§2
日付が変わる頃に吹き始めた風で、黒い波は落ち着かなげに騒いでいた。
闇に沈んだ高級住宅街の一画、プライベートビーチを有した広大なアルデバラン邸は、空気の流れから取り残されたように密やかだった。
準州知事邸を警備している準州兵は、アメリア軍司令部の命令で退けられている。邸内の電気系統、警報装置はアメリア軍に通じているメンテナンス、ドスの手引きで既にデルタフォースが掌握していた。
アイアンレースの見事な裏門の前に、デルタフォース一個分隊の兵士が集結している。ナイトビジョンマウントを搭載したマットブラックのヘルメット、ブラックのボディアーマーは完璧に影と同化していた。
リクがその装備を羨ましそうに眺めている。特殊部隊と歩兵師団では支給される装備が異なるからだろう。
裏門からグリークリバイバル様式の白い邸宅まで、芝生が長く緩やかな弧を描いている。その上を併列縦隊のフォーメーションで兵士達が駆けて行くのを、テイトは待機するバンの中から見ていた。
デルタフォースの目的は、準州知事とその息子の確保のみ。彼らが呪術の使い手である事は、恐らく知らされていない。ホワイト大佐が超常力を信用していない以上、デルタフォースにそれを警戒しろと伝える筈もない。テイトはその点を懸念していた。
デルタフォースの兵士達の認識は、民間人を二人取り押さえるだけの事である可能性が高い。大使館人質占拠事件等で用いられるべき特殊作戦軍の精鋭が何故、テロリストでも犯罪者でもない政治家一家の身柄確保に駆り出されねばならないのか。そういった心の隙を、悪意はよく嗅ぎつけるものなのだ。
「邸内に突入した模様です」
バンの運転席からカイリが報告してくる。デルタフォースの無線連絡を、梶原分隊の待機するバンにも流してもらっているのだ。
デルタフォースのような特殊作戦分隊は、指令が漏れるのを恐れて作戦展開中は自国や現地の言語を使わない。今回はドイツ語が用いられており、看護師としてドイツ語に馴染みのあるカイリが状況を中継している。
邸内からは何も聞こえない。明かりも点かない。ぬるく湿った風と、遠い波の音が窓の隙間から入り込んでくるだけだ。
「マリスは、スヴァルさんから離れるな」
低く小さなリクの声がした。暗いバンの車内を、声の方へと複数の視線が集中する。
「了解」
「何とかの何とか法が出来るなら、おまえの役割は俺の後方支援じゃない。スヴァルさんの護衛だ」
「了解」
マリスの返答は落ち着いていた。既に何度も交わされた確認である上に、自信もあるのだろう。
三年ぶりに隠形術を成功させた日から一週間が経っていた。その間に安定して確実に成功出来るよう、マリスが隠形術を繰り返したり、阿字観瞑想したりしていたのをテイトは知っていた。
「リク君、摩利支天の隠形術ですよ。後輩の十八番を覚えてあげて下さい」
それが何とかの何とか法で済まされてしまうのが不憫で、やんわり注意する。
すぐに、くっと吹き出す声がした。こんな笑い方をするのはこの隊に一人だけ、スヴァルだ。
「テイト、リクは覚えてるけれど、わざと言わないんだよ」
「そうなんですか?」
とテイトの内心を代弁したのはマリス。マリスもすっかり引っかかっていたようだ。
「尾行を撒かれたささやかな当てつけなんじゃないのかい、リク」
「P.T.増やすの禁止されましたからね」
スヴァルの指摘は図星だったらしく、リクの口調は悔しそうだった。ぴりぴりと緊張していた隊の雰囲気は少しほぐれたものの、テイトの心は晴れない。
スヴァルの人間観察眼は、クローンとして養われた技術なのだ。それをスヴァルが自覚して利用しているであろう事が、ますますスヴァルの人間性を奪っていく気がしてならない。
その時、カイリが挙手で一同の発言を制した。突入部隊からの無線連絡が入ったようだ。
「二人の身柄確保に成功したようです」
邸内は、梶原分隊に引き渡す――デルタフォースの連絡を受け、テイト達はバンを降りた。
