§4
ようこそ、私の究極のボディーガード。
スヴァル、Svarはそう言ったら彼女はどんな顔をするだろうか、あのクール・ビューティを驚きで塗り潰してくれるだろうかと、実行してみたい衝動に駆られた。
泉摩利守はプレアデス計画に必要不可欠であり、彼女無くして安全な成功は有り得ない。計画の発動は彼女の新兵訓練修了を待って欲しい、とホワイト大佐を説得したのは他ならぬスヴァルだった。
大和日本語に堪能なアメリア軍人の名前リストを見た瞬間に、マリスに関する詳細な調査を依頼した。そして届いた調書を読んだ日から、スヴァルはマリスとの対面を心待ちにしていた。ホワイト大佐の執務室では、つい一番にマリスの顔を確認してしまったほどだ。
秘めた強い意志を覗かせる漆黒の瞳に、淡い珊瑚色をした唇。そこから何千回と紡がれたのであろうある言霊を、早く聞きたくて仕方が無かった。
逸る気持ちを抑え込んで、スヴァルはゆっくりと、丁寧に頼んだ。
「摩利守という名前の由来について話してもらいたい」
「仏教には信仰の対象となる尊格が多数存在し、その性質によって大きく如来部、菩薩部、明王部、天部等に分類されます。摩利守は、天部の一つである摩利支天という守護神に因んでいます」
名前リストを一目見て察した事柄を、本人の口から確認出来た。スヴァルはそれに満足しながら確認を重ねる。
「あなたの父方の家系は代々、摩利支天を本尊とする寺を守っているそうだね」
「――はい」
答える目許が僅かに収縮した。触れて欲しくない話題らしいと判断したが、スヴァルはもう引き返すわけにはいかなかった。マリスを見据えて、心の内を示すサインを見逃すまいとする。
「あなたは父親に教育され、摩利支天の密教修法を全て体得している筈だ」
「いいえ」
今度の返事は早かった。質問を予想し、いいえと答えるべく待ち構えていたような、逡巡の無い早さだ。
プレアデス計画の人選の過程で軍がマリスに対して行なった経歴調査書は、隅々までスヴァルの脳細胞に記憶されていた。
両親は彼女の幼少期に離婚、母親はアメリア連邦に移住して、マリスは大和日本在住の父親に育てられた。小学校に上がった頃から父親に行者としての英才教育を施される。
十五歳で母親と暮らすことを希望してアメリア連邦に渡っているが、それまでにマリスが秘法の数々を習得していたという証言が得られていた。
アメリア連邦に移ってからのマリスは父親と連絡を取らず、部屋に仏教徒を思わせる物を一切置かなかったらしい。
マリスの遅れがちな返答、あるいは躊躇の無さ過ぎる不自然な反応は、父親か密教に対する否定的な感情によるものか。スヴァルは推測しながら腕を組む。
「梶原准尉から同じ質問をしてもらって同じように答えたら、あなたは偽証罪に問われても文句は言えないよ」
「偽証などしておりません」
頑固な少女との間に、ぴりりとした空気が張り詰める。スヴァルはマリスの協力が得られなければ、それは死を宣告されるに等しいと思っていた。
テイト、すなわち梶原准尉からもう一度質問を繰り返してもらおうかとスヴァルが考えていると、そのテイトが恐る恐る口を開いた。
「スヴァル、すまないが、あまり私の部下をいじめないで欲しいのだけれど」
「……失礼した」
少々焦っていたことを認めて、素直に謝る。五歳も年下の少女をいきなり追い詰めてしまったかもしれない。これだからテイトにインテリヤクザなどと言われてしまうのだ。スヴァルは心の内だけで苦笑する。
「質問を訂正しよう、泉二等兵。前回の知事選の際にアルデバラン邸に設けられた護摩壇の特徴について、あなたの見解は」
マリスの瞳から、鋭さがいくらか消えた。たったそれだけのことが、スヴァルの胸につかえた黒い不安を和らげる。マリスをこの計画に引っ張り込んだことを、初めて申し訳ないと思った。
「護摩壇による祈祷は、目的によって本尊、護摩炉の形状、向き、供物などが異なってきます。目的には災害の無いことや無病を願う息災、延命や商売繁盛を願う増益、愛情を得るための敬愛などが挙げられますが」
ホワイトボードから自席へ戻る途上で淡々と述べてから、マリスは資料の衛星写真を手にして、その一部を指し示した。
「アルデバラン家の庭に設けられた護摩炉の形は三角。向きは南。ここから、この護摩壇は調伏のためのものだと断定出来ます。つまり怨敵や魔障を除いたり、呪うためのものです」
看護師のカイリがOh, my Godと呟くのが聞こえた。
「更に、映像解析された拡大写真には数多くの人形が見られます。怨敵調伏の護摩を焚く際はこの人形に殺したい相手の名前を書いて火に投じ、何も残らないほどに焼き尽くすとされています」
「ちなみにこの人形に書かれているのは、アルデバラン五世の転落死した対立候補の名です」
テイトが補足を入れ、続いて一枚のCDを掲げる。
「ここに音声データがあります。メンテナンスとして潜り込んでいるドスがアルデバラン邸に仕掛けた盗聴器のデータを分析した結果、この護摩が焚かれている時間帯に、アルデバラン五世の声紋と一致する音声が確認されました」
