§2
ホワイト大佐と顔を合わせるのは、フォートブラッグ陸軍基地での任官辞令以来だった。
海軍の定期運行便を利用してまるで抜き打ちのように現れた大佐は、例の無感情にして冷徹さだけが光る瞳でテイトを見下ろしてくる。
「失態続きのようだな、梶原准尉」
「申し訳ありません。ですが、私の部下達は大いに健闘しております」
ぎろりと向けられた侮蔑の視線を、テイトは静かに見返した。イエスマンばかりに囲まれて、大佐はテイトの答えが気に入らないらしい。その拳は苛立たしげに机をノックしている。
カイリの殉死の名誉を穢された事は、テイトを大佐に反目させるに充分な最終材料だった。プレアデス計画が終了し准尉の任を解かれれば、自分は中央情報局の一員に戻る身だ。そう信じるテイトには、大佐を恐れる理由がなかった。
「猪植上等兵、泉二等兵」
「はい」
「ヒアデスの捜索隊に合流しているようだが、勝手な真似は許さん」
大佐視察の報を受けて、リクとマリスは捜索の前線から一時離脱してきている。マリスは二日前の参加時より日焼けしたようだ。外見だけでなく内面で育ちつつある強さを、テイトはその瞳に見ていた。
父親への反抗から大和日本を逃げ出し、ただ根無し草のように流されてグアヌ準州まで来た彼女は、ここでようやく何かを悟り始めている。護符勧請、隠形術に続き封言術と、封印していた修法を次々にみずから再現し、ヒアデス捜索隊の参加まで申し出たのだ。
自分の信ずるところと役割を見出し、追いかける。これはマリスが大和日本で喪失したアイデンティティの再構築作業なのだ。テイトは部下の転機を、分からず屋の上司に邪魔させたくなかった。
「私が――」
テイトより素早く、しかしゆったりと口を挟んだのはスヴァル。
「無理に頼み込んだのです、大佐。彼らの意思ではありません」
プレアデス計画を担うクローンとして、スヴァルはテイト以下梶原分隊隊員達とは命令を受ける立場が異なる。スヴァルがそれを利用して庇ったことを、大佐は承知しているようだった。渋面が晴れる気配など微塵もない。
「君達が加わったところで、どうなるというんだね。梶原分隊には相応の任務を与えよう」
大佐の手によって黒革のブリーフケースから取り出された分厚い封筒が、不機嫌に机へ叩きつけられた。
「次期グアヌ準州知事、ヒアデス・アルデバランとしてのスヴァルの配偶者選出だ。喪が明け次第、結婚式を行う。この資料の候補者から、知事夫人に最適な人間を決定しろ」
知事邸の修復状況を視察しに、副官を引き連れた大佐は出て行った。アルデバラン別邸の地下室の空気はようやく緩み、やれやれと肩をすくめる。
「皆さん、すみませんねえ。僕は大佐の神経を、遠隔操作で随分と逆撫でし続けていたみたいで。本土からわざわざご足労願ってしまうとは」
全員の首は黙って横に振られた。
「大佐はヒアデスの呪術力を完全に軽視している。軽視どころか無視ですね。呑気に、スヴァルの花嫁候補を選べとは」
「……候補はあなた達で、適当に決めるといい。私は選り好みする立場にない」
唐突に席を立って、スヴァルがどこか疲れたような顔を見せる。常に優雅な態度を崩さぬ男だけに、意外な表情は大きな違和感をもたらした。
「そうは言ってもスヴァル、君の生涯の伴侶となる女性だよ?」
「私は上にいる。何かあったら呼んでくれればいい」
引き留める隙を与えず、スヴァルはするりと地下室から消えた。困惑を残していくような去り方は、実にスヴァルらしくない。テイトは戸惑って頭を掻く。こんな時にカイリがいたら、あの花が咲くような笑みで鮮やかなアドバイスを提示してくれたろうに、と偲びながら。
「梶原さん」
ややあって、沈黙に耐えかねたように、リクがため息交じりに言い出した。
「スヴァルさんの話を聞きに行ってやった方がいいんじゃないですか?」
「話ですか」
