とあるクロヒョウの失恋
※別の作品と共用世界観のため、そこらの話が少しくどいかも知れません。
※動物ものじゃなく、獣人ものです。(でも獣姿ではないです)
すごくお腹が減ってたの、と彼女は言った。
異世界人の小さな顔にはあまり感情も浮かんでなくて。黒い瞳は乾いたまま、どこか遠くを見つめていた。
たぶん、その時のことを思い出しているのだろう。
彼女、アキは、若い異世界人の女だ。
ど田舎に召喚されてきてしまったためにギルドの保護が受けられなかった。偶然その地域の依頼を請けてやってきたギルド員に出会うまで、ろくに言葉も通じない状態で、辺鄙な村の片隅で、かなり苦労していたらしい。
ギルド員に保護されたおかげで、言語魔法を掛けてもらえて、そこそこ栄えたこの町に移住することもできた。いまは落ち着いた暮らしをしている。
でも、最初の村での経験が響いているのか、アキは誰の求愛も受け付けなかった。この世界の住民、獣人たちを信頼できないのだろう。
異世界人は獣性を持たない。皆無だ。だから身体も小さいし、力も弱い。代わりに魔力が強い。膨大な魔力量。
けれども、ほとんどの異世界人は、何故か魔力ってものがない世界からくるらしく、最初のうちは魔術が使えない。魔力は強いが、ただただそれだけで、獣性という圧倒的な力をもつ獣人たちには敵わない。
辺境の地で、彼女がどんな目に遭わされていたのか、想像はつく。まさか無理やり襲うような真似はされなかったろう。もしそうなら、たぶん五体無事では済んでない。獣人に蹂躙されたら、異世界人の身体なんて簡単に壊れてしまう。
そういう事例は過去にある。今もか。表立ってはないものの。
むかしは今ほど異世界人の保護に力を入れてなかったそうだ。か弱い彼らを奴隷のように扱っていたこともあるらしい。今だって、ギルドの監視の隙をついて、召喚直後の異世界人を攫って売り飛ばす輩はいる。
ドラグム帝国のように、未だに公然と奴隷所有を認めている国もある。
でも、そうやってせっかく召喚されてきた異世界人を雑に扱っていたために、一時は各地で血が濃くなりすぎて人類滅亡の危機に陥りかけた。
獣性は婚姻で濃くなり、しまいにはヒトから知性や理性を奪い取る。
異世界人の血は貴重なのだ。
その貴重な獣性皆無の血をもつが故に、彼らは脆く、弱く、あっという間に死んでしまう。獣人レベルの奴隷扱いなんてすれば、早々に身体を壊した。無理やり子どもを産ませようにも、それ以前の性行為にさえ耐えられなかった。
ヒトとして、丁重に扱わなければ、むしろ保護してやらなければダメだと、野蛮な獣人もいつしか理解した。でなければ、結局は自分たちの首を絞めることになる。
妻でもない、夫でもない、奴隷から産まれた子どもしか、知性や理性をもたない社会。そんなものが成り立つわけがない。
大体、ふつうの、まっとうな獣人は情が深くて。
か弱い彼らとでも、愛を交わしたら、奴隷らしくモノ扱いなんて出来なくなる。社会的地位の低い、弱い相手でも、伴侶は伴侶だ。妻として、夫として、認めて受け入れてしまう。
己の伴侶を、そう認めた相手を卑しい者として虐げて暮らすのは、彼らには非常にやりにくいことだった。
だから、ギルドの上層部も上層部、ギルド総長が異世界人の伴侶を娶ったのち、彼らの保護に乗り出した時、大した反発もなく、その制度を受け入れた。そりゃもう、掌を返したように、あっさりと。待ってましたと言わんばかりに。
今では、ごく一部地域をのぞいて大陸全土、そんな悲惨な時期などなかったかのように、異世界人の血と存在を受け入れて、わりと平和にのどかに暮らしている。
獣性が強いと、喧嘩っぱやい性格にもなりがちだから、それが緩和されたことも平和にひと役買っているのかもしれない。
ただ、依然として、そうじゃない場所もあるわけで。
アキが召喚された土地は、そういう例外的な場所だった。
その村の人々は、ある日突然あらわれた異世界人である彼女を、殊更つまはじきにしようとしたわけではなかった。
ただ、ど田舎すぎてギルド出張所もないような村で、言語魔法をかけられる魔術師もいなくって。とくだん、豊かでもない暮らしぶりの場所で。見知らぬ彼女を保護してやる余裕のある人間もおらず。
ひたすら怯える彼女をもてあました。
寝起きできる場所くらいは、と。当初、村長の家に間借りはさせてもらえた。
だが、言葉も通じず、常識もなく、成人としてはありえないくらい力も弱くて何もできない女を養うのは、いささか重荷であった。いっそのこと彼女が幼い子どもであれば、家族として受け入れられたかもしれないが。
半端に知恵がついていて、大柄な彼らに怯える女性は扱いづらかった。