中継役のカイリを運転席に残し、アルデバラン邸の裏門を抜ける。細い月の下、黒々と広がる芝生の上を邸宅へと向かった。
安全のためと着込んだ軍支給のボディアーマーは、一昔前の防弾プレートを挿入するタイプと違い、ケプラー繊維と呼ばれる軽量素材で出来ている。ケプラー繊維は被弾の衝撃を繊維全体で吸収するため、二、三発を連続して受けると防御能力を失う。だがリクの半分も筋力のないテイトにとっては、軽いというだけで有難い代物であった。
それでも慣れない装備を早く外してしまいたいと願いながら、テイトは歩を進めた。
裏門と邸宅との中程に差し掛かると正面玄関の扉が開き、デルタフォースが姿を見せた。
隊員達が構えるサブマシンガンの先は、二つの影に突き付けられている。触れてくる銃口から神経質そうに身を離すのがヒアデス、その後方で肩を落とし足元のおぼつかない者がアルデバラン五世だろう、とテイトは判断した。
騒音も混乱もなく身柄確保を達成したデルタフォースの働きを労ってやらねばならない。
テイトがそう思って足を早めた時、突如として鋭く低い声が空気を裂いた。
「臨、兵、闘、者、皆、陣、烈、在、前、ノウマク サマンダバザラダン センダマカロシャダ ソワタヤ……」
デルタフォースの隊員達は、誰が何を喋っているのか見当を付けられなかったらしい。瞬時に緊張を漲らせ、周囲を見回している。
だがテイトにはその声にも、その修法にも、その真言にも聞き覚えがあった。つい先刻まで、病人そのものな弱々しい姿であったアルデバラン五世だ。薄暗闇と距離のために確認出来なかったが、刀印と共に九字を切ったに違いない。
そして続く不動明王の中呪、これは不動金縛り法だ。
テイトの心臓が喉元に跳ね上がる。
恐らくデルタフォースはアルデバラン家が用いる呪術を知らず、また病み上がりと侮って、アルデバラン五世の拘束を身体の前での手錠に留めたのだ。密教修法における必要条件は真言の誦呪、そして印契。身体の前の手錠では、アルデバラン家の呪術を封じたことにはならない。
不動金縛り法は霊縛法であり、本来は怨霊の動きを止める目的で用いられる。だが生身の人間に対しても効力を持ち、相手の動きの一切を縛り付ける。
アルデバラン五世はデルタフォース一個分隊を不動金縛りにかけ、逃亡を企んでいるのだ。
「……サラバタタギャテイビャク サラバボッケイビャク サラバタ タラタ センダマカロシャダ」
ようやくデルタフォースが声の主をアルデバラン五世と判断し、銃口を定めながら黙れと警告を発するのが聞こえた。
しかし、誦呪されているのは既に大呪であることにテイトは気付いていた。すなわちそれは、不動金縛り法が完成に近いことを示している。
止めなさい――そう叫ぼうとしたテイトは、不意に後方から強く腕を引かれた。制止したのはスヴァルだ。スヴァルはテイトの手首を掴むと、掌をマリスの肩に押し付けた。そのマリスはひどく真剣な顔で印を結び、小さく何事かを繰り返している。
「オンマリシエイソワカ、オンマリシエイ……」
一心不乱に呟かれているのは、摩利支天の真言のようだ。マリスが隠形法を試みていることに気付いたが、テイトにはその理由が見当たらない。金縛りをかけようとしているアルデバラン五世と梶原分隊には、広い前庭半分の距離がある。いかにアルデバラン五世の呪力が強くとも、霊縛法がここまで及ぶとは思えなかった。
それよりアルデバラン五世を止めなければ、デルタフォースが危険だ。そう主張しかけたテイトを、マリスの強い視線が黙らせた。テイトはそこでようやく悟る。マリスが隠形法で回避しようとしているのは、不動金縛り法ではない。その次に来ると予想される何かだ。
「センダマカロシャダ ソワタヤ ウン タラタ カン マン――不動明王、緊縛」
テイトの背の遠くで、不動明王金縛り法の完成を告げる声がした。振り返ると、棒立ちのデルタフォースの間を細身の影が一つ、勢い良く走り抜けていく。正門へと向かったその影がヒアデスであることは、スヴァルに瓜二つのシルエットで容易に判断出来た。