用意されていたラップトップで再生されると、サーというノイズに乗って低い声が流れ出した。
『――オンシュチリキャラロハウンケンソワカ、オンシュチリキャラ……』
気迫の篭もった声が響き、カンファレンスルームにはどろりと濃く重い渦が巻き始めたようだった。
男は異様な程の執念さで一つの言葉を繰り返している。音量を絞ってから、テイトはマリスの方へと身を乗り出した。
「誦呪には独特のイントネーションがあるので、聞き慣れない我々には判別し難いのですが……どう思いますか」
「大威徳明王の真言です」
迷いの無い即答に、スヴァルは拍手を送りたかった。マリスの作戦参加に難色を示したホワイト大佐に聞かせてやりたいものだ、と残念がる。
しゃんと背筋を伸ばしたまま、マリスは淀まずに続けた。
「大威徳明王護摩は不動明王護摩より格段に強力と言われています。それだけ障りも大きく、修法を執り行ったアルデバラン五世側にも何らかの被害が及ぶでしょう」
「ありがとう、大変助かりました。席に着いてくれていいですよ」
呪いの存在が明示され一気に室温が下がったような空気の中で、テイトののんびりした話し方は救いだった。軍人らしからぬ口調に最初は呆気に取られていたらしいリクまで、ふうと息を吐いている。
対立候補の転落死がアルデバラン五世の呪いの結果である、と立証することは不可能だ。法的に罪を問うことは出来ない。
だが呪術を行なうような人間が準州を国家として独立させ、民衆の圧倒的支持の勢いに乗って王となった場合、待っているのは恐怖政治である。
テイトが声に心配を滲ませながら、そう説明した。
「グアヌ準州民は七割が仏教徒です。上座部仏教と現地チャバロ人の信仰が包含されたものです。アルデバラン家もそのグアヌ特有の仏教を信仰しているように装っていますが、護摩壇を用いた呪術を行なうことからも密教徒であることは間違いありませんねえ」
微かにマリスが頷いたのを、スヴァルは見逃さなかった。良い兆候だ。彼女の正義感に訴えることが出来れば、協力的になってくれるかもしれないと期待を繋ぐ。
「アルデバラン家は支持してくれている民衆を欺いていることになります。私個人としましては、アメリア連邦からの独立がグアヌ準州民の総意であれば、独立自体に異を唱えるつもりはありません。ですが、この状況では何も知らない民衆がアルデバラン家の犠牲になることは必至です」
「考えてみて欲しい事がある。アルデバラン王朝成立の経緯だ」
テイトの説明が一区切りするのを待って話し出す。顔を全員に向けてはいたが、スヴァルの訴えたい相手はマリス一人だった。
「アルデバラン一族は十九世紀の終わりに大和日本からグアヌへ移住した。直後にチャバロ人王朝の継承者が立て続けに急死、最後のチャバロ人王は後継にアルデバラン一世を指名して、その後に死亡している」
王位継承者の相次ぐ死亡、そして先住民族の王が大和日本からの新参者を後継に指名するという不自然さ。
スヴァルは面々がそれに思い当たったのを、まさかという表情への変化で汲み取った。
「テイト、例の宗派について話して欲しい」
先刻まで、これはマリスに話させるつもりだった。
密教は非常に閉鎖的な集団だ。顕教、すなわち民衆に向かって広く教義を説く一般の大乗仏教と異なり、密教は血脈相承や師資相承と呼ばれ、師僧から弟子へのみ伝承されていく。門下に無い者に対しては情報を漏らさない。
中央情報局アジア宗教分析官であるテイトだが、密教に関する研究にはその閉鎖性ゆえに苦労している、とスヴァルは聞いていた。密教徒に教えを請わねば正確な実態は掴めない。
だが、どうやらマリスは密教に関して口をつぐんでいたいらしい。
密教の師資相承の遵守だけでなく、マリス自身に密教への拒絶反応がありそうなのは窺えた。説明を無理強いしてマリスを敵に回すのだけは避けたかった。
「密教には多数の宗派が存在します。大きく分けるとこうなります」
テイトの手がホワイトボードに雑密、東密、台密と記述した。ペンのキャップをはめながらふと、テイトは緩んだような優しい微笑を浮かべた。
「泉二等兵には、それこそ釈迦に説法で申し訳ないですねえ」
「いいえ」
クール・ビューティーが小さく笑った。彼女の唇から白い歯を覗かせることを、人付き合いの苦手なテイトは意図していなかっただろう。なのにそれに成功した。
北風より太陽か、とスヴァルは自嘲気味に思った。
「東密というのは真言宗で、密教を中国からもたらした空海が始祖。台密は天台宗で、開祖は最澄。システマティックに完成されたこの二つに対して、それ以前のものを雑密と呼びます……が、もう一つ」
眼鏡の奥にある、テイトの青い目はもう微笑んでいない。次に来る単語に備えて、スヴァルも気を引き締めた。
「影に、裏密という一派が存在すると囁かれています。呪術性が非常に高く、政敵や怨敵を呪殺するために皇族がお抱えにしていたと言われています」