に、車が──それも黒塗りの高級車が駐車出来るスペースなどなかった。けれど、少女の護衛でもう何度かこの店に通っている為、誘導というよりも確認の為に外へ出て行ったのだから、戻ってくるのは時間の問題だろう。
これ幸いと少女の肩に置いた手に力を込めた瞬間、引き離されまいと、少女の右手がベストの襟を掴んできた。
──何故だろう。
今ものすごく胸がときめていてしまった。
(……本気で勘弁してください)
理性と萌えの狭間に苦悩する男は、深く、深く嘆息を吐いたのだった──。
完全に陽が沈む時間にもなると、ジャズ・バー『レイニー』のシンプルな看板に取り付けられたちいさな照明が青白い光を灯すのはいつものこと。
さして広くもない店内にある五つのカウンター席や六つのテーブル席は既に客で埋まっていた。
昨今あってないようなドレスコードも、老舗店でもある『レイニー』に通う客たちはしっかりと踏まえられる分別があるのか、男はジャケットに革靴姿であり、女性もまた節度あるドレスアップをしている。
老舗の看板にも恥じない客のマナーの良さは、ジャズ雑誌にも度々紹介され、絶賛されるほどの優良店でもあった。
防音の為、地下に造られた空間に窓や無粋な光を放つ蛍光灯が備わっているはずもなく、各テーブルに配された暖色にくゆるランプの明かりだけが軽い食事と会話──そして酒と、一部では煙草を愉しむ客たちの顔や手元を照らしている。
たったそれだけで、隣席との距離が近いテーブルに座る客たちのプライベートが適度に守られていた。
しかし、それまで僅かな音量で流れていたBGMが途切れ、暗闇に沈んでいた一角から聞こえてきたサックスのチューニング音に、一瞬にして意識を絡め取られてしまう。
大きな歓声こそなかったものの、待っていたとばかりに拍手が飛び交う中で、闇色だった一角にライトが当たり、楽器を携えた四人の男たちの姿が浮かび上がった。
彼等は皆、白のワイシャツに黒のネクタイ、黒のベストにスラックスといった揃いの服をスマートに着こなし、迎えられた拍手にちいさく礼を返している。そして、おもむろに始められた艶を帯びたアルトサックスが奏でる旋律を、ドラムとコントラバス、アップライトのピアノの音色がしっとりと追い掛けて始めた。
──曲目は古典的なジャズとして人気のある『モーニン』。
これで一気に客の心を掴んだ彼等は次々に曲を披露し、ひとつの曲が終わる度に惜しみない拍手を浴びた。
後半、女性客たちに乞われてステージに上がったバーテンダーの男がボーカルとして加わったことで、より一層盛り上がったのは言うまでもない。
披露された『バードランドの子守唄』は、甘く掠れるバリトンの声を持つ彼のお得意のナンバーであり、蕩けるほどに緩んだ顔付きの女性客たちが漏らす感嘆の溜息をすべて攫っていった。
そのどれもが自然で、誰にとっても待ち望んでいた時間が流れる場所。
それがジャズ・バー『レイニー』の存在意義でもあった。
「こんばんは」
今宵二度目の生演奏の時間が終わり、照明を搾られた一角へと歩み寄るひとりの歳若い女が、アップライトのピアノの前に座る男に声を掛けてきた。
「……お嬢さん、また来ていたのか」
シンプルに夜会巻きされた髪型に、膝丈のノーブルな黒ドレスを品良く身に纏う女を横目でちらりと確認した男は、どこか諦めたように嘆息をつくと、気だるげにネクタイの結び目を緩めてすげなく応えを返した。
「今夜も素敵な演奏をありがとうございました」
「そりゃどーも」
顔を見合わせることもなく返された男の声音に宿る僅かな照れを聞き逃さなかった女は、艶やかな笑みを湛え、さも楽しげに喉を鳴らす。
「そ、それよりっ、……今日もちゃんと保護者を連れてきてるんだろうな?」
揶揄を含んだ笑い声に羞恥心を刺激され、女に背を向けるように身体を捻った男は、周囲に泳がせた視線で捕らえた存在に安堵の息をつく。
その反応ひとつひとつが相手に悦ばれていることに気付かない男は、そのまま女を顧みて苦虫を噛む羽目となる。
「心配してくださってありがとうございます」
心の底から喜んでいるとわかる笑顔に、半ば気圧されてしまったのだ。
