§5
スヴァルの指がスイッチを入れると、白々とした蛍光灯が無人の地下室を照らし出した。かつて突貫工事で拡張されたアルデバラン家別宅の地下室。日光は届かず壁の断熱材はむき出し、二段ベッドはブート・キャンプ並みに質素。スチールの本棚と机には書類やファイルが積み上がり、娯楽の要素はどこにもない。
主達の不在に滞留した空気を、スヴァルの長い溜息が僅かに攪拌する。
フムジョンマンズロー山におけるヒアデス決戦から丸一日が経過していた。マリスは肋骨骨折との診断を受け、さらに血胸などの疑いを除くため海軍病院に検査入院している。テイトとリクはホワイト大佐による聴取で海軍基地内に拘束されたまま戻らない。
無機的な部屋の息詰まる圧迫感は、スヴァルにプラント時代を回顧させる。プラントと似たこの地下に潜っているのが相応の任務だと厳命した大佐に背き、飛び出して行ったマリスとリクを思う。
「おめでとう。あなた達は魂のいるべき場所を見定めた」
当初の梶原隊員達はそれぞれが己の立場に迷いを抱いていた。それ故にテイトは統率を欠き、マリスは修法を行えず、カイリは落命し、リクは罪にさいなまれた。だが最終決戦を前にして彼らの瞳が放った何者にも折られる事を許さぬ強い光は、スヴァルには神聖なまでに映った。
自分は出遅れている、とスヴァルは思う。梶原隊員達は己の行動規範を手に入れ暗闇を抜けた。だがアメリア軍によって偽造されたスヴァルは、グアヌ準州知事ヒアデス・アルデバランとしての規範を遵守するしか生きる術を許されない。飛び出す自由は無い。
「私の魂までもがクローンでないならば」
果敢なるアメリア陸軍兵に敬礼、大佐はそう称賛したが現実は厳しい。マリスとリクは自己判断で軍籍離脱したうえにアメリア軍の装備を無断使用、戦闘地域に侵入して殺人を犯したことになる。通常ならば実刑は免れない。梶原隊は解散、二度とスヴァルと対面する事無くアメリア本土に強制送還される可能性は高かった。
「あなた達の魂のそばにいさせて欲しい。そこにしか行き場所が無いからではなく」
スヴァルの声は彼らが確かに呼吸をしていた地下室に低く響く。
――君達と共に在る時だけ、私は人間でいられたんだ。
テイトにはそう言った。だが彼らがドッペルゲンガーであるスヴァルの存在を、スヴァルという人格の存在を認知する世界で一握りの人間であるから、最早それが理由ではなかった。
「そこにいたいからだ。ただ友として」
「一切のお咎めは無し。引き換えに一切の戦績も叙勲も無しです」
深夜になってテイトだけがアルデバラン家別宅へ戻り、疲労と安堵の混在した力無い笑顔を見せた。
「国家機密に関わるだけに、梶原隊は公式には存在が秘匿されてますからねえ。本件はたった一枚の薄っぺらい報告書になって、機密ファイルの中へ葬られるのでしょう」
軍が多大な人的損害を蒙った点を除けばプレアデス計画は、今も世界の何処かで同時進行している数多のクローン差し替えの一つに過ぎない。公式に存在しない一計画における公式に存在しない一部隊による公式に存在しない一事件は公式に裁く必要は無いというのがホワイト大佐の、及びアメリア連邦軍の見解らしかった。
「刑罰は免れたものの、マリスさんとリクは大佐に訓戒を頂戴している所です。特にリクは大佐に石頭と暴言を吐いたとか? ネチネチといびられているようで……功労者だというのに可哀想に。今後の転属希望は聞き入れてもらえるようですが」
「リクは軍役を選んだのか。それがいいと思っていた。逆説的だが、信条と衝突するからこそ、彼にとって軍は信条を貫くに最もふさわしい場だろうからね」
経験を積み軍人として熟練すれば事態を未然に見抜き、カイリのような被害者を出さずに済む。自分のように悩む軍人を増やさずに済む。起きてしまった戦いを止める強大な力は持たずとも、現場で無益な死と失望の連鎖を断つのに自分は役立つ。だから前線に赴いて実戦を重ね、いずれ正式に特殊部隊に挑戦するというのがリクの結論だった。
テイトを通じてその決意を聞いたスヴァルは敬意と羨望をもって深く頷く。
「彼はもう軍の駒じゃない。軍が彼の手段なんだ」
「ですよねえ」
誇らしげに胸を張るテイトも遠からず、准尉任官前の役職である中央情報局アジア宗教分析官に戻るのだろう。そして彼が愛する、難解な文字や仏像を相手に研究室で紙と本に埋没する生活へ帰って行くのだろう。
「君達が罰せられなくて何よりだ。テイト、君にも再会出来ずに終わってしまうかと心配していたんだ」
別離の時は迫っている。プラント時代からの友人の和やかな青い目を忘れまいと心に刻みながら、スヴァルはテイトと固い握手を交わした。
「おっとこんな時間ですか。スヴァルに会うために戻って来たんじゃないのに」
唐突にテイトが慌てだす。あっさりと放されてしまった手を眺め、スヴァルは大仰に嘆いてみせる。
「テイト、今の君の言葉は私を少なからず傷つけたよ」
「それはすみませんねえ。大佐が本土に戻る前に是が非でも了承を取りたい件がありましてねえ……ああこれですこれ」
