お嬢様のティータイム ~老執事 山崎清三郎氏の独白~
更新は不定期予定ですが、よろしくお願いします。
早春の肌寒さも過ぎ去り、うららかな陽射しが続く皐月の空の下。早朝に水をたっぷりと浴びた庭の薔薇たちが瑞々しく咲き誇っております。ですが、わたくしの大切なお嬢様の気品ある美しさには敵いません。
立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花と、昔から唱えられてきた美人の代名詞がこれほど相応しい女性もいないでしょう。
旦那様や奥様も大変見目が麗しい方々ですが、おふた方の良いところをそれぞれ引き継いでいらっしゃるお嬢様には、衆人衆目を鮮烈に惹いてしまわれる華をお持ちでございます。
近い将来、ご成熟されたお嬢様がどれほどの艶をお纏いになられるのかと思うと、誇らしくも愉しみな反面、老婆心ながら心配でなりません。
さて、本日は土曜日。
何かと慌だたしい五月の連休が終わり、ようやく普段の静けさを取り戻した休暇の日。また、お通いになられている高等学校も休校となれば、久方振りにお取りになられるお昼食前のティータイムは、連日続いた社交界のお集まりで少々お疲れ気味のお嬢様にとって、平穏の象徴とも呼べるお時間でもございます。
わたくしこと山崎清三郎、六十四歳。
政財界屈指の名家、九十九家にお仕えしてちょうど節目の五十年。執事長として指揮を任されてから四十五年。家令としての権限を息子に引き継ぎ、お三人の男の子を設けられた当代様ご待望の女の子であらせられる十和子様付きとなって十七年。お嬢様の好みはすべて把握済みでございます。
用意にもぬかりはございません。
ぱりっと糊の効いたテーブルクロスの上には、英国式に配置された揃いの茶器たち。勿論、供されるのは珈琲ではなく、お紅茶でございます。
銘柄はフォートナム・アンド・メイソンのダージリン。香りを存分に愉しまれる為、お嬢様は砂糖を入れずにストレートでお召し上がりになられます。
本来の作法に則れば、ここで焼き菓子類がセットされているべきところですが、お嬢様が甘いものを苦手とされている為に、公式のお茶会でなければ滅多に上がりません。
これに関しては、料理長の西岡が常々嘆いでおりますが、お嬢様もそのことは良くご存知で、せめてお夕食後のデザートにはと、後味のさっぱりとしたシャーベット類や苦味の強いティラミスなどを良く好んでリクエストしていらっしゃいます。
わたくしの大切なお嬢様は、ご容姿や立ち振る舞いがお美しいだけでなく、一介の使用人にも気遣いを見せる心優しき女性でございます。……ああ、話が脱線してしまいましたね。申し訳ございません。気を取り直して続けさせていただきます。
ええ、先ほど述べた理由もあってか、いささか華やかさが足りないテーブルの上に唯一の彩りを添えるのは、お嬢様お気に入りのマイセン社のブルー・オニオンシリーズでございます。
中国の染付技術を生かしつつ、独特のシェイプを用いた磁器にエキゾチックな紋様がデザインされている有名な茶器でもございます。
シリーズ発売同時、絵付けされていた紋様のひとつである柘榴を知らないドイツの人々が、青玉葱と間違えたことからその名が付いたと言われておりますが、……ええ、言われてみればそう見えますね。くふふ、なんてユニークなネーミングセンスでしょうか。
名前の由来を聞いて胸がほっこりするだけでなく、白磁の上にすっきりとしたコバルトブルーの色で染付けされた花々が白いテーブルクロスの上で上品に咲き誇る様は、眺めているだけでも心が豊かになります。やはり、お嬢様の神秘眼は確かなようですね。
ですが、お紅茶自体を美味しく淹れられなければ、すべてが台無しとなってしまいます。
こればかりはわたくしの腕の見せどころと申しましょうか。いわゆるゴールデンルールで淹れられるかどうかで本来の味と香りが損なわれてしまう為に、大変気を遣う作業でもあるのです。
美味しく淹れる為には、常に良い品質の茶葉を使うことは勿論のこと、まずはポットとカップを温めてから使います。……ああ、茶葉の分量をきちんと計ることも忘れないでくださいね。
ポットに人数分プラスひとり分を加えることがポイントでございます。
目安といたしまして、一杯のお紅茶で三グラムでしょうか。この時注意して頂きたいことは、大きな茶葉はティースプーン大山がおひとり分。小さな茶葉はティースプーン中山がおひとり分でございます。
なによりも大切なことは、完全に沸騰した熱湯を使用することでございます。そして、ポットの中でじっくりと蒸らすこと。
ここで耐熱硝子製のティーポットを使用しますと、茶葉が対流するように動き回る様がご覧いただけます。大変見応えがございますので、一度是非お試しになってください。俗に言うジャンピングという現象でございます。
蒸らすお時間は、大きな茶葉なら三~四分。小さな茶葉なら二~三分を目安になさってくださいね。