何のと問おうとしたが、リクの凄みのある視線に言葉を飲み込む。リクの強い瞳は明らかに、行けと命令していた。
「はい、行ってきます」
やっぱり自分は上官向きではない、と少々嘆くテイトの足は、大佐来訪に合わせて使用人に暇を取らせ静まり返る階上を目指した。
書斎の窓際にあるソファで、スヴァルはぼんやりと外を眺めていた。窓の外は南洋の陽光に草花が輝いているのに、スヴァルの姿は光の輪から切り離されて沈んでいる。開いていたドアを遠慮がちにノックしても、その背中は振り返ろうとしない。心ここにあらずな小さな手招きをされただけだった。
向かいのソファに腰を下ろし、テイトは友人の言葉を待った。
「……微動だにしなかった。あのクール・ビューティーは」
ふっと苦笑の滲んだ口元が呟く。
「え?」
「私の花嫁候補を選出しろと言われても、マリスは眉一つ動かさなかった」
「あっ……スヴァル、君は」
マリスに恋をしていたのか。そう続けられずに唸る。友人の恋心に気付いていなかったことを詫び、励ますために肩を叩きたい。しかし何とも間の悪いことに、政略的結婚の軍令が下ったばかりなのだ。
「スヴァル、何と言ったらいいか……」
「いいんだ。私が一番良く知っているんだからね。他人の人生をコピーするクローンには、自由恋愛をする権利などないということを」
自嘲でなく、ただ言い含めようとしているようだった。そんなスヴァルに慰めの言葉さえかけられない自分を忌々しく思う。
「テイト。私は名付け親が誰かも知らないが、きっと物事を見通す力を持っていた人間だったろうと思うんだ。そして私を諌めようとしたんだろう。プレアデス星団の和名、Subaruでなく、同じ音を持つSvarと名付けることによって」
インド神話の太陽神、スーリヤ。その名はスル( Sur)、スヴァル(Svar)――天界、神の光輝――が語源とされる。
古代インドのアーリア人が信仰したバラモン教。その聖典ヴェーダにおいて、男性の太陽神スーリヤには暁の女神ウシャスという妻がいた。暁は太陽より先に訪れる。ウシャスに恋焦がれるスーリヤは毎朝、彼女を追って現れ、陽光を世界にもたらすのだ。
ヒンドゥー教の時代になるとウシャスはサラニューとして伝えられる。サラニューは夫であるスーリヤの輝きに耐えられなくなり、自分そっくりの侍女を代理に置いて姿を消す。
「そのサラニューは仏教の時代に摩利支天となった。Svarを語源とする太陽神スーリヤ、彼の元へ代理の女性を残して去るウシャス、すなわち摩利支天……」
偶然の一致にも程があるよ、とスヴァルは弱々しく微笑んだ。
「クローンであるSvarは、偽物の妻を愛するしかないのだという戒めに違いない。ヒアデスの名を騙っても、私の本質はスヴァルなんだ。こういう結婚が成される事は、予想していた」
そこでようやく、スヴァルの視線がテイトへ転じる。蒼を散りばめた黒い瞳がプレアデス星団のようだ、と思った。星は内包する温度が高いほど、表面は寒色を帯びるのだ。暗い闇空に輝く青い星々。冴え冴えと美しいが、手を伸ばしても決してたどり着けぬ彼方の存在。
「だから大丈夫だ。聞いてくれてありがとう、テイト。……人間のように悩めて、私は幸せだ。君達と共に在る時だけ、私は人間でいられたんだ」
スヴァルを外の世界に出してやりたかった。
他人の名前で、他人の人生を、他人の友人家族と暮らさなければいけない。それでも、いつ用済みにされるかと死刑囚のような気持ちであの無機質なプラントに閉じ込められているよりは、遥かに人間的だ。人道的でない出生、人道的でない教育、人道的でない人生のために造られた彼らが、人間として生きる道はそれしかない。
そう思っていたはずだった。だが今になって、割り切れなくなっていた。
