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六連星の王座  作者: シトラチネ
第2章 迷いの摩利支天
8/23

§2

「最初に申し上げておきますが、わたしには摩利支天神鞭しんべん法を使うことは出来ません。誰かを呪殺するなんて、恐ろしくて出来ません。わたしはそれが原因で父と衝突して以来、一切密教に関わっていないんです。ドッグタグの宗教表示は弾みと言うか、癖と言うか」

「いえ、マリスさん――」

「神鞭法はやり方も知りませんし、例え教わっても出来ません。わたしは仏の道は、そういう目的のためにあるのではないと思っています。そう考える限り修法は効力を発揮しません。ですから」

「マリスさん、マリスさん」

 寡黙を貫いてきた新兵は堰を切ったように話し出した。上官の制止を無視してまで出来ない、しないという否定的単語を懸命に強調している。新兵とはいえ、軍令は絶対とされる軍人失格の剣幕と拒絶だ。

 これまでギリシャ彫刻のような白い静けさに満たされていた筈のマリス。その内側がただの十八歳の少女であることを、テイトはようやく肌身に感じた。

「落ち着いて。誰も君に、そんな怖い事を頼もうなんて思っていないんですから」

「……そうなんですか?」

 テイトは何度も頷いてみせたが努力虚しく、マリスの瞳にあるのは拒否と不信ばかりだ。

「君が言っていたように調伏を行なう場合には、それだけのものが引き換えにされるとか」

 五年前のアルデバラン五世の政敵病死と同時期に、アルデバラン五世の妻も同じ病気で他界している。一年前の政敵転落死には何が引き換えにされるか不明だが、家系断絶の回避を考えればアルデバラン五世自身の筈だ。

 でも、とテイトは逆接の接続詞に力を篭めた。

「でも僕は、僕の部下を一人として犠牲にしようとは思っていませんから」

 マリスの膝の上にある両手は祈るように握り締められている。テイトの言葉の信憑性を決めあぐねているようだった。

「リクの家系にはですね、アメリア軍日系二世部隊、四四二連隊の兵士がいたそうです」

 一見脈絡の無い話題転換に、マリスは戸惑ったようだ。

 だが日系二世部隊の歴史といえば、アメリア陸軍の必修科目だ。新兵訓練センターで耳にした記憶に行き当たったらしく、話の先を促すような相槌が返って来た。

「彼らのモットーはGo For Broke!、当たって砕けろとか打ち砕けとか、カミカゼの精神ですねえ。その精神で彼らは輝かしい戦歴を残しましたけど、同じ事を現代のこのアメリア軍日系二世部隊に望むつもりはないんです」

 プレアデス計画へのマリスの選抜理由は、ヒアデス呪殺ではない。もし呪殺が可能だとしても、命を生贄にさせてまで行なわせるつもりはない。テイトはそう重ねて断言した。

「そういう面からすれば幸いホワイト大佐は修法の効果に非常に懐疑的で、彼は知識以上に君に期待出来るものはないと考えています。よって我々の使命はヒアデスとスヴァルの入れ替えのみで、ヒアデスの処遇までは管轄外ですから。僕達がすべきなのはスヴァルを教育し、守る事。それ以上はしません」

「はい……」

 マリスの昂ぶっていた感情が急速に抑え込まれていくのが、黒曜石の瞳の揺れ幅で見て取れた。冷静さを取り戻すのが早いのは修行の成果だろうなあ、とテイトは感心しながらそれを眺める。

 父親と対立した過去を掘り起こされ、そのうえ呪殺の要請を警戒していたら、修法は出来ないと微妙な嘘をついたのも無理はない。

 志願兵ではないのだから、いやたとえ志願兵だとしても、ブートキャンプ直後の新兵に殺人の心構えなど無くて当然だ。

 可哀想に、と同情するテイトの向かいでマリスは安心したように肩から力を抜いている。長い髪を下ろしてシンプルな水色のワンピース姿のマリスは何処にでもいる一人の少女で、とても修法を会得した行者には見えなかった。

 修法と言えば、と金髪に包まれたテイトの脳は摩利支天の呪殺法を思い出した。

「だってねえ。摩利支天の神鞭法って、あれでしょう。怨敵の名前を書いた紙を、何百回も鞭打つとかいう……ははっ、ちょっと恥ずかしくて、人前じゃ出来ませんよねえ」

 返事があるまでに、何故か三秒はあった。

「人前じゃなくても出来ませんけど、その……そういう問題じゃなくて」

「アルデバラン五世みたいに護摩を焚いたりするのは、いかにも呪いっぽくて格好もつきますけどねえ」

 今度はしーんとしていた。マリスは答えに苦慮しているような難しい顔をしている。テイトとしては慰めたつもりだったのだが、あまり効果は無かったようだ。

「……ではわたしの役割は、摩利支天の隠身のご加護を受けるという事だと捉えれば宜しいのでしょうか」

 展開に唐突感があったような気がしたが、前向きになったらしいマリスの発言が有難くて、テイトはとにかく急いで頷いた。

「そうそう、そうなんです。僕の知識の確認も兼ねて、君の出来る事を教えてもらえませんか。師資相承の密教の戒律には、どうか目を瞑って頂くということで」

「分かりました」




「摩利支天は密教における尊格の一つで、陽炎が神格化されたものです。陽炎は目に見えませんから、悪事災難から陽炎のように身を隠し、何者にも害されることがありません。これが日本では攻撃から身を守ると解釈され、武士の守護神として中世から信仰を集めました」

