§1
「今宵が満願の夜」
墨染めの僧衣を纏うと、男は闇と融合してしまいそうだった。だが憎悪と執念が燻る蒼い目は、墓地に漂う人魂のように幻怪な光を放っている。
昼間は色彩の宝庫たる南国の砂浜も、夜になれば深黒に沈んで空と海の区別もつかない。人払いされたこの私有地では虫までもが息を潜め、風までもが避けて通り、星までもが瞬きを止めているようだった。
「導師をお助け出来ず、申し訳ございません」
僧の向かいに立つ青年が呟いた。墨染めでなく臙脂色の僧衣だが、闇夜の中では大差無い。
「大祇師一人でも修法は執り行える。お前が贄になり、血脈が絶えることだけは避けねばならん。戻るが良い」
「――やはり、導師が御自ら贄に?」
男はぐっと顎を引いて肯定を示した。
「調伏に贄を供犠せねばならんのは、お前も承知の筈だ。我が一族の長きにわたる悲願のためならば、私は喜んで人身御供ともなろう」
漆黒に瑠璃が重ねられた青年の瞳は、所在無げに足許をうろつく。
「父上が御供になられたら、私は一人でどうすれば……」
「まだ死ねん。あの星が天の中心となるまでは」
力強くそう言って、男は星空を見上げた。彼らの間であのと称される星は一つしかない。天上で十三番目に明るい恒星。牡牛座の中央に位置する赤い星は、牡牛の目とも、心臓とも呼ばれる。
「アルデバランは王家の星。必ずやまた輝きを取り戻すだろう。我々の手で」
黒衣の僧は青年に背を向け、白布で大きく囲われた幕の中へと姿を消した。そこには青年が昼間のうちに調えた儀式用具がある。炉に入火されたのであろう、ぱちぱちと音が立ち、白煙が夜空へ昇り始める。やがて読経が始まった。
「オンシュチリキャラロハウンケンソワカ……」
今夜は一週間を費やした祈祷の最終日である。明日にでも彼らの祈願は成就するだろう。そして青年の父も遠からず命を落とすことになるのだ。
青年は牡牛座を見上げる。赤く輝くアルデバランの隣には、散開星団ヒアデスが控えている。つと、その星団を断ち切るように星が流れた。同じ牡牛座にある星団プレアデス、すばるの方角からだ。
「……嫌な兆候だ」
火の粉が闇空に舞い上がる。風に乗れば星になれると勘違いしているかのようだ。願いが届かず失速し、熱を消されながら朽ちて行くその姿を、青年はじっと見ていた。