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六連星の王座  作者: シトラチネ
第3章 星が落ちた夜
14/23

§3

「……摩利支天隠形」

 そうマリスが言い切った直後、目の前が火の色に遮られた。リクは驚愕に飛びすさろうとして、寸でのところで踏み止まる。マリスから手を離すな、とスヴァルに厳命されたばかりだったのだ。それに背けばより恐ろしい災禍が待ち受けているであろう事は、リクの本能が凄まじい警鐘と共に告げている。

 それでも逃げ場を探して見回せば闇は炎に追い立てられ、遥か頭上に僅か覗いているだけだった。リク達は狂った大蛇のようにのたうちまわる巨大な火柱に、完璧に包囲されていた。

 死ぬのだと素直に納得出来る程の圧倒的な業火を前にして、リクは退路の確保を断念せざるを得なかった。

 死線を越えようとする者が見るという走馬灯の記憶は訪れなかった。回想や絶望や恐怖よりも先に立ったのは驚きだ。人生が終わるのは今で、場所はここで、死に方はこうだったのかと。

 戦場において死に瀕した兵士が最も多く遺すとされる言葉、それは『……に愛していると伝えてくれ』。

 己の死を看取り伝言を託せる生存兵が傍にいる状況というのは、何と恵まれていることかとリクは思った。梶原分隊は今、全滅しようとしているというのに。

 ふとリクは、熱さを感じていないことに気付く。焼却炉に放り込まれたように炎は足許から湧いて出るのに、コンバットユニフォームは燃えていない。

 難燃性を誇るノーメックス素材だからかとも考えたが、外気に露出している顔でさえ一切の熱を感じない。リクの頭は再び混乱しだした。

 目を上げた熱風に歪む景色の向こうで、テイトの青眼が怯えたように大きく見開かれている。対照的にスヴァルとマリスが平静を保っているのを発見し、リクは愕然として立ちすくむ。

 リクにとって、無惨な死や戦火から離れた場所に身を置く民間人である筈のスヴァル。彼は彼と同じく沈着冷静でいる新兵からリクへとゆっくり目を転じ、穏やかに微笑した。

 核爆弾の爆心地にいる錯覚を起こさせるような烈火以上に、それはあまりに現実離れした光景だった。その気品さえ漂わす唇が動く。

「心頭滅却すれば火もまた涼し――とは、こんな境地かな」

 リクの理性は思考を止める。苛立つくらいの精神的な脆さを持つ年下の少女が、猛り狂う炎から生身の人間達を守っているらしい事。この事態を楽しむかのように平然と笑顔を見せる王族の男。

 それらはリクの人生経験をもってして、その場で受容できるものでは到底なかった。




 炎は誕生と同じ唐突さで消失した。

 一気に落ちて来た暗闇に併せて、リクの理性も舞い戻る。

 マリスの肩から離した手で急いでマグライトを点けると、その強力なワイドビームが照らしたのは灰だった。南国の太陽を浴びて青々と茂っていた筈の一面の芝生は、うっすらと細かい灰をかぶった焦土と化している。あの大火は幻影ではないと、モノクロな景色が告げていた。

 マグライトの光跡がブレるのは手が震えているせいだと知りたくなくて、リクはせわしなくヘッドの向きを変える。事態を把握しなければならないのに、懐中電灯に浮かび上がる一片の生命も感じさせない焼け野原が思考回路を寸断する。

 航空機に採用されるアルミ合金を削り出した頑丈なマグライトボディを握り締め、リクは自らを奮起させた。

 邸宅へと光を投げると、四人いた筈のデルタフォースの姿が見当たらない。呪術によるものらしい火焔を回避しようと、邸内に退却したのだろう。ただ一人だけ、光の輪の中に玄関前の階段で倒れている人影が認められた。

 目を凝らしたリクを、不意に正門の方角から低く抑えた声が呼び止めた。

「梶原隊の者だな?」

 リクは咄嗟にH&K MP5サブマシンガンを構える。

 だが門柱の影の小さな黄緑色が味方識別用の蓄光式識別マーカーだと気付き、リクはほっと息をついて銃口を下ろした。邸宅周囲の見張りについていたデルタフォース隊員が、火に驚いて駆け付けてきたようだ。

 リクがそうだと答えると、矢継ぎ早に質問が飛んできた。

「何が起きた? 無線通信兵からの連絡が途絶えた。他の梶原隊員はどうした」

 緊張して上擦った相手の口調に、リクの胸底が冷えていく。何が起きたかなど、リクにも正確な事は分からない。

 だが身柄確保を担当したデルタフォースの姿が見えない理由が退却でないことを、リクは悟ったのだ。

 上官であるテイトの見解と指示を求めてリクは振り返った。だがそこには何もなく、闇と焼け野原だけが茫洋と広がっている。テイト、マリス、スヴァルの姿を見失って、リクの額から血の気が引いた。

 瞬時にその感覚に覚えがあると気付いたリクは、マリスの何とかの何とか法がまだ効いているのだと思い当たった。術者であるマリスから手を離した自分だけがデルタフォースの隊員に見えている。そしてマリスから手を離した自分には、三人の姿がもう見えないのだ。