 テイトはふんふんと顎を縦に揺らしながら聞いていた。

 摩利支天は、一般的にはあまり馴染みのある存在ではない。だが加賀の前田家、長州の毛利家、楠木正成、赤穂浪士の大石内蔵助、新撰組の近藤勇と摩利支天を信奉した武士は枚挙に暇が無い。

 その流れを汲んで剣道や武道、選挙に臨む者や勝負師、相場師の必勝祈願の神としても信仰されている。

 だがテイトに言わせれば、必勝は摩利支天の本来の利益りやくではない。陽炎のように身を隠す、すなわち隠身こそが摩利支天の最大の特徴なのだ。

 攻撃は最大の防御、という理論は摩利支天にそぐわない。防御の徹底により勝機を見出す、攻撃側の自滅を誘発する、という地道で静かな戦略なのだ。

 流石に実家が摩利支天を本尊とする寺であり、一時は行者だっただけあって、マリスも似たような事を実に流れ良く述べた。三年間の空白があっても、幼い頃から叩き込まれた知識が失われることはなかったようだ。

「ご加護ですが、例えば護符を家に貼れば泥棒から身を隠すという意味で盗難に遭わず、同様にして火難や水難も避ける事が出来ます。護符を持ち歩けばその人は陽炎のように人々の意識に存在を感じさせず、結果として災厄が避けていきます」

 つまり悪人、魔物、災い、あらゆるものの目から隠れる事が出来る。

 六臂像や八臂像の摩利支天は針と糸を持しており、これは仏像としては珍しい事である。あらゆるものの目と口を縫い、見えなくするという摩利支天の隠身の利益を象徴しているのだ。

隠形おんぎょう術は印を結び摩利支天の真言を百八回唱える事で、誰からも姿を見られなくなります。これは物理的に消えるという事ではなく、誰の目にも捉えられなくなるという意味です。つまり……透明人間です」

「ぷっ」

 思わずテイトは吹き出した。アメリア連邦陸軍特殊作戦部隊の会議中に、大真面目に透明人間などと口にされたら可笑しくもなる。笑ってしまってから、テイトは失礼だったかと慌てて咳払いした。

 だが恐る恐る窺うと、マリスは俯いた唇の端で笑っている。マリスなりの冗談だったらしい。テイトはほっと胸を撫で下ろした。

「アメリア軍風に言えばF-117A、ナイトホークというわけですねえ」

「はい」

 笑いを滲ませた視線に、この部下が心を開いたことを教えられる。信頼は何よりの財産だ。テイトは自分の何がマリスにそうさせたか定かでなかった。

 だが、にわか軍人とはいえ隊長として一歩前に進めた事を、緩やかに上昇する胸の温度と共にはっきり自覚していた。

「それから封言ふうげん術と言う修法もあるのですが……」

 急にマリスはようやく見せた笑顔を早くも消し去ってしまい、心持ち首をすくめている。

「今のわたしは、護符に勧請かんじょうすることも満足に出来ないと思います」




「理由は例えば神鞭法のような呪殺の手段があることで、密教に対して不信感を抱いているからですか?」

 立て板に水を流すようだったマリスの弁舌がまたしても止まり、少女は彫像に戻ってしまった。不用意に触れてはいけない質問だったかと、テイトは焦って背筋を正す。

「ええとですね、答えたくなければ……」

「いいえ。こうして理由をお話しようとするとすごく子供じみているような気がして、恥ずかしくなっただけです」

 部下は決まり悪そうに目を伏せている。テイトはいやいやと手を振ってみせた。

「人間、他人にとっては何でもない事にこだわったりするものですよ」

 例示は研究者の基本だ。例えば、と人差し指を立てながら身を乗り出す。

「スヴァルなんかですねえ、納豆に醤油を入れるのはネリネリしてからでなければいけないと力説するんです。その方が良く粘るとか何とか。醤油が先か、かき混ぜるのが先かなんて、納豆の味には全く影響を及ぼさないと僕は思うんですけれどねえ」

「……はい」

 ひどく答えにくそうだったようだが、同意らしきマリスの返事はテイトを満足させた。力を得て、指揮棒のように扇子を振り回す。

「スヴァルは生い立ちのせいか、知識先行型と言いますか……あれですね、機械を買ったらプラグを差す前に説明書を熟読するタイプです。僕は最初にパワー入れていじり回して、それでよく滅茶苦茶な操作をして怒られるんですが。そうそう、昨日もコーヒーメーカーを触っていたら、カイリさんに取り上げられてしまって……ええと」

 話の行き先を見失い、口ごもる。何の話題だったかとテイトが会話の記憶を探っている間に、あの、とマリスに先を越されてしまった。

「お言葉に甘えてお話させて頂きますと、わたしが不信感を持っているのは父です。呪殺法を教えようとするのは、わたしを娘でなくただの弟子としてしか考えていないように思えて。その父に付随するものとして、密教まで否定してしまったんです」

「ああ、その話でしたね。うーん……」

「でも父と密教は別だって、頭では理解しています」

 こういう時、どう言ってやるべきなのか。唸る事で稼いだ時間に語彙を探したテイトだったが、またしても出遅れた。スヴァルならスマートに慰めるのだろうに、やはり自分にはボスの資質がない、とがっくりする。

「ありがとうございました。神鞭法は不要と伺い、安心致しました。一日も早くお役に立てますよう、努力致します」

 仕事の顔だ、とテイトは思った。ワンピースを着ていても、そこにいるのは最早一人の少女でなく軍人だった。敬礼の代わりになりそうな、しゃんと伸びた背筋。引き締まり、僅かに上向いた顎。

 部下が最大限の努力を約束しているというのに、テイトの胸の端には暗雲が居残っている。その理由が突き止められず、テイトは扇子の先で額を掻いた。


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