「……いや、本来は、未成年が来られる場所じゃないんだ。それに、ここにくる連中が純粋に酒と音楽を愉しもうとする人間だとしても、粗野な輩が出入りしないとは言い切れない場所だ。……何度も言うが、ここは上流社会に浸かったお嬢さんが来ていい所じゃないんだ」
「己の年齢や持って生まれた立場を鑑みて、護衛を付けるのは当然のことだと理解しています。ですが、祐輔さんのお言葉には承諾しきれない箇所があります」
そう言って浮かべた微笑みは、品が良いのに妙な迫力があった。
「上流社会に浸かった人間は、ここに来て音楽を愉しんではいけないのですか?」
「──わ、悪かったっ」
男は慌てて謝罪するが、少女は黙って微笑んでいる。
ひと回り以上の歳の差があるにも関わらず、男は女に強く出れないでいた。
特に、今のような笑顔を浮かべている女──否、少女には逆らうことができないのだ。
「あ~、その、なんだ。……心配なんだよ、俺は」
誰のことを指しているのか、正確には告げていないけれども、相当に鈍い人間でなければ看破できてしまうだろうことは想像に難くない。
それは言ってしまった男とて、己の発言のまずさに低い唸り声を漏らし、鍵盤の蓋の上に片肘を付いてがっくりと肩を落としてしまったほどなのだ。
当然、常人よりも遥かに教養のある、機転もそつなく利かせられる少女がわからないはずもなく、次は何を言われるのか、正直怖かった。
だがすぐに、「嬉しい」と、密やかに落とされた思いも寄らなかった言葉に、男は勢い良く少女を振り仰ぐことになる。
「だって、興味のない人を心配なんてしないでしょう? ……祐輔さんに気に掛けて貰えているのだと知れて、とても嬉しいんです」
「──っ!」
よほど物問いたげな表情をしていたのか、口元を綻ばせながら囁くようにして答えを返してきた少女に、男は息を飲んだ。
それと言うのも、向けられたその微笑みが常時浮かべている微笑ではなく、年相当と呼べるもので、三十路過ぎたおっさんには眩くて直視出来ない──視覚の暴力並みの破壊力を持っていたからだ。
──思わず、少女の腕を掴んで引き寄せそうになってしまった。
(……って、駄目だろう俺。うっかり手を出していい相手じゃないんだぞ!)
本来ならば、戦前から続く名家のお嬢様である少女に気安く声も掛けられない身の上なのだ。
何の因果か、とある政治家の資金集めパーティーで出逢ってしまったのが運の尽き。パーティーの賑やかし要員であったジャズバンドの演奏者だった男と、兄の社交パートナーとして同伴していた少女との、一期一会で終わるはずだった出逢い──。
予定されていたすべての演奏が終わり、片付けは閉場してからと、事前に指示があった為、それならばと仲間から外れて用を足しにやってきた化粧室前で、男に絡まれていた女の招待客と目が合ってしまった。
やや深めのVラインでも品を損なわないのは、ドレスの素材と作りがいいのか、着用者がいいのか、それともそのどちらともなのか──。
ともかく、パールのミニクラッチバックを持ったロイヤルブルーのカクテルドレスの女は、こちらを見て微笑んできたのだ。
──ピアノ弾きという職業柄よく見掛ける、セレブリティ溢れる社交場での一場面。
常とは違うところを敢えて挙げるのならば、男に絡まれていた女が、もしかしたら未成年者なのではと、そう思わせる若さが滲み出ていたことだろうか。
確かに、男女の年齢差を鑑みれば、眉を顰める組み合わせだった。
だが下手に正義感を発揮して、上流階級の相手に楯突くことで無駄にトラブルを抱えるよりも、見て見ぬ振りをしたほうが無難であろう──と、頭ではそう判断していたのだ。
しかし、女に微笑まれた瞬間、背筋を突き抜けていった極度のプレッシャー。
気付けば己の足は、一歩前に踏み出していた。
何故ならば、このまま素通りすることができない、妙な脅迫感があったのだ。
その結果、絡む男から助け出した(もしかしなくとも、その必要はなかったかもしれない。……今思えば)女に──それも世界のマーケットにもその名を轟かす九十九物産のご令嬢に気に入られてしまったのだ。