居心地の悪さに、アキは外をふらふらしていることが多くなった。なしくずしに、軒から軒へ、たらいまわしにされるようになった。食事も、たまにおこぼれをもらえる時以外は、自分で山野に分け入って探してこなくてはならなくなって。
段々と弱っていった、ある日。
声を掛けられた。若い男に。腹が減ってるんだろう、おれのうちへ来いよ、と。
アキには言葉はわからなかったけれども、来い来いと招かれていることはわかった。屋外で寝るのはつらいから、ついていった。
家に入ると、男はアキに言った。テーブルには食事が用意されていて。
「お前に食わせてやる。だから、アキ、……おれのものになってくれ」
言われた意味がわからず、アキは小首を傾げた。男は少し気恥ずかしそうに笑って、そうっと手をのばしてきた。アキの視線が追うのを確かめながら、そうっと。
痩せた身体に、細い腰に手をあてる。ゆっくりと撫でて、背中にまわして。
やがて、アキが抵抗しないとわかると、ぎゅっと抱き締めた。
「アキ……」
「ごはん、くれる?」
「ああ、――ああ。いくらでも食わせてやる。だから、アキ」
アキは男のことをよく知らなかった。
けれども、お腹が空いていたのだ。とっても。
男のしたいことはわかったけれども、いやだとは言えないくらい。よく知りもしないあなたとそんなことはできないとは言えないくらい。すごくお腹が空いて弱っていた。
もうどうにでもなればいい、と思うくらい。
獣人の男は大きく、重く、その行為は空恐ろしかった。
このまま殺されてしまうのかもしれないとアキは感じたけれども。
お腹はいっぱいだったから。一応それなりに清潔なベッドだったから。空腹を抱えたまま、みじめな気分で死んでいくんではないから、もういいやと思った。
それと引き換えにごはんをもらったの、と言ったアキは目をつぶっていて。眉間にはかすかにしわがよっていた。
要するにカラダを売ったのだ。
何事もなかったかのような顔をして誰かのお嫁さんになることはできない。それは自分で許せない。
「……じゃあ、なんでオレと寝てくれたの」
事後のベッドで、ルシナノイスは腕のなかのアキを見下ろしながら、静かに尋ねた。
「たまにはひと恋しいこともあってね」
「それだけ?」
「シナノは色男だから……」
「よく言われます」
おどけたように言われて、ルシナノイスもふざけ返した。暗い顔をしていたアキが少しでも元気になるなら、と。
そんな態度をとっていても、ひょうきんさはあまり感じられない。冗談を飛ばしていても、変な顔をして見せても、何をどうしていても、どこか濡れたような色香を漂わせる。
ルシナノイスはまさに色男だった。
どんな言葉ひとつ、仕草ひとつ、表情ひとつにも、色気が満ちあふれていて扇情的。危険な雰囲気のある、しなやかで逞しい黒豹のような男。獣性が強くて、体格もよくて、それなのに実にバランスがよくて色っぽいという稀有の存在。
彼はむかしからよくモテた。子どもの頃からずーっと一貫してモテつづけてきた。
けれども、基本的に情が深くて、火遊びなんてしない獣人世界でモテたって、ある種の選択肢の幅がひろがるってだけで。あんまり意味はなかった。
モテるからと言って、もしうっかり調子の乗って、オンナのコを喰い漁ったりしたら、その家族や親戚、友人たちが黙っていない。半殺し、もしくは全殺しの目に遭う。
しかも残念なことに、彼の外見に惹かれて直球で言い寄ってくるような女性は、彼のタイプではなく。そもそも喰う気になれなかった。非常に申し訳ないのだけれども。
オンナと見れば口説いてまわるのは獣人男の挨拶みたいなものだから、それはそうしていたけれども、彼だって本当に欲しい相手はただひとりの伴侶だった。
なのに、たまに恋に落ちてみれば、言われるのだ。
あなたは自分にはふさわしくない。ほかのコとくらべられるのはいやだ。軽いおつきあいはしたくない。そのうち飽きられてしまいそう。そんなにモテるなら、きっと目移りするに違いない。
あなたは色男すぎるから。
と、大体まぁそんなことを。
今度は違うと思ったのに。アキは、異世界人だからモノ知らずで、だから逆に偏見なく自分と向き合ってくれたし、獣性を解放した獣形を見せても怖がらず「キレイなクロヒョウさん」って呼んでくれたし。
きっとうまくやれると思ったのに。
なのにやっぱり「色男だから」って言われてしまった。
……オレ、もてあそばれたわけ?
結婚する気もないのに、ひと恋しいから寝てみましたって、そういうことだろう。ルシナノイスなら、モテる男なら、自分に執着しないだろうから。後腐れなさそうだから。だから相手をしてくれたって。
……なにそれオレふられたってこと?
