§5
「マリス、疲れているようなら午後か、別の日にするが」
朝から何度も細い膝からがくりと力が抜けてしまっている事に、スヴァルは気付いていた。女性は買い物が大好きらしいが、それにしてもマリスにモールを歩き回る余力があるようには見えなかった。
「いえ、大丈夫です」
「もしかして今日も筋トレが厳しかった上に、四マイル走ったのかな?」
リクに対して口元で微笑んで、視線で咎めてみる。テイトに、尋問する警察官が容疑者を殴る寸前の笑顔と評された顔だ。案の定、リクは後ろめたそうに視線を逸らしている。
「リク。私は明日一日、テイトの講義を受けねばならない。マリスにも同席してもらう。君はその間にゆっくり反省するといい」
つまり、講義の間はカイリとリク、二人っきり。何度も瞬きした後でそこへ行き着いたらしく、リクはぽかんと顎を落とした。
「さて、出掛けようか。君を撒いてしまわないよう、気を付けないとね」
「撒けるもんなら撒いてみて下さいよ、スヴァルさん」
にやりとリクが返してきた。作戦終了後、カイリとの接触は断たれる。なのに近付こうとするのは、軽い遊び心というよりリクの純粋さなのだろう、とスヴァルは思う。カイリに相手にされずに、拗ねてマリスに八つ当たりする子供っぽさも微笑ましかった。
自分はヒアデスにならない限り、恋愛をする身分にない。せめて他人の恋を応援してやるだけだ。リクと挑戦的に指差し合って笑いながら、スヴァルはそう思った。
見立てて頂きたかっただけですと言い張るマリスをなだめて、明るいオリーブ色のワンピースをプレゼントした。スヴァルがさらにアイスクリームを食べようと提案すると、マリスははっきりと呆れた顔をした。
「strict vegetarianがいいんですか? こんな、卵も牛乳もたっぷり入ったもの食べたりして」
「いいんだ。私自身はベジタリアンではないし、どんなに似ていても、これで私が真面目すぎるほど真面目で知られるヒアデス・アルデバランだと思う人はいないだろうからね」
過激なロックバンドのTシャツに、破れたジーンズ。目元を覆う、透けない反射加工が施されたミラーレンズのサングラス。そして女の子と連れ立ってアイスを頬張っていたら、知事の息子ではないかと疑う者はいないだろう。
普段のスヴァルは上品な無地の服を着るため、マリスにはこの市街偵察用の服装が見慣れないようだ。Tシャツの派手な模様をちらちら盗み見ては首を傾げるマリスに気付いて、スヴァルは面白くて仕方無かった。
ふと、アイスをすくうマリスのスプーンが大人しくなった。
「スヴァルさん、申し訳ありませんでした。修法は出来ないと嘘をついたり、反抗的な態度を取ったりして」
買い物は口実で、これを言いたかったのか。スヴァルはミラーレンズの向こうで恐縮しているマリスを眺める。陳謝を繰り返されている内に、テイトがプロジェクト・ダブルを話したのだと思い至った。
「謝ることはない。何にせよ私の動機は正しくないんだからね。私は自分が生きるために、ヒアデスの死を望んでいるんだ」
「それはスヴァルさんのせいじゃありません。クローンを作った政府の……」
「私はクローンじゃない。ドッペルゲンガーなんだ」
ドイツ語のドッペルは英語のダブルに当たり、自分のドッペルゲンガーに会ったら死ぬと言われている。
プロジェクト・ダブルのクローンがプラントから放たれた時、それは本体の死を意味する。そして本体の残りの人生を乗っ取る。ただのドッペルゲンガーよりたちが悪いんだよ、とスヴァルは笑ってみせたが、マリスは沈痛な面持ちのままだった。
「物着星を知らなかったマリスは、客星は知っているかな? 例えば彗星のように、通常は目に見えないのに突然現れる星の事だ」
「スヴァルさんが博識すぎるんです」
途端に拗ねた顔でアイスを突付き回すマリスが可笑しい。スヴァルは頬杖をついて、クール・ビューティがすっかり崩れ去っている様子を堪能する。
「客星、御座を犯す。ぽっと出の平民が王座を狙うという意味だ。盗んだ遺伝子で王族になろうとしている私にはぴったりだと思わないか」
「冗談にしては自虐的です」
真面目に怒っているようだ。だが急に、アイスを崩すのに忙しかったスプーンが止まった。いいことでも思いついたか、不意に差し向けられた黒目は楽しげな光を含んでいる。
「今日はローマの休日ってことにしませんか。スヴァル王子は身分を隠して、散歩したりアイスを食べたり」
平和すぎる気がする。とは言え、確かにヒアデスに成り代わってしまえば、呑気に女性の買い物に付き合ったりアイスを食べたりすることは出来なくなる。前払いの休日と言えなくもない。
何よりマリスが場を和ませようとしてくれているのが嬉しくて、スヴァルは話に乗ることにした。
「成る程。それなら、私はringerかとあなたに問いただしてみてもいいかな?」
「ringer?」
あの映画を英語で観た事はないのかい、と聞くとマリスはもじもじした。
新聞記者のジョーがスクープのためにアン王女の写真を撮らせようと、同僚のカメラマンを呼び出すシーンがある。到着したカメラマンは、驚きながらこう問うのだ。
『Hey, er, anybody tell you you're a dead ringer for...』
あなたはアン王女のdead ringer、生き写しのようだと言われた事はないか。そう言おうとしたが、アン王女だと認識していない振りをしたいジョーは、カメラマンをテーブルの下で蹴る。
一方のアン王女はdead ringerが分からない。そして礼儀正しく、カメラマンの発言を最後まで聞こうとする。
『Tell me, Mr. Radovich, what is a ringer?』
ringerとは何ですか?
