日和の娘 <ひより の むすめ>
彼女は雪に落ちた椿を踏みつけた。
人間は嘘をつく。
わかっていた事だ。
でも、と彼女は考え淀む。
もうあの日和の良い庭はない。
いつも彼女は僕の家の庭に入り込んでは、そこに佇む。
初めに気付いたのは芽吹きの季節。眩しいまでの光と青い空の下、ひらひらと庭の桜が舞う。
そろそろ仕舞おうと思っていたコタツに何とか手をかけ、縁側の方を覗いた時、彼女に気付いた。
まだ冬の冷やかさを保つ風の中で、庭の桜を見上げる彼女だけがとても暖かそうで、触ってみたいと言う衝動に何度か駆られる。だがそんな事をすれば彼女は逃げて、もうココへは入らないだろう。そう思うと手が伸ばせなかった。
気付かないフリをしてコタツをゆるゆる片付けつつ、庭の外を見る。
本当は不法侵入しているのは彼女なのだから、こちらが容赦する必要はないのだが、僕は彼女を何となく追い出さなかった。
横顔や後姿に、とても凛とした雰囲気があったからかもしれない。ずっとそれを見ていたいと思ったが、片付け終わった頃にはいつの間にか姿を消していた。
それからは、彼女の姿を暖かい庭に見るようになる。
偶然なのか、彼女が来ている時は世の中がとても静かだったので、平和の女神なのだと思えた。
ただ、どこからどうやって入ったり、出たりしているのだろうと考える。
うちの庭は家の裏手にあり、壁も高い。門から入っても左右の隙間は狭いので、通れば気付かないはずない。
そんな事を考えていたら、一度だけその壁をひらりと登る所に遭遇した。
それはよじ登ると言うより、飛ぶと言う言葉が似合う。彼女は細い体で身軽ながら、病弱な僕にはない素晴らしいバネもある。ひらりと舞い降りる、翼が生えたかのような、その動きに感嘆したモノだ。
ちょっとした一目惚れを桜の下で見た時から抱いていたのかもしれない。
そしてそこまでして入りたいほど、うちの庭が好きなら、居たいだけ居ればいいと思った。
梅雨が過ぎ、夏になると彼女は暑すぎるのか、木陰でのんびりと過ごし、庭の端でチョロチョロと流れ出ている清水で喉を潤すのだった。ちらりと見せる、淡い紅色の舌に色気さえ感じる。
全く良い度胸だ。人の庭なのに。
濡れるのは嫌なようだが、置いてある柄杓に溜まった水を、たまに退屈凌ぎか弾かせて遊んでいる。その姿がいとおしいと思った。
抱きしめてみたいが、驚かせれば彼女は来なくなる。
それだけは避けたくて二階の窓から静かに眺めおろすだけにした。もしかしたらここから見ている事に気付いているのかもしれない、それは顔立ちにしては大きすぎる瞳が、見るともなしに僕を見やるから。
秋の頃になると、庭の紅葉が赤々とする中、彼女はゆったりと座っていた。
その日、僕には来るべきモノが届いていた。
本来はもっと早く受け取るはずだったもの。
体が弱く、避けられていたそれが僕の所にまで来るなど、もはやこの世は終わりなのだろう。
僕は彼女の姿を見つけると、ゆっくりと一階に降りた。
今日来たらそうしようと思っていたので、驚かさないよう窓は開け放してある。冬はコタツを置く部屋から、庭を臨む縁側へすぐ降りられるように靴も用意しておいた。
彼女の背に僕は初めて声をかけた。
「こんにちわ」
口下手で、まともに話した記憶もない僕に、気のきいた台詞など何一つ出て来なかった。
その一言で逃げるかもと思ったが、彼女は間合いが空いているからか、まだ余裕のある表情で僕を見る。
僕がこの家に一人になってもうだいぶ経つ。
人が死ぬ話など、今、この国では日常茶飯事。
悲しい事だが、それが現実。
食べ物も物資も少ない中で、生きる事が難しい時にあって、両親が残してくれた家が空襲で焼けず、物資と交換できる品物があって、それなりに大人だった僕は恵まれている方だった。