正しく時間を計る為に、それぞれ砂時計を用いることをお勧めいたします。また、しばらくポットで蒸らす際に、温度が飛ばないようポットに被せるティーコージーが必要となります。必ず用意をしておきましょう。
時間がきたらティーコージーとポットの蓋を取り、スプーンで軽く掻き回します。お紅茶の味・色・香りを均一にする為でございます。……決して、強く掻き回さないでくださいね。渋味成分が出てしまいますのでご注意ください。また、一息に複数分淹れる場合には、それぞれのカップに回し注ぎをして濃さを一定にすることもお忘れなく。……ああ、大事なことを忘れておりました。
皆様、ポットに残ったお紅茶を温め直すこともおやめになってください。
とても後味の悪い渋味が出てしまうばかりか、香りも損なわれてしまいます。これも同じ理由になりますが、保温の為と、ティーコージーを被せたりもしないでくださいね。また、ポットに残る色味の濃くなったお紅茶を最後まで愉しむ為に差し湯をする際、間違ってもポットには注がないでください。カップに注いでください。
理由は推して然るべきと申し上げたいところですが、……そうですね。では、ひとつだけ。
美味しくなるよう丁寧に淹れたお紅茶がもったいのうございます。……ふう、少々熱くなって語ってしまいました。大変申し訳ございません。執事の本分を外れて我を失うとは、お恥ずかしい限りでございます。以後、気を付けて参ります。
わたくしの淹れたお紅茶の色、香り、味をゆっくりと味わっておられたお嬢様が、ふとお顔を上げられました。爽やかな微風によって届けられた花の匂いに、少し顎を持ち上げたまま目を細められております。
「とてもいい香りね。今年も薔薇が綺麗に咲いてくれて嬉しいわ」
心からリラックスされたお嬢様の声に、わたくしはそっと口元を緩めます。
先代様の奥方様がこよなく愛されたオールドローズたちは特に香りが良く、生育を管理する庭師のみならず、わたくしを含めたお屋敷に勤める使用人たちの癒やしにもなっております。
「そうでございますね。お嬢様がおちいさい頃、庭に咲く花々の中から薔薇を特にお褒めになられてからは、筆頭庭師の片桐がことのほか手を加えてお世話をしている為でしょうか。以前よりも薔薇の種類が増えて、随分と華やかなお庭になりましたね」
元々は旦那様の護衛班長──今風で言えばSPをしていた前歴の持ち主である片桐は、現役引退のきっかけともなった後遺症の残る右足を引き摺りながら、実に穏やかな表情で花木の世話をしております。
第一線を退いたばかりの頃に見せていたあの鬱屈とした翳りは今、微塵も感じられません。
「ふふ、今年も新しい品種の薔薇が増えているわ」
持ち上げていたソーサーにティーカップを重ね、そっとテーブルにお戻しになられたお嬢様が腕を伸ばされます。
やわらかな陽射しを浴びて艶やかに輝く長い黒髪が、さらりと音を立てて肩から滑り落ちていきました。
白いサテン地のブラウスの袖から覗くほっそりとした手首と繊細な指先が、庭のある一角を示されるままに、わたくしの視線も動きます。
「ほら、あそこ。可愛らしいサーモンピンクのちいさな薔薇」
ね? と、小首を傾げてわたくしを仰ぎ見るお嬢様の目が、とても得意げに細められております。
当然のことながら、わたくしの口元もつられて笑みを浮かべます。
「よくおわかりになられましたね」
わたくしの感服した声に、お嬢様はにっこりと微笑まれました。
「当然でしょう? 己に傅く者たちの仕事振りを正しく評価してこその主人。彼等が整えてくれた環境、地盤の上で、厚顔無知な顔をして胡座を掻くわけにはいかないわ」
浮かべられていた微笑みを更に深めたお嬢様の背後で、百花繚乱──いえ、正しくは百獣の王が咆哮を挙げられました。……この全身を貫く極度のプレッシャー。これがあるからこそ、わたくしの背は、いまだに曲がることなく真っ直ぐなのだと思います。
大変有り難いことではございますが、お嬢様のお心が悪戯に乱されることを望むような不届き者になるつもりは毛頭ございません。
嫌悪と不快感をお宿しになられたお嬢様の笑顔に臆することなく、わたくしは気遣わしげに視線を下げます。お嬢様のお言葉を鑑みて思い当たるのは、あの一件のほかにございません。
「……やはり、園遊会でのお疲れがまだ取れませんか?」
財界一の規模を誇る──それも歴史ある由緒正しき婦人会に、奥方様共々属しておられるお嬢様は、先日とあるお嬢様に絡まれておいででした。
傍に控えていたわたくしは、その一部始終を見ております。
絡んでこられたお嬢様いわく、許嫁の君がわたくしのお嬢様の色香に惑わされたとおっしゃっておりましたが、言い掛かりもいいところです。何せわたくしのお嬢様は、その許嫁の君のことなどさっぱり検討も付かなかったからです。……いいえ、噛み付いてくるお嬢様がどこの家の方か、その家と縁付く家はどこだったかを瞬時に理解し、いつぞやかのパーティーで熱心に声を掛けてこられた男性陣のひとりを思い出されていたはずです。