逃走するヒアデスを追おうと、リクが動く。危険だ、とテイトは察した。ここからヒアデスを追うには、庭の中央を横切らねばならない。金縛り法の次の一手から逃れるには、走って裏門に後退しても間に合わないと判断したからこそ、マリスは隠形法を唱えているに違いないのだ。
瞬時に同じ判断を下したらしいスヴァルが、リクの腕を掴んだ。そして先程テイトにしたのと同様に、その掌をマリスの肩に触れさせている。そして自らもマリスの肘に手をかける。
もう一つの影はとテイトが首を巡らすと、アルデバラン五世は玄関ポーチに留まっていた。
「不動迦楼羅火焔界」
一週間前に心臓発作で倒れたとは思えぬ力強さで裏密の呪術者が唱えると、その足許から炎が湧いた。それは翼を広げて二羽の鳥の姿となり、弾けるように飛び立つと地表すれすれを一気に滑った。軌跡が炎の筋となって残り、闇夜を紅く焚き染めだす。
不動明王の像容は、背に迦楼羅焔を負っている。迦楼羅とは貪、瞋、痴、すなわち欲、怒り、愚痴の三毒を食らう火の鳥のことであり、不動明王が背負う焔はこの迦楼羅が吐く炎の意匠である。
その迦楼羅は正門を抜けたヒアデスの背後で二手に分かれると、アルデバラン五世を中心とした邸内を瞬時に楕円に切り取った。
迦楼羅の飛跡である炎の円周は、裏門のすぐ内側まで達していた。迦楼羅火焔界に取り込まれ、テイトの背筋を寒気が駆け上がる。アルデバラン五世の結界内に、デルタフォースと共に捕らわれたのだ。
マリスは何と言っていたか。一週間前の作戦会議で裏密の奥義について訊ねた時、こう言ってはいなかったか。
『――は修験者の荒行、火渡りの修行として知られています。が、霊力の強い者が行なえば、火焔で張った結界内の生き物を骨も残さず焼き尽くすと――』
「……センダマカロシャダ ケン ギャキギャキ サラバビキンナン ウン タラタ……」
「……マリシエイソワカ、オンマリシエイソワカ……」
後方では朗々たるアルデバラン五世の誦呪が続いている。やはり不動迦楼羅火焔界を張っただけで済ます気はないらしい。一方で、マリスも聞き取れないほどの早口で摩利支天の真言を唱え続けている。
『骨も残さず焼き尽くすと――』
あらゆる災厄から陽炎のように身を守るマリスの摩利支天隠形法が間に合わなければ、デルタフォースもろとも生きたまま荼毘に伏されることになる。テイトの身震いを感じたのか、スヴァルは空いていた手でテイトの肩を掴んできた。
「大丈夫だ。マリスの誦呪は、神速だからね」
泉摩利守はプレアデス計画において、必要不可欠の存在です。そう力説してホワイト大佐を説得した当人、スヴァルはじっとマリスを見下ろしていた。その横顔は落ち着いている。
渇望していたプラントの外の世界、クローンでなく人間としての身分、人生、命。それらが文字通り灰にされようとしている瞬間だというのに、スヴァルは動揺を見せなかった。
『私は未使用で捨てても誰も痛手を蒙らないどころか、使う事なく処分した方が望ましい一個のクローンに過ぎないんだ』
自分の人生にも命にも一切の決定権を許されないクローンは、命を誰かに委ねることに慣れているのかもしれなかった。テイトは胸を詰まらせる。この男を、そんな底無しの諦観の囚虜にしておくわけにはいかない。
マリスの肘を、そこに軽く添えられたスヴァルの手ごと、テイトは両手で握り締めた。何が起きても摩利支天の加護、その神兵であるマリスの修法を、スヴァルが受け損ねることのないように。
「テイト……」
緩く微笑んだスヴァルと目が合う。スヴァルの唇が「あ」の形へ開かれた瞬間に、マリスの凛とした声、そして背後から響く低い呪詛がそこに被った。
「……オンマリシエイソワカ、摩利支天隠形」
「……ウン タラタ カンマン、不動明王火生三昧」
轟音が鳴り渡り、テイトの視界は紅蓮に焼き尽くされた。