窓ガラスには白いテープが米印に張ってある。被弾による爆風で硝子を飛散させないためだが、これが突き刺さるほど近くにいるなら命はないだろうと思う。
皆、夜は電気に布の傘をし、空襲警報が鳴る度に防空壕に移動する。ただ僕は病気である事が多いので、気持ちで家の台所の床に掘った穴に入るのだ。
そうして家に籠って逃げなかった僕が生き残って、少し離れた裏山の防空壕ごと吹き飛ばされた祖父母と母、そして小さい弟が亡くなったのは皮肉な話だ。父親が戦死したのは、それより前になる。
街の人から良い歳をして戦場にも、工場にもまともに行けない俺は非国民と蔑まれた。
「今日ね、赤紙が来たんだよ。もうこの生活も終わり。だからその前に君と話したかったんだよ」
戦争末期。
敗戦の色が濃くなっているのに、政府に騙されて誰も気付かない。いや、気付いてはいけないのだ。
赤紙は戦争に行けと言う神からのお達し。
僕の様なヒョロヒョロにまで声がかかるなんて本当に本当で末期なのだ。
僕は陛下の為にも、お国の為にも、ましてや家族も居らず、心からの使命感などない。でも行かなければならない。逆らった者に対する憲兵の話は、嫌と言うほど聞かされている。つまり遅かれ早かれ死ぬのだ。家族は居ないとはいえ、隣組もある。逃げられるわけがない。
彼女は話したいと言う僕の言葉を聞いているのか、逃げようとはしなかった。
いや、ポケットに忍ばせた彼女へのプレゼントに気付いたのかもしれない。
隣のおばさんに無理を言って譲って貰った甲斐がある。おばさんはうちの家にある母の着物などを交換に行ってもらい、その分お礼に品物を分ける仲。分ける時は機嫌がいいが、他の時は陰鬱な女性。まあ、世の中、皆そんな感じだから気にもしないが。
とにかく普段は僕の願いなど聞きそうにないそんな人だが、今日赤紙が来たのを目敏く見ていたから、何も言わずに分けてくれた。
小さな餞なのかもしれない。
でも彼女にやる為だと知ったら怒るだろうと思いながら差し出す。
「話が……っておかしい奴と思っているかい? さあ、食べるといいよ」
にぼし、それも小さいやつが2つ。
味噌汁の出汁、いや味噌も、大豆も米も……安易に望めない今、こんなにぼしさえ貴重な品なのだ。
僕が最初で最後の贈り物として、真剣に考えて選んだモノだった。貴重品だと言っても、にぼしなどどうだろうと思った人もいるかもしれない。
だが僕の思惑通り、彼女は小さな贈り物に目を輝かせた。
が、瞬間、そんなモノに釣られる女じゃないのよと言わんばかりに知らぬふりをする。
可愛らしい、そう思った。
要らないわけではない、証拠に彼女は媚びも売らないが、逃げもしなかった。
こんなに近くに寄るのは初めてだった。
なるだけ足音をさせないように落ち葉の上をそっと歩いて近付き、彼女の口元に持って行く。と、警戒しながらも遠目にも鮮やかだった舌で乾いた魚を嘗め、次の瞬間にはカツカツと頬張っていた。
「ねえ、赤紙ってわかる?」
その姿を見ながら、逃げてしまわないか心配しながら、恐る恐るその頭を撫でる。
召集令状、戦場への片道切符、強制的な招待状。
「そんな事を言っても、君にはわからないね。とにかく僕は遠くに行くんだよ」
そう、返事はない。
彼女は言葉をしゃべらない。
彼女は猫だから、人間の言葉など……わかる筈もない。
ただ食べている間だけ、彼女は体を触らせてくれた。とても暖かい、柔らかな毛並みだった。
食べおわると、塩が辛かったのか、いつものように水をペチャペチャさせて飲んだ。さっき手から魚を取った時、僅かに触れた彼女の舌はざらっとしていた。
遠目に見ていた時には気付かなかったが、あばらが浮くほど痩せている。でもみすぼらしくはなかった、その瞳は聡明で、何もかも見透かしているようだったから。