現にあの時、ちいさく溜め息をお零しになられていたお嬢様の心中は幾ばくかのものだったのかと、深くお察しするところでございます。……しかしどう言い表せれば伝わりましょうか。
尚も言い募ってくる件のお嬢様の姿が、躾のなっていないもふもふっとした小型犬が甲高く吠え立てているかのようなご様子に対して、わたくしのお嬢様は酷くつまらなそうに──まるであくびを堪える百獣の王のように泰然となさっておりました。……はい。ここまでなら、良くある出来事として記憶にも留めるまでもなかったのですが、まるで相手にされていないことに矜持が傷付いたのか、件のお嬢様がわたくしのお嬢様に向かって、持っておられたグラスの中身をぶちまけられたのでございます。
ええ、伊達に歳は取っておりません。
状況把握に徹していたわたくしが身を挺して、お嬢様の代わりに浴びております。
とっさに目を閉じたものの、対峙した件のお嬢様の更なる動向を伺う為に、片目だけはしっかりと見開いていたせいでしょうか。
シャンパンの飛沫が入った目に刺激が走りもしましたが、向けられた悪意からお嬢様をお護りできたことに、安堵と誇らしさを感じておりました。
──背に庇ったお嬢様の気配が変わったのはこの時です。
キャンキャンと喚くことしか能のない子犬を、屠るべき敵と認識を改め直した金色の獅子が牙を剥いた瞬間でもございました。
あまりの悪寒に背筋が震え上がりましたが、一介の使用人であるわたくしを思い遣っての言動に胸が熱くなったことを、今も鮮やかに思い出されます。
──はい、何でございましょう? 件のお嬢様はどうなったんだ、と?
わたくしが言えることはただひとつ、社交界において醜聞は命取りだと言うことだけでございます。
由緒ある婦人会の催場で繰り広げられた茶番劇が、そのままお家の醜聞となってしまったのです。
結果といたしましては、政財界では新参者と侮られて辛酸を舐めさせられているだろう件のお嬢様のお父上様が、ご苦労されて得られた栄えある会から、ただ一時の激情で除籍され──いえ、あくまでも自主的に退会する羽目となったのでございます。
本来ならば、諍いを起こした両家が共に評価を落としてしまうことが多いのですが、戦前から続く九十九家の威光は、今回のような些末事のひとつやふたつで損なわれるほど脆弱ではございません。
逆に、毅然とした態度でお相手を窘められたお嬢様の言動が──悪戯に場を乱したことを詫びられると同時に、連休中に予定されていた残り数日間の社交界の催し事への出席をすべてご辞退されたお嬢様の潔い行動に、益々評価を上げられたのでございます。
「いいえ、まったく。おかげで充実した休暇を取ることができたのだから、香坂のお嬢様にはとても感謝しているわ」
僅か数日とはいえ、純然たる休暇をお取りになられたのは、御歳十三で社交界にデビューされて以来、初めてのことです。
件のお嬢様のご実家から──また、その許嫁の君のご実家から連日送られてくる侘び状や贈り物には一切見向きもされずに、それはそれは楽しそうに出掛けられておりました。
「どうせなら、夏の社交場もすべてキャンセルにしたかったところだわ」
「お嬢様……」
──それは流石に酷と言わざるを得ないかと思われます。
今も尚、社交界で失った信用を取り戻そうと足掻いていらっしゃる二家からの贈り物は続いております。騒動の当事者であり、被害者でもあるお嬢様の許しと取り成しを切望している彼等には聞かせられないお言葉です。
そう言い澱むわたくしに、お嬢様は凶暴に煌めいていた微笑みをそっと解かれました。
「それよりも。……お願いしていたスケジュールの調整はできたのかしら?」
ほんの一瞬だけ、物憂げに視線を伏せられた──やや硬い声音で訊ねてこられるお嬢様のお心を宥めんが為に、わたくしは胸に手を置き、深々と腰を折ります。
「万事抜かりなく」
「ありがとう」
ほっと安堵の溜め息をついたお嬢様の口元が、ほんのりと綻んでおります。
長年お嬢様にお仕えしているわたくしでも滅多に拝見することのないその微笑みは、常に浮かべられている淑女然とした典雅な微笑ではなく、ましてや先の支配者然とした獰猛な笑みでもない──歳相応の無邪気さが垣間見えた笑顔でございました。
学業のある平日であれ、週二日の休みであれ、知識と見識を広げられ、教養を深められているお嬢様には、多種多様の習い事やお誘いがございます。また、旦那様からの課題である経営学の基盤である株取引にも真摯に取り組まれております。
上のお兄様方ほど厳しく成果を求められてはいないお嬢様ですが、九十九家に属する者としての矜持の向上や能力の研磨に余念はございません。
それだけに、精神が老成されたお嬢様は、常に泰然とした態度をお取りになられているが為に、先ほどのようにお笑いになられるのは本当にお珍しいことなのです。
──それはきっと、あのお方のおかげなのでしょうね。
ある種の感動と拭い切れぬせつなさ──それを上回る安堵感に胸を塞がれたわたくしもまた、自然と微笑みを浮かべたのでございます。