『Oh. Er, it's an American term, and it means anybody who has a great deal of charm.』
わたしの国の表現ですよ、ringerとは魅力に溢れた人のことです――ジョーはそう言ってアン王女を誤魔化した。
スヴァルが説明すると、マリスは自分もdead ringerという単語を知らなかったと頬の端を染めた。マリスがスヴァルにringerかと問いただされたら、映画のシーンを汲んで、あなたは魅力的な人ですと答えなければいけなかったことにも気付いたようだ。
崩壊したアイスを一すくい失敬してから、スヴァルは身を乗り出してマリスの耳元に囁く。
「やれやれ、ローマの休日をしているのはマリスの方らしい」
モールの広い通路を、駐車場を目指して歩く。
ブランドショップの袋を抱えて収穫に顔をほころばす女性観光客。片手に風船、片手に母親の手を握る小さな子供。その横でどっさり荷物を抱えさせられている父親。
スヴァルは彼らと自分を隔てているミラーレンズが一生、心から外せない事を知っていた。こちらからは見えても、向こうからは決して覗く事は出来ないのだ。
「王座や知事の椅子など、燃やすまでに解体の手間がかかる分、ただの薪より価値が無い」
すれ違う手を繋いだ恋人達を見やりながら、スヴァルは呟いた。
「だが私には、その薪より無価値な椅子しか座るものが無い。ああして普通の市民として、顔や身分を偽らずに歩けたらどんなに解放的だろうね」
そのまま数歩進んでから、マリスが黙ってしまったことに気付いた。つい愚痴を零して、困らせてしまったようだ。
詫びようとした矢先、マリスが毅然と顔を上げた。更に肘にマリスの腕が通され、スヴァルは言葉を飲み込んだ。
「三年間やってませんから、成功するか分かりませんけど」
すっと息を吸い込んで、マリスは目を瞑る。細い指は胸の前で幾つも印契を結んだ。最終形は、軽く握った左の拳の上に指を揃えた右の掌を乗せたもの、摩利支天印だ。
秘法が行なわれようとしているのに気付き、スヴァルは息を詰める。
「オンマリシエイソワカ、オンマリシエイソワカ……」
よくよく聞いてから、スヴァルはそれが摩利支天の真言だと察した。だが、唇の先だけのような鋭い呟きはあまりに速い。スヴァルはテイトの教材として、真言が誦呪されるのを何度も聞いていた。そのどれよりも速い。
何十回と繰り返しているようだが、スヴァルには最早それが何回目なのか見当も付かなかった。
「……オンマリシエイソワカ。摩利支天、隠形」
やがて開かれたマリスの目の静謐さに、スヴァルの腹の底から快感に似た身震いが湧き起こる。
先刻まで服の色に悩み、アイスを突付いていた少女はそこに居ない。一瞬にしてマリスの周囲だけが神域に切り取られたように澄んで、一切の邪が打ち払われたようだった。
風も無いのに、マリスの長い髪がふわりと揺れる。天女の姿を取る事の多い摩利支天像とマリスが、スヴァルの目の奥で重なった。
見惚れていたスヴァルは、ばたばた騒がしく駆け付けて来る足音に我に返った。尾行して警護している筈のリクだ。愕然として周りを見回している。面前に立っているスヴァルを、リクの慌てた視線は完全に通過している。
「大きな声を出さないで下さい。姿が消えても、声は聞こえてしまいます」
印を結んだままマリスが背伸びをして、スヴァルに耳打ちした。そこでスヴァルはやっと、マリスが摩利支天の隠形法を成功させたのを知る。二人の姿は今、リクにも誰にも見えていないのだ。陽炎が神格された摩利支天の最大の利益、陽炎のように消える隠形の術。
「今ならサングラスを外しても、誰も気付きません」