彼女は僕から少し離れた所で丹念に毛繕いをした。
まるで汚れたじゃないかと言わんばかりに。
「ごめんよ」
僕の言葉にぴくっと耳が動く。
「君は……待っていてくれるかな?」
『……その前にあなたが帰ってこないよね?』
幻聴を聞いた。
「帰って来るよ、必ず」
それに返した約束は果たされない。
今。
僕の目前には白い雪。指先に感覚はないが、握った重い銃が自分の血で汚れていた。
あの日の暖かい秋の空はココにはない。
幸か不幸か、従軍後は熱も出さず、何とかこんな最果ての地までやってきてしまった。
回りには人間が倒れている。皆、命はもうない。
銃の打ち方さえまともに習わぬまま、前線に投入された。全員の顔も覚える暇もないほど短い期間の仲間だった。
余りの混乱で味方の打った弾に当たって絶息する同志を見た時、僕はああ、もう終わりだなと思った。それほど僕達は何も教わらずにここに来たのだ。
僕もいつの間にか鉛玉を喰らっていた。白い塹壕が朱に染まる。
学校にすらまともに行く機会のなかった僕の最初で最後の仲間達。
特攻、捨て玉、鉄砲玉。人間の肉壁、その一部にすらなってない、皆、犬死だ。
どうせなら犬ではなくて、猫になりたかったよ。
失血と寒さで気を失って死ぬ寸前、そんな事を思って僕は笑った。
その時、弾が飛び交う中、他の国の凍てついた土に居るはずのない彼女を見た。
見紛う筈のない凛とした横顔。くるりと背を向ける仕草。
冬は冷たい庭ではなく、彼女をコタツに招いてやりたかったな、など呑気に考え、僕はいつも彼女を見ながら浮かべていた微笑を口に湛えていた。
もしかしたら……帰るよと言った約束を、彼女は憶えているだろうか。
死にたくなかったな。
……僕はやっとそう思った。
もっと早くに気付けば何か変わっていただろうかとも考える。
せめて僕の死で、あの日和の良い庭が守れたのなら、と思う。
彼女の場所を守って死ぬのなら、僕は誰かの犬ではなく、自分で居場所を決められる、彼女の様な猫になれたのかもしれない。
この戦争は終わりが近い。
皆、死にたくなかった、僕のように猫一匹を思っているような人生でも。
無意味に命が散る世界が、確かにある。
できればそんな世界はもう無くなるといい。
庭に広がる紅葉のように、血で赤く塗られた大地。
白い白い荒野。
彼女が嘗めた時に手の平に残した、ざらりとした感覚だけが確かに感じられた。
舞い落ちる白い雪は彼女の毛並みのようでいて、暖かくもなく、ただただ冷たく僕を包んだ。
彼女は、はらりと崩れた赤い花びらを踏んだまま。
人間は嘘をつく。
わかっていた事だ。
でも、と彼女は考え淀む。
白い雪に花びらが舞う。庭隅の清水は凍って音もしない。
花びらが飛んで行かないよう両脚で押さえる。
そうすればそうするほど椿は姿を崩した。
口を近付けると、何か懐かしい匂いがして嘗めてみる。
味のない冷たい雪が、椿の匂いを映してか、仄かに甘い気がした。
『彼が言った赤紙はこんな色だろうか?』
偶然か幸いか、屋敷も庭も、戦争で燃えたり、壊れたりはしなかった。
だが、あの優しい眼差しがない庭に、彼女の知る暖かさはない。
初めて彼女が彼を見た、春の日に仕舞われたコタツは一度も出される事はなかった。
爆音を轟かせ、空を蹂躪していた飛行機は、夏の暑い日から不意に姿を見せなくなったけれど。
でも、彼は戻らない。
持ち主を変えたこの家も庭も、そう遠くなく取り壊されるだろう。
人間は嘘をつく。
「帰って来るよ、必ず」
それは嘘。
わかっていた事だ。
でも、と彼女は考え淀む。
赤い花びらを踏んだまま。
彼女は彼の庭に暫く佇み、もう二度とそこを訪れる事はなかった。