雑然と積み上げられた書類の山の配置をテイトは把握しているようだった。躊躇わずに山腹から抜き取られた一枚がスヴァルを硬直させる。
「君の配偶者候補の推薦報告書です。適当に決めていいんでしたね」
テイトとの握手が切れるように、スヴァルというドッペルゲンガーは梶原隊の手を離れてひとり立ちせねばならない。孤独と秘密を抱えたまま生涯、ヒアデスを演じ続けなければならない。
スヴァルはその第一段階を突き付けられているように思った。魂はそばにいると誓っても、押し寄せる現実という波の冷酷さはスヴァルの心を凍らせる。
「……私は選り好みする立場にない」
ようやくそれだけを絞り出すスヴァルの前でテイトが紙面に書き込んだ名は、Maris Izumi。
有り得ない。不可能に決まっている。大佐が了承する筈がない、という言葉は反射のようにすんなりと口を突いて出た。だが報告書にサインを添えるテイトは異議など耳に入れる気はないようで、さっさと書類をフォルダに挟んでいる。
「マリスさんの転属希望はグアヌ準州の州兵だそうです」
「……州兵?」
州兵は災害時の救援活動や治安維持のほか連邦軍の予備兵力とされており、基本的に下位の別組織である。アメリア連邦政府によって州兵が連邦軍に編入される事はあっても、連邦軍から州兵に下るのは一般的ではない。
「グアヌ準州兵と言えば主要な任務に知事邸の警護がありますね。スヴァルの国家機密的政略結婚を知りながら一途な話ではありませんか」
「そんな筈は……無いよ、テイト。配偶者選出の話を聞いてもマリスは眉一つ動かさなかった、私はこの目で見ていたんだ」
「君の優れた観察眼もマリスさん相手には曇ることもあるんだねえ」
フォルダを小脇に階上へ向かうテイトを追うが、腕を掴んで引き止めるという選択肢を実行出来ない。
「僕はカイリさんの言葉を思い出しまして。スヴァルが何とか星のお告げだとか言ってマリスさんをデートに誘った時、カイリさんが笑ってたんですよ。マリスは驚きすぎて反応出来ずにいたわ、って」
――あなたにプレゼントをさせて欲しい。物着星のお告げだからね。
そう申し込んだ場面をスヴァルは急いで回想する。マリスは眉一つ動かさずに見上げていて、ややあって結構ですと断った。あの無反応は拒否の前振りではなく驚愕だったのだろうか、だが、とスヴァルの内心で希望と理性がせめぎ合う。
「だがプレアデス計画の作戦終了後は我々の連絡、面会は一切禁止される事になっている。マリスのグアヌ準州兵転属を大佐が許可するとは思えない」
「だからこそ、マリスさんに命と計画成功を救われたと大佐がしみじみ実感している今の内にねじ込む機会があるんです。変だなあ、こういう悪巧みは君の得意分野じゃなかったかな、スヴァル」
ガレージの車に乗り込み、イグニッションを回しながらテイトが挑んだ下手なウインクにスヴァルは返す言葉を奪われる。
「僕にとってのプレアデス計画は、スヴァルを物理的にプラントから自由にする事じゃないんです」
ガレージのシャッターが上がっていく。コンクリートと金属で出来た狭い空間は、南国の夜風が吹き渡り星の瞬く空へ繋がる。
「君を諦観の虜囚にしておかない事なんですよ」
プラントで、プレアデス計画遂行上で、テイトは数々の仏像写真を教材にした。そのどれより慈愛に満ちた眼差しにスヴァルは打たれる。
「ありがとう……だがテイト、君も知っているだろう。クローンは遺伝子異常が発生しやすく短命となる傾向にある。それにもし大佐が了承しても、マリスは親友にさえ明かせない秘密の真っ只中で生きる事になる。そんな思いをさせたくないんだ」
「じゃあスヴァル、君がマリスさんの親友になればいい事です。僕にとって君がそうであるように」
ヘッドライトが点き、行く手に白く光り輝く道を作る。スヴァルにはそれが梶原隊が照らす花道のように思えた。
「配偶者選出の命令が出た際、君は神話になぞらえましたねえ。Svarを語源とする太陽神スーリヤと、妻である暁の女神ウシャス、イコール摩利支天。代理の女性を残して去る摩利支天は、配偶者を選出して本土へ帰って行くマリスさんと同じだと。あの神話には続きがあるのを知らないとは言わせません」
バラモン教の時代から牛は聖なる動物とされている。ウシャスはスーリヤの元を去り、牛となって下界に紛れ暮らしていた。スーリヤは後に牛となってウシャスに再会する。
「スーリヤが化身となったのは牡牛。アルデバランは牡牛座の一等星。アルデバランの名になる事で、君とマリスさんはこれまた神話を地で行くことになるんですねえ。いやはや、夢のある話ではありませんか。うーん、二人の結婚式でスピーチ出来ないのが実に惜しいですよ」
気が早すぎる友にスヴァルは笑う。
「……ならば、私も行こう。プラント育ちとて、プロポーズの仕方くらいは知っているからね」
助手席側へ回り、光の道への同行を決めた。
「やれやれ、口下手なテイトに言いくるめられる日が来るとは思わなかった」