促されて、スヴァルはゆっくりとミラーレンズのサングラスを外す。通りすがりの親子連れに手を振ったり、観光客の進路を妨害したりしてみるが、誰もスヴァルに目を向けない。スヴァルの存在を感知していない。
辺りをおたおたしていたリクが携帯を操作し始める。スヴァルの持つ携帯は圏外を表示していた。リクは電源が入っていないか電波の届かないところに、という案内メッセージを聞かされたらしく、舌打ちしている。
「スヴァルさん、すみません、急に見失ってしまいました。何処にいるか連絡を下さい」
留守電にそう告げて携帯を切ると、リクは焦った様子でまた駆け出して行く。その後姿を見送って、スヴァルは笑いを堪えるのに必死だった。
「リクには悪いけれど、このまま少し歩いてもいいかな」
「はい。でも印が解けたら術も解けるので、ゆっくり歩いて下さい。それからわたしから離れたらスヴァルさんだけは見えてしまいますので、必ず何処かに触れていて下さい」
マリスとスヴァルは腕を組んだまま、通路を歩き出す。ヒアデスと同じ顔を晒していても、誰も振り返らない。見向きもしない。グアヌ準州民であろう男性店員の顔を覗き込んでも、一瞥さえされない。
「ありがとう、マリス」
スヴァルの腕がマリスの肩を抱く。
「私は今までヒアデスのクローンとしてしか認識された事がなかったんだ。私自身さえ、そうしていたかもしれない。でも今は……こうしてすれ違う人達と同じ、ただの一市民の気分でいるよ」
精神集中を崩さない程度に小さく、隣のマリスが微笑んでいる。スヴァルの願いを耳にして、封印していた筈の密教修法を復活させてくれたのだ。スヴァルは迷わず身を屈め、マリスの白い頬に唇で感謝を伝えた。
「え……」
動揺した顔が仰ぎ見る。その指が結んでいた印が崩れた。
「予告無く消えたりするな! 俺は本当に、本当にビビったんだ!」
帰途の車の中、リクは大声でまくし立て続けている。マリスが繰り返した謝罪の回数はもう二桁に達していた。
「何とかの何とか法が出来るんなら」
「摩利支天の隠形法です」
「その何とかが出来るなら、最初から報告しろ!」
マリスはリク側の肩をすくめている。耳元で怒鳴られ、脳に響いているらしい。
「申し訳ありません。でもこの三年間は出来なかったんです」
「私がマリスに頼んだんだよ、リク。驚かせてすまなかった」
すまないと言っている割に、スモークガラスの後部座席にいるスヴァルは上機嫌だった。
「だがそう言う訳だから、君には約束通り一週間、私と同じ完全菜食主義の食事をしてもらおう。マリス、今日の夕食から早速、リクにもベジタリアンフードをお願いするよ」
私がリクを撒く事が出来たら肉を断つ賭けをしたんだよ、とスヴァルが説明した。リクはこの世の終わりみたいな顔をしている。
はいと返事をしながらマリスは、リクに見えないように窓側を向いて笑いをこらえていた。
「スヴァルさーん、せめてフライドチキンは許して下さい」
命乞いの必死さで、リクが嘆願する。肉食のリクにとっては断食に等しい刑罰らしい。
「駄目だ」
「じゃあターキーブレストハムだけでも!」
「往生際が悪いな。ああそれから、この腹いせでマリスのP.T.を増やしたりしないように」
呻いてから、リクは分かりましたと絞り出す。その時、話がまとまるのを待っていたかのタイミングでマリスの携帯が着信を知らせた。
「はい。あ、カイリさん。今から戻るところで……」
鋭く振り返ったマリスはもう笑っていなかった。一瞬にして全感覚が起動されたような軍人の顔。
「どうした」
「アルデバラン五世が心臓発作で病院に運ばれたそうです。ホワイト大佐はすぐにヒアデスとスヴァルさんを入れ替えるよう、要請してきたそうです」
リクが黙ってアクセルを踏み込んだ。