本来ならば互いを認識することなく、その辺の風景と一緒で、何の感慨もなく通り過ぎていたはずのふたりだった。……たとえ偶然の邂逅があったとしても、身分違いといった時代錯誤な考えが真っ先に出てくるほどの格差があるのだ。
いかに本人たちの意志があろうとも、継続して関係を持つなど、周囲がまず許さない──はずなのに、何故こうなった。
(こんな歳の離れたおっさんのどこがお気に召されたんだか……)
そんな心の声が聞こえたのか、背筋がゾクゾクとする例の微笑みを浮かべた少女が、残り僅かに開いていた距離を詰めてきた。
「──っ!」
こちらへと伸ばされた白くたおやかな腕に目が釘付けになりながらも、上半身を反らして回避したつもりだった。……しかし現実は、シンプルかつ上品に装飾された(……これが俗に言うフレンチネイル、なのか?)爪が印象的な細い指に、形を崩したネクタイを掴まれ、上向きに引っ張られている。
強制的に顎が上がり、微笑む少女と目を合わせざるを得ない──まるで生殺与奪権を握られたかに等しい状況に思考は混乱し、冷や汗が浮かぶ。
そんな男の恐慌を感じ取ったのか、空怖ろしいことに、少女の微笑みに円熟が増したようにも見えるのだ。
「どうやら私、独占欲が強いみたいです」
「──は?」
唐突な告白に目を見開いた男の口から、間の抜けた声が零れ落ちる。
その声を拾った少女は僅かに苦笑を浮かべると、唖然としたままの男のネクタイを解き、慣れた手付きで丁寧に結び直してゆく。
心なしか少女の目元辺りが赤く見えるのは、間接照明のせいなのか、男の願望が為せる目の錯覚なのか──。
「身嗜みを崩される際は、不特定多数の目がないところでお願いします。……隙のある姿を、私以外の異性の目に触れさせないでください」
──何だ、これ。
今、ものすごく胸がときめいてしまった。……と言うのも、名残惜しげに離れてゆく少女の手首を捕らえ、目の前にある細い腰に腕を回して引き寄せそうになってしまったのだ。
引き寄せたら最後、少女との年齢差や身分の違い、それに今も射殺さんばかりの鋭い視線をこちらに放っている少女の護衛ふたりの存在も忘れて、可愛らしい嫉妬を述べたその唇に喰らい付いていた。
──確実に。
(……危なかった。本当に危なかった。たとえこの両腕が中途半端に浮いていても、ぎりぎりセーフだと言い切りたい)
はははと空笑いをした男だが、己を見下ろす少女が浮かべている表情──自身の発言を恥じているような、それでも一度抱いてしまった妬心を手放せないのか、ひどく戸惑っているのだろうその表情に、再び胸を撃ち抜かれてしまう。
常に淑女然とした態度を崩さない少女がふいに見せる年相当な感情の発露に、男は幾度となく目を奪われ、魅せられてきた。
──だけどこれ以上は……!
己の理性がどこまで持つのか、正直自信がない。
「……お願いを、聞き届けてくださいますか?」
整理の付かない自身の感情にどうにか折り合いを付けた少女の問いに、男はただただ首を縦に振ることしかできなかった。
「我が儘を許して下さり、ありがとうございます」
そう言って表情を安堵で綻ばせた少女に、男は盛大に呻き声を発しそうになる。
何故ならば、少女の関心が己に注がれていることが実感できて、嬉しく思ってしまったからだ。……だって、ちょっと考えてみてほしい。
若く美しい異性に好意を示され続ければ、こちらの気持ちも動いてしまうのは、致し方がないことではないだろうか?
相手との年齢差や身分の差に及び腰にはなってはいるけれど、実際のところ、かなり絆されて──否、やられているのだ。
そう、何だかんだ言い訳をしつつも、少女に惹かれているのだ。
(……こうゆう狡いところが、悪い大人だって言われてしまうんだろうな)
どこか諦めの境地に立たされた男が思うことは、だだひとつ。
(──ううっ、心身共に汚れていてごめんなさいっ。……だからどうか、俺を惑わさないでっ! お願い! 頼むから!)
そしてバーの営業時間も残り少なくなり、今宵も満足した少女が帰宅すべく別れの逢瀬となった冒頭のシーンへと戻れば、やはり思うことは同じで──。
(……本気で勘弁してください)
嘆息混じりのその思いは、何とも他力本願的な希望でしかなかったのだった。