というか、そもそも眼中になかったってことか。そうなのか。顔しか取り得のない――とは言わないが、彼女にとっては容貌だけしか意味をなさなかった。中身は何でもよかったのだ。
毎度毎度のように。
口説いたのはルシナノイスからだったのに、言い寄ってくる女性と同じ結果になった。見た目だけ。それも美点だから、いいんだけども。そこに惚れ込んで一途になってくれるなら儲けモンじゃないか。でも。
アキは自分を好きじゃない。特別には。
ちくしょう。ルシナノイスは心のなかで呻いた。たっぷりにおいをつけたから、他の連中にはバレる。獣人はそれがわかる。なのに関係が成就しなかったら、なんて思われることか。見た目ごかしのヘタレだと謗られ兼ねない。
ルシナノイスは極めて獣性の強い獣人男だ。四足の獣形もとれるほどに。なのに、異世界人の女性を満足させることもできなかった、となれば。
どんだけドヘタなんだ、ってことになる。
……ひぃいい……。
ただでさえ、彼は目立つのだ。その容貌ゆえに。さらにはその実力ゆえに。
たとえば意中のオンナが彼に惹かれて相手にしてくれないなんて男もあちこちに居るわけで。やっかみ半分でひどい噂を立てるほど、器の小さな男ばかりではないとは思うが、そうは言っても。つい、というのはある。普段から彼にいい印象をもっていなければ。
娼婦を買うこともしないルシナノイスの寝所での技巧を知る女性は少ない。誤解の解きようもない。アキ本人に突撃するほど野暮なヤツが多いとも思えない。みんな半信半疑ながらも、もしやそういうことではと疑って、面白半分に噂するのだ。
「……シナノ?」
「ん、なに?」
いぶかしげなアキの声に、ルシナノイスは慌てて笑顔をひっぱり出した。どうしてもぎこちなさはにじむ。アキは察して目を伏せた。
「ごめんね、シナノ」
「……何で謝るのさ」
「わたし、あなたにひどいことした」
「ん、ん……」
「自分がされて、悲しかったのに。何でかな。やさしくないの」
「アキ……」
「シナノがさみしそうなのに、つけこんじゃった。ほんとは寝たいだけじゃないの、わかってたのに。ごめんね。わたし、シナノが好きだよ。だけど、シナノにやさしくされればされるほど、つらくなるの。ごめんね……」
アキが泣いてしまったので、ルシナノイスは言えなくなった。
今からでいいから、自分を好きになってくれ、とは。
代わりに告げたことと言ったら。
「その男は、あんたを買ったわけじゃなかった、と思う……」
恋敵に塩をおくるような。
「これくらいの量の食糧と交換って提示したわけじゃなかったんだろう? 家に入れて、食事を出して、ずっと傍において。それ、一生あんたを食わせるつもりだったんじゃないか?」
アキがこの町に来たのは、ギルド員に見つかったからだ。言語魔法をかけた方がいいと、ど田舎の村から連れ出した。ギルドに保護制度があるのも教えた。
彼女がひとり立ち出来るようにした。
そうして、この世界の見識がひろがると同時に、彼女はさとってしまった。自分があの村でいかに重荷であったかを。かよわい成人女性を、あんな辺鄙な場所で庇って生きていくのはさぞ大変だったろう、と。
だから、元の村には戻らなかった。
言葉が通じたって、ギルドからの生活補償があったって、異世界でたった一人で生きていくのはつらいだろうに。どんな形にせよ、情を交わした男に頼ろうとはしなかった。
それを相手がどう思ったかは知らないが。たぶん、羽振りのよくなった女に捨てられたと思って迎えに来なかったのだろう。
向こうは向こうで、アキはアキで、互いに相手の重荷になることを避けた。
「オレのものになれ、って言われなかった?」
アキの黒い双眸が、銀色に輝くのを、ルシナノイスはじっと見つめた。
「あんたの身体がいま何ともないってことはさ、そいつ、すごくやさしくしたんだよな。無茶なこと、しなかった。大事に、大切に、してくれてたんじゃないの?」
「……そうかも」
「なら、きっとあんたのこと、好きだったんだよ」
それで。
……きっとあんたもそいつのことが好きになってたんだよね。
買われただけだから、好きになってはいけないと思って。
行くなと引き止められなかったから、遠く離れて。
忘れられない男との取り引きを理由に、誰も受け入れず過ごしてきた。
「そうかな……」
「そうだよ」
「……シナノはやさしいね。わたしはひどいことしたのに」
「だろ。いい男だろ。惚れるだろ」
アキは笑ったけれども、うんとは言わなかった。うん、惚れる、とは。
むかしの男が本気であったとわかれば、余計に。思うひとがあるというのに、うっかり致してしまったシナノとの行為こそがあやまちであったと思われて。過去をふん切れていなかった彼女の気もちは複雑で。
結局、忘れがたい男の想い出の方を選んだ。
とあるクロヒョウ男の失恋。