プレアデス計画が終了すれば、スヴァルと梶原分隊との接触は禁じられる。梶原分隊といる間だけ人間でいられたのなら、その後のスヴァルはクローンに戻るのだろうか。アメリア国家の操り人形として孤独と秘密を抱えたまま、敷かれた軌道をなぞり続けて生きるのだろうか。
「スヴァル、マリスさんに――」
打ち明けなくていいのか。そう問おうとした時、地下室からの階段を駆け上がってくる足音がした。
「梶原さん、ヒアデス捜索隊員から連絡が入りました。フムジョンマンズロー山中でヒアデスらしき人物を発見、包囲したしたそうです」
コンバットユニフォームにアーマーを装着し、マリスとリクはすでに戦闘態勢を整えている。すぐに準備して合流しようと、ソファから腰を浮かせた。
だがリクに手で制される。
「同行には及びません。我々はこの瞬間をもちましてアメリア陸軍特殊作戦軍、および梶原分隊の軍籍から離れ、一個人として現地に向かいます」
「認識票を返却致します。我々がこの先どんな行動をしようとも、アメリア軍とも、梶原さんとも一切無関係です」
何を言われているのか理解できなかった。何度も反復して理解に努める間に、二人分のドッグタグをマリスによって押し付けられてしまう。
「大佐の命令に逆らう責任を、テイトに負わせまいとする配慮か。こんな事をすれば、あなた達は軍法会議にかけられるだろう。そこまでして行く必要など全くない、捜索隊に任せるんだ」
珍しく気色ばんだスヴァルが二人に詰め寄るに及んで、ようやくテイトは部下達の真意を知る。テイトが大佐に叱責される場面を目にしたばかりのリクとマリスは、自分達の命令違反の責任を自分達で負おうとしているのだ。
「僕には准尉としての名誉も戦績も、何の価値もない。大佐の意向など気にかけない、君達と共に行く」
踏み出しかけたところで、肩をスヴァルに掴まれる。
「テイト! 君だって重い懲罰を受ける事になる、大佐の命令に従っておくんだ」
「そうですよ、足手まといなだけなんで、大人しくしてて下さい。行くぞ、マリス」
「待ちなさい!」
「動くな」
H&K Mk23はアメリア特殊作戦軍の名称、SOCOMをそのまま愛称に持つ特殊作戦軍用拳銃だ。リクはそれを握ってテイトとスヴァルを足止めし、ドアまで下がった。
「もうこれ以上俺に、仲間に向けて発砲させないで下さいよ? 俺はカイリさんの仇を討つんだ、誰の邪魔も許さない。マリス、車を回して来い」
「はい」
「行ってはいけない、マリス――」
スヴァルはリクの拳銃を無視してマリスを追おうとする。スヴァルと自分と二人がかりならあるいは、取り押さえられるかもしれない。そう思ってリクへと突進したが、相手は近接戦闘のプロだった。何が起きたかも分からぬうちに、床へと転がされていた。
内臓全体をビリビリと痛みとも痺れともつかぬ不快が走り回り、起き上がることもままならない。スヴァルも殴られたか、腹を抱えて両膝を突いてしまっている。
「リク……」
顔を歪めて咳き込みながら、スヴァルが声を絞り出している。
「ならばマリスを守って欲しい。私の代わりに。彼女を抱き締め、守ってやれる幸運な男に成り代われるなら、私は喜んでその任務を引き受けるのに」
「残念ながらそんな任務は存在しないんですよ、スヴァルさん」
言い放つリクの顔は晴れやかと形容しても良かった。吹っ切れた者の表情だ。
カイリをその手で射殺してしまってから、濃い影を常に付きまとわせていたリク。それまで軍人である事を誇りにし、軍人としての行動に疑いを持たなかったリクが、カイリの死によって優先順位を変えたのだ。行動原理を国家や軍に与えられるのではなく、内なる信念に求めて。
大佐の命令に背き、リクは今、慕った女性を手にかけた贖罪のため、敵討ちのために軍を捨てたのだ。テイトはそれをはっきりと感じた。
「抱き締めたいなら、そうすりゃいい。軍令なんぞより自分の心に従って、フムジョンマンズロー山まで奪いに来ればいい」