 リクの推測を肯定するように、虚空から唐突にテイトが現れた。正門の影にいるデルタフォースが何やら驚きの言葉を発しているのが聞こえたが、テイトはそれに構わず邸宅へと歩き出し、リクも慌てて後を追う。

「あそこに倒れているのは、恐らくアルデバラン五世です。もしまだ生存していたら、即座に後ろ手に拘束しましょう」

 アルデバラン五世は倒れていると見せかけて、殲滅の機会を窺っている可能性がある。安全が確認出来るまでスヴァルの姿を隠匿し続けておかねばならない。

 困惑顔ながらも追いついてきたデルタフォース二名と合流し、リク達は慎重に邸宅へと接近した。

「……アルデバラン五世だ。死亡している」

 屈み込んでバイタルサインを調べると、何の反応も認められなかった。

「修法の体力的負担による心臓発作か、あるいは贄の結果か……」

 テイトが呟いていたが、リクは内心舌打ちしていた。軍人にとって敵が存在しない、あるいは消えるという状態は精神衛生に良くない。死体を冒涜する趣味のないリクは、仕方なく門柱に一回蹴りをくれて怒りを冷やした。

 改めて握り直したマグライトの光が照らし出したのは、事切れたアルデバラン五世の背中を囲む、突入したデルタフォース隊員と同数の小さな灰の山。周辺には原型を留めないほど溶解した金属の塊が転がっている。

 リクには、あの火柱が邸宅周辺を包んだのは一分にも満たないという感覚が残っていた。たったそれだけの時間で遺灰にされたデルタフォース分隊を見下ろすリクに、今更ながら恐怖感が押し寄せてくる。

 もしマリスが何とかの何とか法を成功させていなかったら、何とかの何とか法が遅れていたら、梶原分隊も足先の炭化物と同じ運命にあったのだ。

 門外にいたために生き残った先刻のデルタフォース隊員二名が、邸内を捜索している気配がする。彼らが踏み越えた砂山が仲間の残骸である可能性など、考えてもいないのだろう。

「……カイリさん」

 ふと、リクは門外に残してきた自分達の仲間を思い出した。

「カイリさん!」

 叫んで裏門へと身を転じる。はっと顔を強張らせたテイトを突き飛ばすようにして駆け出し、焦げ臭ささえ残さない程に燃やし尽くされた庭を走り抜ける。

 その中でただ一箇所、芝生の緑が残っていた。炎に包まれた時にリク達が立っていた、そして今もマリスとスヴァルが姿を隠しているであろう場所の四人分の足跡だ。

 裏門から転がるようにして走り出たリクは、思わず汚い言葉を吐いた。停めておいた筈の、カイリが待機していた筈のバンが無い。

 動き回る光の円は、すぐに道路の端に倒れているカイリの姿を捉えた。




「ヒアデスだと思うわ。後ろから乗り込んできて、引きずり降ろされたの。車に頭を打ち付けられて……ごめんなさい、逃がしちゃったのね」

 そこまで言うと、カイリは再び顔をしかめている。幸い後頭部の打撲と軽い擦過傷以外に怪我は見当たらず、すぐに意識を取り戻した。

 カイリによると、梶原分隊のバンはヒアデスにカージャックされたようだ。聞いていたテイトが首を振る。

「謝ることではありません、怪我が軽いのが一番です。それにむしろ徒歩での逃亡よりも好都合です、GPSで車両の所在が割り出せますからね。僕は大佐と連絡を取りますから、リク君はカイリさんの手当てをお願いします」

 言い置いて、テイトはデルタフォースのバンへと走って行った。車内には作戦上カイリよりも安全確保の優先度が高いスヴァルと、護衛のマリスも既に待機している筈だ。

 リクと共にそこへ向かうカイリは女性らしい柔らかな線に似合わぬボディアーマーの上から、何やらごそごそと探っている。

「どっか怪我してるんですか?」

「いえ、違うの……拳銃が無いみたい。ヒアデスに盗られたのか、それか倒れた弾みに落としちゃったのかしら。ドッグタグも無いし」

 探しに行こうと思ったのか、後ろを振り返るカイリをリクは制止した。

「見つけてもらえますって。ヒアデスに逃げられて、デルタフォースの精鋭四人を焼き殺されたときたら、陸軍の調査班が押しかけてくるに違いないんだ。そいつらが拾って、返してくれますって」

「そうね。こんな装備でうろついてるのを、近所の住民に目撃されるわけにもいかないし……。ああもうあたしってば、失態ばかりで嫌になるわ」

 作戦はワーストケースを遥かに超える失敗に終わったのだ。緊急出動要請の下ったらしい海軍によって、アルデバラン邸一帯は封鎖された。

 ヒアデスは何処に逃げるつもりだろうか――リクはカイリを励ましながら暗い星空を見上げ、いつかの夕食の席で聞いたスヴァルの話を思い出す。牡牛座の赤い一等星、アルデバランは恒星が近接した二重星だと言っていたか。そのうち一つは地獄に堕ちた。

 だがもう一つはまだ、燃える憎悪を抱いたまま闇夜に潜んでいる。


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